谷口雅春先生を語る 仙頭 泰 |
有難うございます。今日は谷口雅春先生について、お話をさせていただきたいと思います。 谷口雅春先生のことにつきましては、小野泰博氏の著書に『谷口雅春とその時代』(東京堂出版)という立派な本があります。その中に、谷口雅春先生は宗教家・思想家として、同時代の人物とならべ評価されて昭和の時代以降の日本人の心に大きな刻印を残した人物の一人といってよいと書いてあります。そして更に、「谷口の思想や信仰に導かれて一生を送った人達は少なくない。そうでない人でも、谷口が広めるのに貢献したものごとの考え方、あるいは谷口が代表するような生き方・感じ方を説明すれば、何か身辺に思い当たる節があるのではなかろうか。 そのように歴史上、重要な人物でありながら、谷口について論じた書物や論文はまことに微々たるものである。たとえば大本教の創唱者の一人である出口王仁三郎について書かれたるものと比べてみるとき、谷口に対する学問的な関心の低さはいぶかしさを通り越して、不可解ですらある」と述べてあります。 私には、谷口雅春先生のご業績について論ずるようなことは到底できませんが、ただただ、思い出すままに話をすすめさせていただきます。谷口雅春先生は宗教の面から言えば、何千年に一遍といった形でこの地上に天降ってこられて、人類のために神理を説かれる方であると思います。イエスや釈迦も、人類に神理を伝える使命をもってこの地上に誕生された偉大な霊的指導者であり、預言者であります。ここで云う「よげんしゃ」は、「預言者」であって、つまり神のみ言葉を神から預かり、人々に伝える使命をもってこの地上に誕生した人、という意味で、単なる「豫言者」のことではないので、間違えないで下さい。(註・預と豫とは、発音は同じでも字が違うと意味も違うことに注意してください) 谷口雅春先生は、「無為にして化する」という方ででありまして、海外御巡錫のお供をして、ニューヨークの国連本部に行った時のことです。先生御夫妻が国連の内部を見て廻られた時に、外国の人達が、先生御夫妻を見て「あの方は、一体どういう方なのですか。」と、尋ねるのです。谷口先生御夫妻から出る、雰囲気・オーラーが全く違うというのです。側に居るだけで、心が安らぐというのです。 あのような雰囲気の方が世界的な指導者として、沢山、出てこられたならば、世の中は本当に平和になりますねと、こういうことを言っておりました。二十一世紀は、人間の徳育が問われる世になりますね。人間は、賢いだけでは駄目です。其の人にどれだけ徳があるかが問われる時代になりました。 今日は、谷口雅春先生が、昭和五十七年〔一九八二年}十二月号の『動向』誌に投稿されました、「耿耿の言」・《教科書に日本の誇りを》と題する御文章からはじめます。朗読いたします。
大東亜戦で、たしかに日本軍は、東南アジアに進撃した。しかし進撃した地域は、英領、米領、蘭領、仏領等であり、いずれも既に白人諸国によって侵略され尽くした植民地バカリデアル。フィリピンとか、マレーとか、インドシナとか、ビルマとかいっても、それは単なる植民地の地域名に過ぎず、日本軍が一時占領したのは、白人の侵略領土そのものであった。侵略地を解放のため、『進撃』した。これがどうして『日本の侵略』といえるだろうか。 白人諸国は、日本を撃滅後、直ちにこれらの領土を元の姿に取り戻そうとしたが、そうは行かなかった。一たび日本軍の進出によって白人の支配からの擺脱、すなわち独立の味をしったかれらは、二度と植民地住民たることを肯んぜず、一斉に民族独立の旗を挙げはじめた。 東南アジアは全域にわたり、果敢な独立戦争のるつぼと化した。この独立戦争には日本の残留兵士も多く参画している。東南アジア住民が独立国としての国名をもつに至ったのは、この時以後である。もちろんインドも独立した。白人侵略国はその殆どすべてを失った。十六世紀以来の世界侵略史に終焉の日がやって来たのである。 もしも日本の進撃がなかったならば、どうしてこのような世界地図の塗りかえができたであろうか。