当たり前を喜べる人

仙頭 泰(元生長の家ハワイ教化総長)


 この表題は「自然流通の神示」のなかに出てくる言葉であります。谷口雅春先生は、この神示の「『生長の家』は当たり前の儘でその儘で喜べる人間にならしめる処である。あるゆる人間の不幸は、当たり前で喜べない為に起こるものであることを知れ。当たり前で喜べる様になった時、その人の一切の不幸は拭い取られる」と云うところは、素晴らしい宗教的真理が実に平易なる言葉で説かれているのであると、述べておられます。

 谷口雅春先生は、悟りと云うものは観念の遊戯ではなく、真理を生活に実践することであると教えておられます。禅宗では、坊さんがお掃除もするし、食事の支度もする。これら日常生活の当たり前の仕事をすることが修行になっていたのであります。行と云うと、何か特別のことをする事だと思う人が多いのですが、行とは日常生活のことであります。この日常生活の中に悟りがあるのであります。

 禅宗の五代目の祖師は弘忍和尚であります。この弘忍和尚も段々と年をとり、法嗣者をきめておかねばならないと思いました。そこで弟子達に向かって「我と思わん者はその悟りの心境を書いて、壁に貼りだして置け」と云われました。そうしましたら、神秀(しんしゅう)と云う一番上座の弟子が自分の悟りの心境を壁に貼り付けました。それには次の様に書いてありました。「身はこれ菩提(さとり)の樹、心は明鏡の台のごとし、時々勤めて払拭(ふっしょく)して塵埃を惹かしむる勿れ」と書いてありました。

 つまり、この身体と云うものは菩提(さとり)と云う果(み)を結ぶ樹のようなものだから大切にしなくてはならぬ。心と云うものは、明鏡(即ち輝く『仏性』)をのせる鏡台の様なものだ。「仏性」と云う輝く鏡のような立派なものをのせる鏡台には、一寸ほこりがついてもすぐ目立つから、よく勤めて時々これを拭いて、埃の積もらないようにしなければならない。つまり常に自己反省として修養することが大切であるといった意味であります。

 五祖の弘忍和尚は、これを見て「ああ、さすがに神秀は素晴らしい悟りである」と云って弟子達の前で大いに褒められました。夜になって神秀の部屋へ行かれて、この悟りはまだ多少現象に捉われたところがあって、実相を直接把握したとは言えないと云って指摘せられたそうであります。さて、この神秀の貼りだした紙を読んで米搗き男の恵能(えのう)は、「なんじゃあんなもの、あんなものは本当の悟りではないや」と、ブツブツ云っているのです。

 それで、他の弟子達が「そんなら君の心境を書いて出したらどうだ」と云いました。「そんならわしの心境を書いて出してくれないか」と云って、小僧に書いてもらって、神秀の書いた言葉の隣りに貼りだしたのです。それには、「菩提(さとり)は本(もと)、樹に非ず、本来の無一物、何ぞ塵埃を払うことを仮らん」と書いてありました。
 ここに注意しなければならないのは「菩提は樹に非ず」と「菩提」というものと、肉体とをハッキリ分けたことであります。また「明鏡は台に非ず」と、本来、明らかなる鏡は台ではない。鏡は鏡であって、台ではないとハッキリ分けたところにあります。肉体と云うものは、本来無一物で、物質と云うものは一つもない。あるものは実相ばかり、本来鏡の様な佛の心ばかりが実在であるから、その"そのままの心"を、そのまま本当に出しさえしたら、拭くことも、なんにもいらないのだと云うのが、この恵能の悟りであったのであります。

 これは現象の悟りではなく、実相直視した悟りであります。この尊理を、恵能はただ米をついていただけで、体得したのであります。本来の実相がそのまま現れたら、毎日どうして塵埃を払わねばならぬことがあるか。塵を認め、悪を認め、それを善くしようと思って、その「悪」を心で捉えて放さないでいると「悪」は心でつかむものだから、かえって出て来るのであります。「悪」を認めず、一切を放下して、佛のいのちそのままになったならば、本来の清浄なる実相が現れて来るのであります。

