谷口雅春先生ご夫妻の思い出

仙 頭 千恵子

 みなさま、ありがとうございます。今日、みなさまとこうして、御一緒に谷口雅春先生、輝子奥様の思い出をお話させて頂くことを神様に、 谷口雅春先生ご夫妻に、みなさまに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。

 前回の時には、私は宇治本山の智泉荘で谷口雅春先生ご夫妻をお迎えしました時の思い出をお話させていただきました。今日は長崎の本山の総裁邸での先生ご夫妻のご様子を思い出しながら、お話をさせて頂きたいとおもいます。

 私には、あまりにも沢山の素晴らしい思い出を、残していただいていますので、どのお話をさせて頂こうかなと思っておりましたら、四、五日前ですけれども、主人がこのペーパーを持ってきてくれたのです。

 それは『めざめゆく魂』と題して、谷口輝子奥様が随想を纏められていた御本の中の抜粋でした。それは主人がハワイに居ますときに、朝の講話の資料として、ワープロに打ち込んでいたものでした。それを私に見せてくれたのでした。

 拝見しまして、以前にも拝読して感激をいたしましたが、この度も読ませていただいて胸が一杯になりましたので、これに添わせて頂きながら、思い出の話をさせて頂こうと思っております。

 これは、輝子奥様が、「白鳩」誌昭和十二年におだしになったものですけれども、この時のご心境は大正九年、二十五歳でいらっして、谷口先生とご結婚なさった時の懐かしい思い出をお書きになっていらっしゃるのですね。ちょっと、読ませていただきます。

 「心貧しく物も又、貧しい私達夫妻が、ただ求むるものは神の心を生きていく生活であった。一冊の書を共に読み、読んでは互いに感激を語り、不信を探し、共鳴を悦びあった。何はなくとも、ただ魂の喜ぶ道を歩もうと、一切の持てるものを捨てて、我らが人々への奉仕に、生涯を捧げようと夫は言った。妻は激しい喜びに胸躍らせてそれに答えた。私は二十五歳であった。
 
 五感に触れる喜びを捨て去ることこそ、神の御心に叶うと信じた私達は、ひたすらに苦難の道を進もうと誓った。隣人に捧げて生きる所に、魂の本当の喜びが生まれるのではないか。

 この世の栄えを滅した所に、神の栄えを持ち来すことがかなうのではあるまいか。自己を空しくして良き仕事に没入していくところに、神を見出すのではあるまいか。一枚の綿の衣に縄の帯を締めた夫が進めば、妻は喜んでその後に従った。半身を埋める深い雪の中を一本の傘に身を入れて、夫妻は良き仕事の為にとて、いくたびか雪に足を取られながら、助け合って進んでいった。

 『神よ! 御心に叶わばこれを成さしめ給え』。私達の祈りは聞かれるであろうか。真の御心は何処にいますか。私達は外にと神を求めて果てしなかったのであります。」

 これが大正九年、二十五歳の時の輝子奥様のご心境を思い出されながら、昭和十二年の「白鳩」誌にお載せになった。それが『めざめゆく魂』の御本の中に、集められていたのでございますね。

 で、この二十五歳でいらっしゃった時は、大本教に居られたわけでございますよね。それから、三年程は大本教に居られたのですけれども、私はあのお二人が、深い雪の中を一本の傘をさされながら歩まれるお姿――、人生の深い雪の中を――共に助け合われながら、「神よ!神よ!」と探し求めておられましたお姿が目に浮かびます。

 谷口雅春先生ご夫妻は、ご結婚の初めからこのような御心境のご夫妻でいらしたのです。このご文章を読ませて戴きながら、私共は昭和四十五年から四年半ばかり、ハワイに行くご使命を頂いて、私も主人について光明化運動のために行かせていただいていました。

 それから四年半たちました時に、長崎の総本山が出来まして、其処に総裁公邸が出来上がったのでございますね。その時に谷口雅春先生から身に余る勿体ない御言葉を頂いて、「私達の側に帰って来てほしい」と、おっしゃっていただいたので、ハワイの皆様とおわかれして、一年程総裁公邸に居らせていただいたことがございます。