日本軍、それは『天兵到る』といっても過言ではあるまい。 日本は、英、米、蘭、仏と戦ったのだ。その戦場が東南アジア地域であり、住民中、侵略国側に駆り立てられたものが、戦火の犠牲となったことはやむを得ない。しかしこれをもって全般的に日本軍から受けた損傷というのは真実を歪曲するもので、現にインドシナ、マレー、ビルマその他には、今でも日本軍に親愛と信頼感を持っているものが多数存在する。『日本軍の残虐』を殊更に言い立てるものは、華僑の多いシンガポールなどに限られており、日本によって独立をかち取ったとする正当な認識は、冥々裡に東南アジア大多数の人々の胸奥にひそんでいるに相違ない。 これを思えば、日本人は自虐どころか、大いなる誇りをもって事実の検証に当たるべきである。 そもそも二十世紀前半までは、白人の有色人種支配の世界であって、この世界秩序が容易に覆るものではないことは、何人も思念するところであった。が、案外に脆く崩壊した。天地がひっくり返るほどのこの大動力はどこから起こったのか。一言にして尽くせば、それは日本である。 日本という國がゆくりなくも極東に勃興した。そして日露戦争でロシア帝国と一戦を交えて勝った。このことは単に日本、朝鮮、中国を侵略の危機から救ったばかりではない。欧州最大最強のロシア帝国自体が、このために崩壊の端緒を開いた。延いては白人支配の威信は失墜し、まずインドが目醒めはじめた。爾後、ヨーロッパの沈衰が目に見えて来た。第二大戦を経て、ついにピリオドを打つことになったのである。 世界歴史は日本が変えた。日本なしに世界の全有色人種の独立と自由はあり得なかったのだ。 だれが何といおうとも、わが日本および日本人が、世界史に銘刻した偉蹟は永遠に払しきされないものであり、われわれ自身、これを子々孫々にまで伝え残さねばならぬ義務がある。 すなわち、日本教科書には、何を措いても、誇りあるこの事実をこそ特筆大書すべきだが、わが文部省は一体何を考えているか。」 この御文章は、今を去る二十年前に谷口雅春先生は世界の状勢と日本国内の状勢のあり方について、このような警告を私達に与えられたのであります。皆様のご存知の通り、日本は歴史教科書の問題で揺れ動いております。中国、韓国などの態度は、完全なる日本に対する内政干渉であります。それに対して、日本政府や政党関係者、外務省の役人などには、あちら側に迎合する発言、態度をとる人が現にいると云うことです。『主権国家・日本は何処にありや』です。 このままでは、愛する祖国日本は、この地上から消えてなくなり、今の日本国は何処かの國の植民地となり、日本国民は流浪の民になるかもしれません。このような日本国家の危機の時こそ、切実に、谷口雅春先生が生きておられたらなあーとしみじみ思われるのであります。 このような時であればこそ、偉大なる霊的指導者であられた、谷口雅春先生を追慕し、その御功績を讃え、私達もこの現世に於いて、谷口雅春先生を通して、神がお与えになった宇宙の経綸を実現すべく努力をしてゆきたいと思います。 戦後、間もない頃に生長の家青年会全国大会を神田の共立講堂を借用して開催した時の事でした。谷口輝子奥様が、青年達に向かってお話をしてくださいました。お話の内容は次のようなものでした。
「ある日、お山(注記・谷口先生のお宅のこと)に徳久さん(注記・徳久克己医博のこと)が、尋ねて来たのです。そして何かの話から、徳久さんが『私は、谷口雅春先生の第一の弟子になりたい』と、言ったのよ。そこで私は『違いますよ。徳久さん!先生の第一の弟子は、私ですよ。』といったのです。そしたら、徳久さんが『奥様が第一の弟子でいらしゃいますなら、私は第二の弟子でいいです。』と言って話をしたことがあります。 ここで、今日此処に集まっておられる青年の皆さんにお話しておきたいと思います。それは『谷口雅春先生の第一の弟子』ということについてです。私が、谷口先生の第一の弟子と申しました意味は、文筆をもって原稿を書けば、谷口先生のお弟子の中で私が一番優れていると云うことではないのです。