 この「神そのまま」の心が崩されて、何とか善くしたいというのが「智慧の木の実」を食べて、エデンの楽園から追放されたところのアダムの心であります。子供の教育でも「この子供は悪い奴だから、何とかして善くしなければならぬ」と思って、色々と人間知恵を出してすると「そのまま」が崩れて、かえってその子供は反抗的になってしまうのです。「そのままそこに、佛のいのちの子供がいるのだ」と分かって、その子供の完全なる実相をジッと心の目で見つめて拝めばいいのです。

 人間知恵の「計らい」というものが消え、「計らわないところの計らい」というものが出てくると、それは本来一体なる「実相」からの内部的催しでありますから、もうどこにも衝突すると云うことが出てこなくなるのであります。実相の内部的催しに支配されていますと、毎日乗っている通勤電車でも、それが衝突する様な時には、丁度その電車に乗らなくなったり、またその電車にどうしても用事が出来て乗れなくなって、自然とその衝突事故から遠ざかる様になるのであります。

 谷口雅春先生は、また次の様にも説明しておられます。道場に精勤して、先師の講義を聞き、「悟った、悟った」などと思いあがりながら家事を放置し、部屋の掃除も出来ていないような悟りは、悟りではない。悟りとは何処か、天上にでも、遠くあるのではないのです。「此処」に「今」あるのです。「道」と云うものは「今」あるところから常に出発するのであります。「今」を十分に生かさないでいて、遠くに道を求むるなどと云うことはあり得ないのであります。「今」即「久遠」であり、「今」の生活に「久遠」が内在するのであります。

 柳の葉が「今」緑であるのは、そこに「久遠」の生命が開いているのであります。チューリップの花が「今」紅であるのは、そこに「久遠」の生命が咲いているのであります。自分の住む部屋の廊下や、机や、床の上の掃除が行き届かない様なことで、久遠の真理をいくら弁舌爽やかに説教してみたところで、そんな弁舌の中には「久遠」の生命は、花咲いていないのであります。百合の花もチューリップの花も、説教せずして「今」を行じ、それによって「久遠」を花咲かせているのであります。

 一つをすら生かし得ないような者は、万事を生かすことは出来ないのである。「食事をしたら、その後始末をせよ」と、弟子に教えた禅の老師もあります。この様に日常の小さな事までも教えられながら、なお実相が悟れないようなことでは、天地に轟く大梵鐘の音を聞きながらも、心の耳が聾しているために、瓶を叩いた音がしていると誤認するようなものであります。

 谷口雅春先生は、「灯(ともしび)はすでに火であること」「人間は既に内に無限能力を有する霊的実在者だ」と云う根本自覚を得ることが最も大事なことであると述べておられるのであります。聖書のヨハネ伝第四章・35.36節には、つぎの様に書いてあります。「イエス言い給う、なんじら収穫(かりいれ)時の来たるには、なお四月ありと言わずや。われなんじらにつぐ、目をあげて畑を見よ、はや黄ばみて収穫(かりいれ)時になれり。刈る者は、価を受けて永遠(とこしえ)の生命の実を集む。」

「灯(ともしび)は火である」「始めから成仏しているのが人間である」。それを悟れば、価を受けて、永遠の生命の実を収穫するのであります。「持たずして持つ」――何物も自分の物はない。すべてのものは神様のものであります。人生も神様のもの、この身体も神様のもの、この心も神様のもの、この生命も神様のもの、ありとしあらゆるものすべて、神様のものならざるはないのであります。

そして神様の生命の中に融け込んで神様の生命の循環に任せ、逆らいがなく、大宇宙の法のそのままに自然に動いて行く時、そこに本当の流通無限の自由自在の生活というものが現れて来るのであります。「自然流通の神示」の結びの言葉は、次のようになっています。「当たり前の人間になることが大切である。当たり前の人間のはかに神の子はない。」

                          (終わり・235―7)


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