 その時はまだ、先生と奥様は東京に居られましたから、九州に御巡錫にお二方でいらしたんですね。その時は総裁公邸にお泊まりになられました。ある時、谷口先生はまだ次の御巡錫予定がおありになり、輝子奥様だけがお別れになり、東京にお帰りになるスケジュールになっていたのでございます。

 輝子奥様は大村空港からお発ちになりますので、私は輝子奥様のお供をして、車に乗せていただいたんです。その時に、総裁邸でございますから、車寄せがございます。上には屋根が御座いますけれども、そこに車が来まして、輝子奥様がお乗りになって、私は輝子奥様のお隣に座らせていただき、いよいよ出発しょうとする時で御座いました。家の中から谷口先生が飛び出してこられたのでございます。

 その時は、昭和四十九年の二月頃で、お外はチラチラと雪が降っておりまして寒い冬の日でございました。総裁公邸の中は暖房が通っておりますから温かいので、谷口先生は浴衣のお姿で素足で、玄関のたたきの下駄をはかれて、いそいで輝子奥様のお乗りになっていらっしゃる車の傍らに「母さん、母さん」といって、寄ってこられたのでございます。

 そうしましたら、輝子奥様はスウーッとウインドウをお開けになりまして,「お父さま!」とお手を出されて――、もう、そのお姿があまりに熱烈でいらしたものですから、私はお隣に座らせて頂いていて、ただ呆然とびっくりして座らせて頂いていました。言葉もでませんでした。お邪魔をしてもいけませんので――。そうしましたら、「あのー母さん、元気でね。いってらっしゃい。」「お父さまもお元気でね。」そしてお別れになったので御座います。

 輝子奥様が、ウインドウを閉められながら、こうして先生にお手を振られ、先生もこうして手を振られました。寒い時でございましたが、暫くして家の中にお入りになったのでございます。私は車が御門を出るまでの間、言葉も出ませんでした。そして、車が御門を出まして国道を走りはじめた時、「先生と奥様の本当に素晴らしく、お美しい御夫婦愛を見せていただき有難う御座います」と申しあげたので御座います。

 そうしましたら、輝子奥様が、「ねえ、先生はいつもあんなのよ。」とおしゃられまして、「朝お出かけになって、夜お帰りになる時でも『母さん!行って来るね』と、もうね、一晩しかお泊まりにならない時でも、十年もうんと長くでもお別れになるみたいに、お別れをね、惜しんでくださるのよ。」「あら、そうでございますか。御馳走さまでございます。」

 弟子の私が本当に感激しながら、輝子奥様のお隣に乗せて頂いて、あの『めざめゆく魂』の、大正九年の初めからの美しい御夫婦愛を、かいま見させていただいたような感激の一駒でございました。

 車が長崎の方向と大村空港の方向に行く分かれ道に来ました時、「あっ、こちらから先生が行かれるのね。」と、そっと輝子奥様がおっしゃたのでござます。車は大村空港へと向かったのでございますが、輝子奥様の御言葉の中には「お父さま!お元気でね、ご無事でね。」というお気持ちを強く感じさせていただいたことを思いださせて頂いております。

 それから一年程しまして、私達はまたハワイに行くことになったのでございます。そして、その翌年に、谷口雅春先生御夫妻は長崎にお引っ越しをされたので御座います。輝子奥様は、東京を離れるのを寂しいと思っておられたご様子でした。私どもは、ハワイにおりましたが、長崎総本山の落慶の時も、その他のお祝いの時にも帰らせて頂いては、総裁邸に御挨拶に伺っておりました。

 昭和五十三、四年の頃だと思いますが、全国大会に私共がハワイから団体で参加致しました時のことです。谷口雅春先生がお風邪を召されて、ちょっとお弱りになっていらしたことがありました。あの時に、参加された方でお気づきになられた方もあるかも知れませんが、演壇の上で体をかがめながら、やっと耐えられて、大会が全部終わるまで、私達をご指導して下さったことがあったので御座います。