大勢の先生のお弟子の中には、私より筆のたつ方は沢山いらしゃいます。 では、お話をすることで、お弟子の中で私が一番上手だということでもありません。私よりも、お話の上手な方は沢山いらっしゃいます。では、何が、私が谷口先生の第一の弟子であるかということです。 それは、先生の為なら、いつでも自分の生命を投げ出すことが出来るということです。その意味に於いて、私は『谷口先生の第一の弟子』といったのです。」と、説明をして下さいました。私達、参加者一同は、本当に言葉で表現出来ない魂の衝撃を受けました。 輝子奥様にとっては、谷口雅春先生は、ご自分の夫であると同時に、真理の道への導師であり、心から先生を尊敬され、慕われ、「先生!」とお呼びになり、「お父さま!」と信頼の思いをこめてお呼びになられていました。谷口雅春先生は、いつも輝子奥様に対して、「母さん、母さん」と、呼びかけておられました。今、目を閉じると、輝子奥様のふくよかで、にこにこしておられるお顔が浮かんで参ります。そしてその側に、柔和なお顔の谷口雅春先生のお顔が浮かんで参ります。本当にすてきなご夫婦で、青年会員の仲間でも、谷口雅春先生御夫妻のような夫婦でありたいねと語り合い、先生御夫妻から永遠に燃える若い情熱を感じたものでした。 この青年大会の時に、若い僧侶の方が参加されていました。仏教の教義のことで何か悩んでおられました。この方が体験談の発表をされたのです。それは、神想観の実修の時のことです。瞑目合掌して、谷口雅春先生の朗々たる招神歌を拝聴している内に、体内に不思議な感じが湧いてきて、涙が溢れ「ああ、私は仏の子として、すでに救われて居たのだ」と、心の底から実感したというのです。そして、そーっと目を開けて見たというのです。驚いたことに、正面に正座瞑目合掌して居られる谷口雅春先生から黄金の輝く光線がでているというのです。そして、その光り輝く黄金の光線の糸が其処に参加している人達、一人一人と繋がっていたというのであります。 神想観の実修によって、みんなが霊的に谷口雅春先生と固く結ばれていることを知ったというのでした。神様は宇宙に遍くみちみちていらっしゃる、だから我が内にもみちみちていらっしゃるのです。『わが魂の底の底なる神よ!無限の力、湧きいでよ。』常に内なる神に呼びかけましょう。そして、今は高き霊界に還られ、全人類の光明化のために、自由自在にご活躍くださっている谷口雅春先生にも常によびかけをして、先生と一体となって日常生活での実践をいたしましょう。 神想観で思い出しましたが、イタリアに行きました時に、谷口雅春先生が神想観の指導をなさいました後、音楽大学の教授の方が、「『招神歌』の発声方法は、オペラの発声方法とおなじですね。ですから、声が後ろのほうまでも、よく透きとおって聞こえるのです。」と説明してくださいました。そして私に日本の『さくら さくら」の歌をうたって、発声の違いを教えて下さいました。今はなつかしい思い出の一つです。 神想観ですが、谷口雅春先生が実修された後、不思議なことにお部屋の雰囲気が違うのです。それは言葉では上手に表現出来ませんが、清らかですがすがしく、身が引き締まるような感じです。谷口雅春先生が御巡錫される時に何時もお供をさせていただきますので、本当に不思議だなあーと実感して、随行の山口悌治先生や、徳久克己先生達と語りあったものです。 谷口雅春先生はご旅行の時、列車や飛行機のなかでも、よく聖経をお読みになったり、神想観をなさったりしておられました。それから、色々な雑誌への原稿をお書きになっておられました。勿論、宿舎では何時も原稿を書いておられました。 原稿のことで思い出しますのは、とても原稿用紙が綺麗であったことです。と申しますのは、原稿そのものに、殆ど加筆・訂正などがなくすらすらと書いてあることです。私も谷口雅春先生の原稿を記念に頂戴してありますが、本当に綺麗な原稿です。谷口雅春先生が原稿をお書きになる時のことについては、「生命の実相」第一卷に『生長の家とわたし』と題するご文章がありますが、あの通りです。