谷口雅春先生を偲び、感謝を捧げる言葉
−キャンドル・サービスの時に−

    仙 頭    泰

○生長の家の神示は三十三あります。そのなかに多く出てくる言葉は「完成の灯台に灯を点ずる」という言葉であります。ここに生長の家の大きな使命を感ずるのであります。神示には「生長の家」とは、神が付けた名前であり、大宇宙の別名であると示されています。また生長の家の教えは大宇宙の神理であると示されてあります。

○谷口雅春先生は、この神理を人類に伝える使命をもってこの地上に誕生された方であります。昭和4年、1929年12月13日、深い瞑想に入っておられたとき、神から四つの啓示を受けられました。
「生命の実相を知れ」「人間神の子」「今即久遠」「天地一切のものと和解せよ」
この神啓により、谷口雅春先生はご自分の全生涯を神から授けられた啓示を全人類に宣布するために捧げられたのであります。

○この時の御決意は「生長の火を掲げて」(人類光明化運動発進宣言)に書かれてあります。それ以来五〇年あまり、谷口雅春先生は、自分自身をローソクの如く燃やし続けられ、「人間神の子」の人類無罪宣言をされ、万教帰一の旗印のもと、神の人類光明化運動を地上に展開されたのであります。

○谷口雅春先生は、御巡錫の時でも、列車の中で、飛行機の中で、原稿をお書きになり、聖経をお読みになり、神に祈りを捧げられたりしておられました。先生のポケットには何時も聖経「甘露の法雨」が入っていました。宿舎で夜、神想観をされたあとに、随行員としての私は翌日の打ち合わせの為に、先生のお部屋に伺うことになっていました。その時に何時も不思議に思うのは、部屋中に言葉で表現できない清浄なすがすがしく、神々しい雰囲気が満ちあふれていることでありました。

○谷口雅春先生の求道の姿勢は、「詳説神想観」の「はしがき」につぎのように示されています。「神想観は神授のものであり、私自身も、これによって尚、修行中のものでることを申添えて置く」と述べておられます。谷口雅春先生は「われに従え」とは云われたことはないのであります。「わたしの指さす先の月を見て前進せよ」と云われ、常に「われは神のラッパなり」と言われ、先生ご自身が精進しておられたのであります。

○谷口雅春先生は常にみ教えを行持つづけられ、先生ご夫妻の周りからは、常に人々を癒す不思議なオーラーがでていました。はじめての海外七ケ月間のご巡錫の時のことであります、行く先々で聖書にあるイエスの奇跡と同じようなことが、また「聖経」にあるごとく「めしいは眼を開き、あしなえは立ち上がる」ことが起こったのであります。
例 ロスの福岡さん、 アワモリ・ムギナイ氏の娘、モルモン教会のお天気、
サントスの輪の祈り、ヨーロッパでの祈り、国連でのこと、インカの空港での 少女、ローマでの招神歌、ニユーヨークの教会での話、ユメで癒された市長
    など数々の実話

○谷口雅春先生は英語でもお話をされました。話に感激した聴衆は、帰りしなに先生に握手を求め、力をこめて手を握るために先生の掌が腫れたこともありました。

○海外御巡錫の主役は谷口雅春先生であり、他の何人も代わりは出来ないものでありました。ご巡錫日程も過密なものでありました。パリーで日本から来た国会議員のグループに会った時のことです。お互いの日程を見せ合ったその時に、彼らはこちらの日程を見てこの計画は殺人的なきびしい日程だ」と言って驚いたものでした。

○これは昭和38年3月10日に日本を出発して米大陸、カナダ等の各地を巡り、4月14日デンバーで夜、町のヒプス公会堂で講演の予定がある時のことでした。この公会堂の裏の公園で昼、休んでいるときのことです。谷口雅春先生が輝子奥様に、「今朝血尿がでた」と告げられたのです。先生は「心配しなくてもいいよ」と言われましたが、奥様は胸がドキドキされました。このことは随行員にも知らされていませんでした。