 大会が終わりましてから、私共はあちこち生長の家の施設を見学して、最後に九州本山に行かせて頂きました。その時には、谷口先生はもうお元気になっておられました。私共が総裁邸にご挨拶にお伺いいたしますと、谷口先生と輝子奥様が待っていてくださいまして、お居間で色々と思い出話とか、その他を楽しくお話をさせて頂いたのでございます。

 その時に、翌年にブラジルに御巡錫されるご予定がおありになったのでございます。谷口先生が「あの、ブラジルにね、来年行くことになっているんだけど、なかなかスケジュールがまだこないから、仙頭君、本部に行ってね、あの予定をちゃんと立てるように――。そう、君について来てほしいんだよ。」と仰っしゃったのです。

 「はい」と、主人はお返事をさせて頂きましたけれども、私はその時に、全国大会で、谷口雅春先生が、ちょっとお風邪を召されておられた時のお姿が、目に浮かびましたので、「先生、どうぞブラジルがおありですから、お元気になってくださいませ。」と申し上げましたら、輝子奥様が先生の横に座っていらしたんですけれど、先生のお耳が少し遠くなられてましたので、「お父さま!千恵子さんが、どうぞお元気で!って言ってますよ。」と、取り次いで話されました。

 そして輝子奥様が「そうなのよね。お父さまにね、この間のようにお弱りになってはいけないから、『お父さま!ブラジルがあるでしょ。』と、お尻をポンポンと、いつもたたくのよ。」と、私におっしゃって下さったので御座います。私は「そうでございますか。じゃ、どうぞ、おおいにお願い致します。」と、お願いしてその年は帰らせていただきました。

 それから、二、三年しましたら、今度はハワイの実相センターの建設がいよいよきまりました。その年に総裁邸にお伺いしましたときに、谷口先生が「ブラジルには行けなかったけれども、ハワイには行けるねー。」とおしゃったのでございます。以前に輝子奥様がおしゃったお言葉をフト思い出しましたので、「奥様!今度はハワイよ、お父さま、ハワイがあるでしょと、いってお尻をポンポンとたたいてくださいませ。」と輝子奥様にお願いしましたら、また、それを取り次いで下さいまして、「お父さま!千恵子さんが、お尻をポンポンとたたいて、ハワイがあるでしょって言ってますよ。」とおっしゃり、谷口先生が頷いて下さったのを思い出しております。

 谷口雅春先生御夫妻が第一回の海外御巡錫(注記・昭和三十八年三月十日に日本を御出発されて、七カ月の世界御巡錫)の時の事で、輝子奥様が『忘れ得ぬ悲しいあの頃』と題されて、「白鳩」誌・昭和六十二年七月号に、お載せになっておられます。それはアメリカのデンバーでの出来事でした。四月十四日,市のヒプス公会堂で谷口先生の講演会があることになっていました。そのヒプス公会堂の裏の公園の丘の芝生に腰を下ろされていた時のことです。

 その時に、谷口雅春先生が、何故かしら疲れたような表情をされて、両足を投げ出しておられました。「母さん」と呼びかけられて、そのまま御言葉が切れたそうです。実は、谷口先生がその日の朝、血尿をだされたのでした。でも、その夜の御講演もいつものようにお元気でおえられました。その後のことを次のように書いて居られます。

 「夫の講演は常と変わりなく元気に進行し、聴衆の大拍手のうちに終わった。その夜から、私は夫への祈りがはじまった。夫は好きな入浴は一日も欠かすことなく行われた。温まった体をベットに横たえている夫の傍らに坐って、腎臓のあたりに手をのせて、私は一心になって祈った。夫の肉体は完全であることを黙念して祈った。 夫は最初は、『母さん有難う』と言われたが、次第に私の存在を忘れて、安らかな鼾をして居られた。」