本当に、不思議な方でいらっしゃいます。 谷口雅春先生のもとには、色々と著名な方々が尋ねてこられました。今、思い出しますのは、陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地の司令部にて、割腹自殺をされた三島由紀夫氏が、自決を決行される前に、非常に谷口雅春先生にお会いしたいと、面談を申しこんで来ておられたそうです。何かの手違いで三島由紀夫氏は谷口先生に会うことなく他界されました。谷口雅春先生も、面談できなかったことを大変残念に思っておられました。 谷口雅春先生御夫妻が昭和三十八年三月十日に日本を出発されて、七か月間に亘る海外御巡錫をされた時に、世界平和のために絶対必要な「人類の潜在意識の浄化が必要であることを、世界の政治家や、学者や宗教家に訴える努力をしょうとされました。戦争は先ず「人間の心」に発生し、次いで現象界に顕れるからです。戦争を防止するためには、人間の心の中に「一つの神から生まれた一つの人類」――即ち「人類は兄弟だ 」という思想を徹底的に銘記させることが絶対に必要であると云われたのであります。 つまり戦争は、人類意識の自己処罰から生まれるのであるから、人間は罪の子であるという偽の信仰を除き、人間は神の子であるということ、即ち人間は原罪なき清浄受胎ということの自覚を通して、本来自己処罰の必要なしということを徹底的に人類の潜在意識に銘記させるということは、至上の重要性をもつものであると論じられたのであります。 谷口雅春先生は、神よりの大きな使命を感じられて、世界の各地で講演をなさいました。聖書に出てくるような奇跡が現実に色々と起こりました。気象までもです。すべての計画が人間の計らい心ではなく、自然に変化し、適応して行くのには驚くばかりでした。谷口雅春先生はこれを「円滑現象だよ。」と説明しておられました。
海外御巡錫の時、ヨーロッパの何処かで、日本から海外視察に来ていた国会議員の一行に会いました時、お互いの旅行計画の話になり、私が、谷口が春先生の御旅行日程の内容を説明しましたら、相手の人はびっくりして、その計画は殺人的な過密な旅程だと云ったことを覚えています。 しかも、その旅行の主役は、谷口雅春先生であって他の誰もが代役は絶対に出来ないものでありました。でも、結果としては完全に終了したのであります。谷口雅春先生御夫妻が、神よりの大いなる使命を受けられ、それを遂行されるお姿には、ただ合掌礼拝あるのみでした。私はフランスのパリーで、明日は七か月間の海外御巡錫を終えて日本へ帰るという前の晩のことでした。 海外での最後の晩のお食事ですので、一堂で乾杯をしました。先生と私はビールで、輝子奥様と徳久博士はコカコーラでした。「乾杯!」みんながコップを口にして飲みました。私はこの七か月を振り返って見て、どのような言葉でもって谷口雅春先生に、感謝申し上げてよいのやら分かりませんでした。ただ眼前に浮かんだのは、スミソニアン美術館で見た、キリストを囲んで弟子達が最後の晩餐をしている光景であったのです。 無事に終わった旅に感謝の乾杯をした時に、谷口雅春春先生がポツンと言われたのです。「仙頭君!物事は困難が多ければ、多いほどやりとげた後の喜びは大きいものだよね。」と。私は旅行中の色々なことが、走馬燈のごとくに駆けめぐりました。前にも述べたように、このた度の主役は谷口雅春先生であり、代役なしの御巡錫でした。谷口雅春先生は肉体をどんなにか、酷使されたことと思います。先生より、ずーっと若い私でもハードなスケジュールで悲鳴を上げそうになったこともありましたから――。 アメリカでは、レリジャス・サイエンス関係の教会で谷口雅春先生は講演をなさいました。通訳付のときもありましたし、英語だけの講演を御自分でされたこともありました。英語でお話をされた後も、集まった人々から讃嘆の声があがり、聴衆の握手ぜめにあわれたり、英文の「生命の実相」へのサインぜめにあったりされました。