宗教的啓示

仙頭 泰 (元生長の家ハワイ教化総長)


  谷口雅春先生は「理想世界」誌・昭和34年8月号につぎのように書いておられます。
「およそ宗教的啓示というものは、宇宙の本源たる『唯一の心』なる神から、波長が最も適切に同調する教祖的人格に対して与えられる霊的教示であります。すべての良き宗教の教祖は、おしなべて、いろいろの修行の結果、その精神状態が"宇宙の本源"(神)なる『唯一の心』に同調し得る境涯及び瞬刻限に達し、その境涯及び瞬刻限において閃きいでたる啓示を祖述するものなのであります。

 教祖はその限りにおいて神の教えを語り伝える"語る部"の役目をします。しかし神はその時代、その国土、その民衆の伝統などに調和したすがたをもって教えをしなければ、民衆を導くことが出来ませんから、ある程度、その時代、その国土の民衆の思想に"迎合"します。迎合と言っては表現が完全ではありませんが、民衆に適する程度に、真理の表現を"緩めて"説くのであります。

 従って或る時代の或る民衆に適する宗教でありましても時代の進展とともに、その緩められたる表現が、次の時代の民衆に適しなくなるのであります。そこにその宗教のつまずきがあらわれて来、民衆の心を打たなくなるのであります。そして次ぎに、もっと時代の民衆の心にアッピールする宗教が出現することになるのであります。」

 皆さんは既に「神真理を告げ給う」という本を知っておられることと思います。この本の「はしがき」のなかで、谷口雅春先生は「"わたし"とあるのは"神"御自身のことであって谷口のことではない。なるべく神が告げ給うた言葉の調子を文章にあらわそううとしたのであるけれども、表現力足らずして充分にはそれはできなかった」と書いておられます。

  この本の「第一章 宇宙及び人間の創造について」のはじめのところに、次ぎの様なことが述べてあります。この文章の中で「わたし」とあるのは神御自身のことであると明示してあります。
「"わたし"は今まで多くの教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。君たちのうちには熱心に真理を色々の書物を読み、色々の学者の説を読み、色々の学者の説を読み、それに基いて思索をし既に人生の意義を知ることが出来た人もある。

 しかしそんな人は非常に稀であって、大抵は自分の偏見や既成概念の中を迂路チョロしていて、悟ったつもりで実際は悟っていないか、真理なんて求めても到底得られるものではないのだという絶望感で、"聖なる求め"を放棄している人もある。そのような人達に"わたし"は今再び真理を知らせてあげたい愛念によって、今此処に谷口雅春を通して真理を説こうと思うのである。」

 私たちはこの御文章の最後のところに、注目をしなければならないのです。神が今再び真理を私たちに知らせたい為に谷口雅春先生を選ばれたことです。遠い二千年、三千年前に神がイエスや釈迦を通して真理を人類に伝えられたそのままではなかったのです。今この世で谷口雅春先生を選ばれて、私たちに真理を教えていて下さることが実に素晴らしいことなのであり、神の深い御愛念なのであります。

 さらに続けて、この本を読んで行きます。この本のなかに、神が今まで、宗教の教祖とか碩学、哲人に宿り、人々を導くために"わたし"は書いたり、説いたりしたことを示しておられます。つまり真理は常に神から来るものであり、人間の脳細胞から生じたものでないことを示しておられます。この場合に人間を通して神が真理を人々に伝えることになるのですが、その人に在来の先入観や薫習などがあり、真理そのものが、多少歪められ、賦彩(いろづけ)されて、"純粋なる真理"そのままであることは、難しい場合もあることが示されています。

 神はこれについて、高い段階の悟りに入った人でない限り、"純粋な真理"よりも多少、賦彩(いろづけ)された真理の方が一般の人々に分かり易いことを示しておられます。そこで次のお言葉を拝読いたしましょう。

 「しかし"本当の教祖"というべき"真理の啓示者"は"実相世界"にある"神"のみである。イエス・キリストも『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』といっているし、谷口雅春も、"自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある"といっているのである。

 しかし"わたし"は或る時期が来たと判断したのである。"わたし"が直接、君たちに話してもよいと思われる時期が来たのである。それは、もう『生長の家』誌が発行されて四十三年も経て来たし、『生命の実相』の本も既に千三百万部も超えて読まれたのであるから、全部の人間ではないが、ある人たちにとっても、更に"本当の真理"を賦彩(いろづけ)のない純粋な真理を話してもよいという適当な時期に来たと思うのである」

 この「神真理を告げ給う」の御本の「はしがき」には、「昭和四十六年四月十八日 著者しるす」と、残されております。私達は本当の人間は「神の最高の自己実現であり、霊的実在である」このことを心の底からしっかりと自覚することです。谷口雅春先生のお話の中に次の様なものがあります。

 或るタバコのみが、タバコを吸っていました。ところがタバコの煙がモウモウと立ちこめまして、眼の前が見えなくなりました。それでそのタバコのみの人は、タバコを持った手を一生懸命にふって、その眼の前の煙を払いのけようとしましたが、眼の前の煙は一向に消えてなくなりません。

 それどころか、眼の前の煙をはらいのけようとして手を振れば振るほど、眼の前がモヤモヤとなるのです。ところが、タバコを持っていない手で、眼の前の煙を払いのけますと、スーッと消えてなくなりました。このお話は簡単ですが、その意味は深いものがありますので各自でよく味合ってください。生長の家では、例えば不良の子供を良い子に導く時に、「この子供は悪い子供だから何とかして良くしてやらねばならない」と云った考え方で、色々と子供に注意しても子供はなかなか良くならないのであることを教えています。
 
 その理由はこの現象世界は、心に描いたものが現れてきますし、観ずる通りに物事は現れてきます。ですから、この子は悪い子だと心の中にハッキリと認めておいて、良くなれと云っても良くならないのは当然のことであります。そこで、この子は本来神の子で完全円満で良い子であると、その実相の完全なる相を観じきる時に相手の神性、佛性の素晴らしさがこの現象界に現れて来るのであります。この「実相の完全円満なる相(すがた)を観じきる」、このことが大切なことであります。

 谷口雅春先生の「生命の実相と申候こと」と題する御文章をもう一度繰り返して読んでください。私たちのまわりには、自分が実相の完全な状態を観じきった程度に従ってその完全さが表現されることになります。それ故に私たちは「常不軽菩薩行」に徹底した生活をすることが必要なのであります。さて神の存在については聖経「甘露の法雨」の中で、明解に示されておるのであります。つまり神は宇宙に遍満する創造の原理であり、法則であり、私たち一人一人の中に内在し給う神であります。

 聖経「甘露の法雨」の中には「実相の世界に於いては、神と人間とは一体である」ことが明示してあります。神の國は私たちの内にあり、常楽の国土も私たちの内にあり、このことを自覚する時に私たちの環境に常楽の国土が、その映しとして顕現すると示されています。そこで、この「映しの世界」を浄めるにはどうすればよいか、それは心の原版を浄めて、迷いの汚点を除けばよいのであります。この様にして私たちは常に無限向上の道を神と共に歩み続けるのであります。

 私たちは、この世の生活が終れば、肉体と云う繭を食い破って一層自由自在な世界を天かけるのであります。人間の本体は生命であり、永遠に生き通して光の道を歩み続けるのであります。神の栄光は常に私たち一人一人の上にあります。神と共なる自分を忘れないためにも、私たちは生長の家のピンを胸につけ、また聖経「甘露の法雨」を何時も携帯して生活して行きましょう。

                            (終わり・244−4)


「業績とエピソード」へ戻る

「総合目次」へ