このような状態の日々が続きまして、ロサンジェルスの安保さんの家に三週間宿泊されての御巡錫の時も、輝子奥様は「完全円満の肉体で、一切のスケジュールを、予定通り立派に遂行できる」と一心に祈り続けられたのでございます。

 輝子奥様の御文章によれば、「夫が安らかな眠りに入られると、私も入浴するつもりでいたが、それから、その日の肌着や足袋の洗濯をして、その日一日の生活状態を原稿用紙に書き終わると、私は疲れ果てて入浴の意欲を失ってしまう日もあった。

 明くれば、毎日毎日が朝五時前の起床である。夫婦は、一日も欠かさないで神想観を向かい合って行じ、朝食後は何かと準備をして、毎日毎日、一日の休みもなく出かけるのであった。」このようにされて、谷口先生御夫妻は、このあとペルー・ブラジルへと向かわれたのでございます。

 六月一日にペルーにお着きになり、宿舎にお入りになった時のことを、輝子奥様は次のようにお書きになっておられます。
 「部屋にはいると、夫はすぐにベットに横になられた。そばに寄り添って見つめている私に、『母さん、僕はもうあかん。ブラジルへ行かないで日本へ帰ろうか』『とんでもないことです。ブラジルどころかヨーロッパへいらしゃるんですわ。神様がお申しつけになって、ちゃんと護っていて下さるんですもの』『そうだったね。大丈夫だった』   

 私は強い言葉をかけながら夫を見つめた。すっかり疲れ切った様子だった。私は足早で洗面所へはいって行った。涙が溢れて止めどがなかった。こんな顔を夫に見せてはならないと唇を噛んだ。」

 輝子奥様が心を鬼にして、先生を励まされ、そして洗面所に行かれて、お泣きになったそのお姿の中に、輝子奥様の慈愛に満ち溢れた尊い本当の妻のお姿を拝して、感激を新たにするのでございます。輝子奥様は谷口先生を生涯の師と仰がれ、夫と尊敬されて影の形に添う如く、生きて来られたのでございます。

 また、『めざめゆく魂』の御本の中に、このような御文章がありました。これは「白鳩」誌・昭和三十七年のものです。このご文章を読ませて頂きます。

 「春の晴れた日であった。美しい青空を仰いでいると、外へ出てみたくなって来た。夫にそれを言うと,、『連れて行ってあげようか』と、心よく賛成してくださった。私は半年ぶりで門の外に出て、ふらつく足で野に歩いて行った。疲れて来て、百姓家の積み藁に体をもたせて、足を投げ出していると、そのあたりにはタンポポが一面に、黄色い花を咲かせていた。私は身を起こして、タンポポを摘み始めると、夫も摘んでおられた。」

 そうして、谷口先生が「僕は嬉しいよ。あなたが外を歩けるようになったのだもの。外を歩く日などは、もうないかと思ったこともあったものね。」と、おしゃったそうでございます。

 「何に入れたのか、夫はタンポポを抱きながら、しんみりと言ってくださった。夫も私も涙ぐんでいた様だった。家に帰って、タンポポをゆでて、おひたしにして二人は食べた。初めての外を歩けたという喜びも手伝って、タンポポはとてもおいしかったことを忘れはしない。」

 このご文章は、大正九年、二十五歳で輝子奥様はこの時は、心臓弁膜症で、もう寝たきりの様な状態でおられた時のものですね。この頃、谷口先生は、朝早く露が乾かない草の上を、裸足で歩いたらとても心臓に良いという話だから、ということで輝子奥様に寄り添って、お歩きになられたお話も、思い出に聞かせて頂いたこともございました。

 また谷口先生が、おみそ汁を作って下さったときに、輝子奥様が何かふーと気分が悪くなられた時などに、谷口先生はそーっとテーブルの下に、おみそ汁を隠されるようなお話も聞かせていただいておりました。谷口先生御夫妻は、このようにご結婚されて六十七年ぐらい、いたわり合い乍ら御一緒に生活をされたわけですね。