背が高くて体の大きい人達に、握手ぜめにされた時には、あとで谷口先生の手が腫れてしまったこともありました。白人たちに、聖書をもとにして、「人間・神の子、本来罪なし」と話される谷口雅春先生のお話から、彼らは魂の歓喜を得たのでありました。 それで、思い出しますのは、ニューヨークでのことでした。予定された教会には人が溢れ、二度にわけて講演がありました。いづれも、聖書をもとにしてのお話です。夜の部のときです。谷口雅春先生が、人間は誰でも、使命を持ってこの世に生まれてくること、あなたでなければ出来ない使命を神様がお与えになっていること、神様はあなたが生きていることだけでもお喜びであることなどを話されました。そして本当の人間は「霊的実在者であり、生き通しの生命であり、本来完全円満なすばらしい存在である」ことなどを話され、お話はどんどんと佳境に進んで行きました。 「みなさんは、イエスと同じく、神の一人子なんですよ。神の愛し子なんですよ。イエスは、あの有名な主の祈りの中で、『天にまします吾らの父よ!』と呼びかけているでしょう。『天にまします、私の父よ!』とは、言っていないのです。天にまします吾らの父が神様なのです。イエスだけが、神の子、一人子であって、あとはみな罪の子ではないのです。われわれみなが神の子なのです。罪の子などは、本来ないのです。」 谷口雅春先生のお話はなおも続きました。「神の一人子とはね、イエスだけが、神のひとり子と云うことではなくて、親は一人しかいない子供だったら、余計に大切にして愛して育てるでしょ。そのように、神様は私達一人一人をみんな自分の子供として、心から愛して大切にしておられるのですよ。誰一人として、神様の愛の御手から離れることは出来ないのですよ。」 聴衆は涙にくれていました。聖書をもとにしながらも、今までは聞いたことのない内容のお話でしたから――。感激の中に散会しました。私たちも帰途につきました。その時、出口に一人の黒人の青年が涙を流しながら、「今晩のドクター・タニグチの話を聞いて本当に救われました」と言って次のような内容の話をしてくれました。 彼は子供の頃、気がついてみたら肌の色が黒かったというのです。ただそれだけで、色々と嫌な目,辛い目にあったというのです。それで、彼は物心つく頃から発奮して勉強をし、大学も卒業をしました。でも、白人のように、よい仕事につくことは出来なかったというのです。彼はその人生の苦しみの解決のために、教会の門をあちらこちらと叩いたというのです。どの教会に行きましても、その答えは、同じように「この人生を十字架を背負って、イエス様と共に歩みましょう。そうすれば必ずよいことがありますよ。」と云ったような、答えであったというのです。 彼にとっては、そのような答えはなんら救いにはならなかったと云うのです。毎日の生活での苦しみが、悩みが増すばかりであったといいます。そのような時に、谷口雅春先生のお話を聞いたのです。人生は魂を磨く学校であること、この人生に各自が目的を持って生まれてきていること、自分でなければ出来ない使命のあること、人間はみんな神の一人子で神様から限りなく愛されていること、本当の人間は霊的実在で久遠生き通しの素晴らしい生命であること等々、数えれば限りない魂の歓喜、生き甲斐を与えられたというのでした。 全人類が「原罪なき清浄受胎」であると自覚したときに、世界が感謝・合掌・礼拝し合うすばらしい状態になるのです。私はアメリカで、キリスト教会で「人間は生まれながらにして罪人である」と、日曜毎に教会にくる人々に牧師さんが説教をしているが、これが戦争を起こす心的原因の一つになっているという精神分析学者の記事を見たことがありますが、本当にそうだなと思いました。感謝・合掌・礼拝をしながら、夫婦・親子・兄弟が争う事は出来ません。「大調和の神示」のなかに、『天地一切のものと和解せよ。天地一切のものに感謝せよ。』と示されており、さらに『感謝の念の中にこそ汝はわが姿を観、わが救いを受けるであろう』と示されているのです。 