○その夜から輝子奥様は、ホテルに帰りベッドに横たわっておられる先生の傍らに坐して腎臓のあたりに手をのせて、「夫の肉体は完全である」ことを一心に黙然して祈られました。このような状態の日が続き輝子奥様は「完全円満の肉体で、一切のスケジュールを、予定通り立派に遂行できる」と一心に祈りつづけられたのであります。

○ 旅行中でも、毎日朝5時前に起きられ、ご夫婦で向かい合って神想観をされ、朝食後は何かとその日の準備されて講演に出かけられるといった、休みなき毎日でありました。六月一日はロスを出発してメキシコ、ペルーと講演されました。その頃、谷口雅春先生のお体の調子は最悪でありました。輝子奥様はその時の様子を次の如く記録されておられます。

◇ 部屋にはいると、夫はすぐベッドに横になられた。そばに寄り添って見つめている私に、
  「母さん、僕はもうあかん。ブラジルへ行かないで日本へ帰ろうか」
  「とんでもないことです。ブラジルどころかヨーロッパへいらっしゃるんですわ。神様がお申しつけになって、ちゃんと護っていて下さるんですもの」 
  「そうだったね。大丈夫だった」

◇ 私は強い言葉をかけながら夫を見つめた。すっかり疲れ切った様子だった。私は早足で洗面所へはいって行った。涙が溢れて止めどがなかった。こんな顔を夫に見せてはならないと唇を噛んだ。ブラジル滞在の三カ月、谷口雅春先生は一日として休まれる事無く既定の計画通りに講演をされたのである。そうしてヨーロッパへ行かないうちに出血は止まっておられたのである。

○このことは輝子奥様が『白鳩』誌・昭和62年7月号に「忘れ得ぬ悲しいあの頃」と題して書かれたご文章であります。このご文章の結びには次のような言葉があります。
 「夫は神様の御用をして居られたのであった。神様は御用をしている者はちゃんとお  護りくださっていたのだった。」 

○七カ月にわたるご巡錫が無事に終わり、明日はアンカレッジを通過して日本に帰るという外国における最後の夜をフランスのパリーで迎えました。海外に於ける最後の晩餐であります。谷口雅春先生ご夫妻と随員とで乾杯をして、長途の旅が恙なく終わったことを神様に感謝しまた。先生と私はビール、輝子奥様と徳久博士はコカコーラでありました。

○この時に米国のスミソニアン博物館で見た、イエスの最後の晩餐の絵が私の目の前に浮かんだのです。先生への感謝の言葉を出そうとしても、胸がつまり言葉が出てきませんでした。その時、谷口雅春先生が「仙頭君!」とポツンと呼ばれた。そして次のような言葉を述べられました。

○「あのね、物事は困難が多ければ多い程、やりあげた後の悦びは大きいものだよね。」とポツンとおっしゃったのであります。

○今にして思えば、輝子奥様の手記にあった出来事は巡錫途次ではご夫妻以外は誰も知らなかったことであり、パリーでのあの夜の先生のお言葉が改めて胸に強く響くのであります。

○谷口雅春先生が帰天される二〇日前のご文章が「実相と現象」と題する本の「はしがき」であります。その中には重要なことが多く述べられていますが、その中でも次ぎのご文章を紹介しておきます。

◇ 「図り知れない神のはからい、摂理、お導きに、谷口は十二分にお応えし得たでろうか、この九十余年の生を以て些かの悔いることなく尽くし得たであろうか、と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。
そして谷口に賜った神々の大いなる恩寵に、唯々感謝合掌、悦びが、悦びの波紋が見渡す限り拡がる様を、心眼に拝するのである。

◇ 諸賢が本著に親しまれることにより、"聖なる求め"を放棄することなく、日に日に高きを望み、深きに入り真理を体得せらんことを、神に代わり切に切に望むものである。」

○谷口雅春先生の限りなき御導きに感謝申しあげます。
                    有難うございます。

(終わり)

 

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