 その間、輝子奥様は「お父さま、ブラジルがあるでしょ、ハワイがあるでしょ、世界光明化があるでしょ」と、お尻をおたたきになっても、谷口先生は輝子奥様に「母さん、母さん」っておっしゃりながら、いつもお二人で、心の中で励まし合っておられましたことが、私にはすごくなつかしい、思い出になっているので御座います。

 もう一つだけ、お話をさせていただきます。それは谷口雅春先生がお亡くなりになる三年位前だったと思うので御座います。総裁邸のお居間ではなくて、玄関の近くの応接間に通して頂いた時のことで御座います。応接間に入りますと、谷口先生と輝子奥様ガ、ソファに腰を掛けて居られました。私どもは、先生のお側でカーペットの上に坐らせていただきました。出来るだけ先生のお側にいたいものですから――。合掌させていただきながら、お話を色々聞かせていただいていた時のことでございます。

 もう、楽しく楽しく、お話が弾んでおりましたけれども、谷口雅春先生がソーッと「あのネー、仙頭君!老衰っていうのはね、なってみなければ分からないもんだよね。」って、しみじみと主人に、話かけてくださったのです。その時、私は突然に、先生がしみじみとお話をなさっておられますのに、私は相変わらずこのような気性でございますから、「先生! あのー老衰ではなくて、老熟でございますね。」って、こう申し上げて、先生に向かって申し上げることはいけないと思うので御座いますが、その時は、思わずこのような言葉がでたので御座います。

 それは、何故そのような言葉を申し上げたかと云いますと,『聖使命新聞』に谷口雅春先生が色々と神示のお話をお書き下さっていますところに、「人間には老衰はないのだ。老熟である。」とお書きくださっているところを、読ませて頂いたばかりでございました。  

 谷口雅春先生が総裁邸で、しみじみと、「仙頭君なら、七ケ月間、僕の供をしてくれて、僕の元気だった頃のことを知ってくれている。今の僕は、もっと書き残したいこともある。でも、今のこの自分の、この現象の肉体は、それが適わないのだよ。君なら分かってくれるね。」って、先生がーなんというのでしょうか、本当に七ケ月間の海外御巡錫のことを思い出しなが、弟子の主人にお話くださったのだと思います。

 私はその時には、『聖使命新聞』のことしか思わなかったものでございますから、「先生!老衰なんておしゃらないで下さい。老熟でございますよね。」って、なまいきなことを申しあげたのです。

 そうしましたら、輝子奥様がお側から、先生のお耳の近くに、「先生!御父さま!千恵子さんが、老衰じゃなくて、老熟でしょって、言ってますよ。」って、こうおしゃったんで御座います。谷口先生は、頷いて居られましたけれど、輝子奥様もやっぱり「お父さま!老衰なんておしゃらないで下さい。千恵子さん、いいことを言ってくれたわね。」って、いうお気持ちで、先生の耳もとでおしゃってくださったかも知れません。

 私は、なにしろ世界中の皆様の為に、皆様を代表して、「先生!老衰じゃなくて、老熟ですよね。」って、生意気なことを申しあげましたけれども、現象の肉体でいらっしゃる谷口雅春先生は、本当にまだまだ、世界中の皆様のために、あれも言い残しておきたい、あれも語り尽くしてあげたいというお気持ちで一杯でいらしたと思うのでございます。

 谷口雅春先生御夫妻は,六十七年間もの間、本当に手に手を取り合って、お尻をポンポンとたたかれたり、時には谷口先生が輝子奥様を賛嘆されたり、時には輝子奥様が心を鬼にして先生を激励されて、そのあとそっと涙されたり、常にご夫婦が寄り添われて六十七年のご夫婦の素晴らしい生活をお過ごしになられたのでございます。 

 谷口雅春先生も今から十六年前に天界にお帰りになり、輝子奥様も今はおられませんけれども、尊い御教えを私達に身をもってお伝え頂きましたことを感謝しながら、今日はこれで、お話を終わらせていただきます。有難う御座いました。

                                           (おわり)

 

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