今、日本でも必要な事は、日本人同士がもっとニコニコとして、お互いに遠慮せずに「有難う御座います」と、感謝の言葉を雨降らすことだと思います。 『感謝の念の中にこそ汝はわが姿を観、わが救いを受けるであろう。』というのは、生長の家の信者だけのことではないのです。全人類のことについて、神示でしめされていると云うことを、忘れてはならないのです。まづ、日本の町や村から「ありがとう」と感謝の声がわき上がるようにして行きたいものです。 前に、谷口雅春先生の「円滑現象だよ。」という、御言葉を言いましたが、ここに「『碧巌録』終講の辞」と題する、谷口雅春先生のご遺稿があります。その中のご文章の一部を抜粋朗読させていただきます。 もう十数年前の事になりますが、私たち夫婦がドイツにまいりました時には、恰も、多分十月頃だったと記憶しますが、その頃にはドイツは秋雨が屡々降る季節なのです。その頃私をドイツ旅行で案内してくださったのは、日独交換教授で其の頃ドイツに滞在中の山田先生と云われる方でした。ある日私たち一行が出掛けようとすると、山田先生は、今にも一雨降りそうな暗黒なお空の様子を見て、『今日は外出を止めときましょう。雨降りですから』と言われました。『いいえ、私たちが出掛ける時には雨は降らないことになっているのです』と私は言って、観光に出掛けましたが、お空はいつの間にか晴れ渡って一滴の雨もその日は降りませんでした。なんでも私たちが外出して行動を起こそうとすると、天候までも私たちの行動を祝福するが如く、降りかけている雨も歇んでしまうのです。 こう云う現象を私は『円滑現象』と名付けました。その後、日本の若い学者の心霊現象研究グループの機関誌を拝見していますと、それには、そのように何事もスラスラと円滑に滞り無く日常生活が行われる現象を、やはり『円滑現象』と名づけておられるのを拝見しました。 三界は唯心の所現でありますから、皆さん自身の心境如何によりまして何事も、そんなに力まないでも何事でも、自分の日常生活が円滑に滞り無く行われる――円滑現象が起こるようになり得るのです。現世浄土と云う語がありますが、自分の心境が何事にも滞らずに円滑になりますから、唯心所現の世界ですから現世がその儘、極楽浄土の顕現になるのです。」 谷口雅春先生の御著書に「実相と現象」と題する本があります。このご本の『はしがき』は、谷口雅春先生が昇天される二十日前に書き残されたものであります。私はこの御文章を拝読する度に、胸の底から言葉で表現出来ない思いが湧きあがり、新鮮な感激を覚えるものであります。これから拝読いたします。 「私はかって『神真理を告げ給う』と題する本を著した。それは私の名を冠してはあるが、決して私の本ではなかった。それは神が、私の二度目の海外巡錫の講話の内容につき、暁方の夢うつつの如き目覚めの心境に於いて、“真理をかく語れ”と導き給う内容であった。 私はそれを筆記したのではない。唯、神が繰返し告げ給う言葉を記憶によって再現して、文章に表現したのであった。従って、文中にある“わたし”は“神”御自身のことであり、私・谷口のことではない。 神が谷口を通して告げ給う真理の精髄を、ひたすら忠実に文章に再現したものである。昭和四十七年(一九七二年)春のアメリカ、カナダ、メキシコの講習旅行の祈りであった。 『生命の実相』が五十数年前に刊行されたとき、聖書型の黒革の表紙には、私の名は無かった。その後も形態は種々の変遷があったが、表紙や函の背文字には、『生長の家聖典』とのみ記して、著者名は出さなかった。表紙の平(ひら)とか扉には、いつの頃からか名が出るようになったが、携帯版の前まで、背文字は一貫して『生長の家聖典』であった。 神が私をパイプとして書かしめた聖なる典籍との畏(おそ)れ慎(つつ)しみであった。 『神真理を告げ給う』の冒頭には、次の如くに述べられている。 『 “わたし”は今まで多くの教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の書物を読み、色々の学者の説を読み、これに基いて 思索し、既に人生の意義を知ることが出来た人もある。 しかしそんな人は非常に稀であって、大抵は、自分の偏見や既成概念の中を迂路チョロしていて、悟ったつもりで実際は悟っていないか、真理なんて求めても到底得られるものだはないのだという絶望感で“聖なる求め”を放棄している人もある。 そのような人たちに“私”は、今ふたたび真理を知らせてあげたい愛念によって、今此処に谷口雅春を通して真理を説こうと思うのである。』 更に次ぎの節には、 『……それらの宗教教祖や碩学や大哲の中に“わたし”は宿って、人々を導くために“わたし”は書いたり、説いたりして来たのである。 真理は人間の肉体から生まれて来るものでも、人間の脳細胞から生産されて来るものでもなく、実にそれらの人々に宿っている“わたし”がそれを説いているのである…….。』 『しかし“本当の教祖”というべき“真理の啓示者”は“実相世界”にある“神” のみなのである。イエス・キリストも『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』といっているし、谷口雅春も“自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある”といっているのである。』 この“わたし”は勿論、言うまでもなく神である。 このような文章―――神の言(ことば)に接する毎に、私は畏(おそ)れ平服(ひれふ)すのである。そして図(はか)り知れない神のはからい、摂理、お導きに,谷口は十二分にお応えし得たであろうか、この九十余年の生(せい)を以て些かの悔いることなく尽し得たであろうか、と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。 そして谷口に賜った神々の大いなる恩寵に、唯々感謝合掌、悦びが、悦びの波紋が見渡す限り拡がる様を、心眼に拝するのである。 本著作集も第四卷となり、いよいよ佳境に入った感がある。生命の実相哲学の骨格を成す唯神実相論の霊々妙々の極意を、極めて平明に、話し言葉を以て表現してある。先の海外巡錫の時よりも若い時代の著述が多いが、もとより谷口の力倆で構えて説いたものではない。いずれもその折々に最も相応(ふさわ)しい神々の指導助言の賜(たまもの)である。万般の奇瑞が続出するのも、故なしとしない。 諸賢が本著に親しまれることにより、“聖なる求め”を放棄することなく、日に日に高きを望み、深きに入りて真理を体得せられんことを、神に代り切に切に望むものである。昭和六十五年五月二十八日 著者 谷口雅春 識す」と、このように、書き残されているのです。 ここで、私達が思い出さねばならない、谷口雅春先生が、「生命の実相」第一卷に書いておられる、「『生長の家』とわたし」と題する御文章です。この中には、谷口雅春先生が、常に神に導かれて、「神の人類光明化運動」を推進されてきたことがよく分かるのであります。 谷口雅春先生が、帰天される二十日前のご文章に「谷口に賜った神々の大いなる恩寵」に心から感謝を捧げられ、そして谷口雅春先生の魂の悦びが全宇宙に拡がってゆくさまを心眼にご覧になられたことは、前述の通りです。私達の言葉で表現するならば、「与えられた使命を、百%やり遂げた、否、百十%、否、それどころではない百二十%完全にやり遂げたぞ」という使命達成の歓喜になると思います。 この偉大なる人類の霊的指導者である、谷口雅春先生は、昭和六十年(1985年)六月十七日午前七時五十三分、九十一歳で帰天されたのであります。まさに、「自分の身体が燃え尽くすまで、蝋燭のようにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する」の御言葉の通りの御生涯でした。 昭和六十年(1985年)七月二十二日、長崎の生長の家総本山で谷口雅春先生の追善久養祭がおこなわれました。暑い日でした。約一万人の信徒が集まりました。私は、海外代表として参加いたしました。この時の出来事で忘れられないのは、輝子奥様が追善供養祭の最後に、集まった人々に対して、喪主としてのご挨拶をされた時の御言葉です。 その内容は、谷口雅春先生が帰天されてから、お山に来る手紙は、どれも谷口雅春先生が亡くなられて悲しい、涙に泣きくれていると云う内容のものが殆どであったそうです。ですから、輝子奥様にとっては、日本中の信徒がみな泣いてばかりいるように感じられたそうです。 輝子奥様は「甘露の法雨」に書いてあるように、「人間の生命は永遠」であり、「人間は死なないものである」ことを、本当に信じてくださいと、話されまして、「悲しみの涙は、総本山のお庭に捨てて、これからは魂になって自由自在な活動を活発にしていらっしゃるであろう谷口先生と一体になって、光明化運動を活発にして、谷口先生のお心に応えて戴きたいと思うのです。」と述べられました。 そして、輝子奥様は、追善供養祭の参列者一同に対して結びの言葉として、「どうぞ、お泣きなるような暇(いとま)があったら、人類光明化運動を一所懸命なさって戴きとう存じます。」と、このように御自分の胸の内を披露されたのであります。今は、その輝子奥様のお姿も拝することは出来ません。 最後に、この谷口雅春先生の追善供養祭で、私が海外信徒代表として、弔辞を述べさせて頂きました。それを読ましていただき、結びと致します。 「先生、今から二十二年前に、海外の信徒は初めて谷口雅春先生のお姿に接しました。先生ご夫妻の歩まれますところは、不思議な出来事の連続でありました。その有様は聖経の中にあります通りに、盲は眼開き、跂は起ち上がり、歓喜し相擁したのであります。そして人々は、谷口雅春先生を仰ぎ見て合掌し、礼拝し、讃嘆の声を上げたのであります。 先生御夫妻のお姿を拝した人々は、“先生のお姿を拝したら、もうこれで死んでもよい”と涙いたしました。その時に先生は、『皆さんは私と会ったのですから、これからは元気を出して長生きをして活動してください』と、励まして下さいました。そして、会食の時には『皆さんは私と共に食事をして、同じものを食べております。この飲み物を私の血とし、この食べ物を私の肉として、私と一つになって御教えを広めて下さい』と、お諭し下さいました。 先生、御巡錫の最後の夜は、フランスのパリで夕食をなさいました。私共は、伝道旅行が恙なく終りましたことを、神に感謝して、乾杯をし、お食事をはじめました。その時に、谷口雅春先生が、突然『仙頭君』と言われました。『あのね、物事は困難が多ければ多い程やり上げた後の悦びは、大きいものだよね』と、ポッンとおっしゃったのであります。 先生、私は目の前にイエスの最後の晩餐の光景が浮かびました。そして又、イエスの言葉が出て参りました.。『父よ、み心ならば、どうぞこの盃を私から取り除いて下さい。しかし、私の思いではなく、御心が成るようにしてください』。七カ月間の伝道旅行の日程はびっしりと詰んだものであり、その主役は谷口雅春先生でありました。先生の肉体がどんなにか疲れを訴えた時もおありになったと思います。しかし、先生は、生長の家発進宣言のご決意そのままに、わが身を蝋燭の如く燃やし燃やし続けられたのであります。そして今、完全に燃焼し切って神去りました。 『新しきエルサレム,天より降りてこの聖地に鎮まり給う。新しきエルサレム、天より降りてこの聖地に鎮まり給う。』 私共は、この谷口雅春先生のお言葉を固く信じております。私共は、七度生まれ替わっても先生の弟子の一員であり、神の人類光明化運動の選士であることを願い、又、それを誇りに思うものであります。 谷口雅春先生、先生は、私共一人一人の胸の中に永遠に生き続けられておられます。これからも私共を永遠に守り、御導き下さい。有難うございます。先生!。」
これをもちまして、私の話を終わらせていただきます。ご静聴を感謝致します。有難う御座います。 (終わり) |
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