谷口雅春先生の
日本国家への偉大なるご業績
(中)

(月刊「谷口雅春先生を学ぶ」通巻第6号から転載)


太田川幸彦

戦後の谷口雅春先生のご足跡

 谷口雅春先生の日本国家への政治的貢献について振り返ってみたいと思います。この件につきましては、中島省治先生が 『月刊谷口雅春先生を学ぶ』 の第二号、第三号で検証して下さっております。中島先生はご自身の体験をもとに書いておられますが、私はこの頃は、まだ中学生、高校生くらいでした。従いまして、自らの体験としてこういうことをある程度知り始めるのは、昭和三十年代後半から四十年代です。ですから、それまでのことは、私自身、直接の体験としては知りませんので、谷口雅春先生の 『私の日本憲法論』 の巻末
にあります年表を基に、改めて谷口雅春先生の御 足跡、御偉業というものを偲ぶことにしたいと思います。

 生長の家の戦後の政治運動の軌跡でありますが、先ず大筋の流れから言いますと、昭和二十年に生長の家社会事業団の設立があり、「憲法改正運動」 が昭和二十八年から始まります。そして「国民総自覚運動」が昭和三十四年から開始されまして、具体的には、国旗に対する国民的認識の昂揚として「日の丸掲揚運動」、生命を大切にする運動、つまり「優生保護法改正運動」、それから「教育正常化運動」、つまり新教育者連盟による教育運動、こういった国民総自覚運動が次々と始まります。さらに昭和三十九年からは 「生長の家政治連合」、生政連活動が始まるわけであります

 そこでもう少し詳しくこの流れを見ていきますと、昭和二十年、つまり戦後間もなく、谷口雅春先生は戦後日本の再建のため、真理を政治に実践し社会的国家的にこれを展開すべく 「生長の家社会事業団」の構想を発表しておられます。昭和二十年十一月のことでした。その後、谷口雅春先生は昭和二十三年の六月に執筆追放されます。それが解除されるのが昭和二十六年の八月です。翌昭和二十七年四月二十八日にサンフランシスコ講和条約が発効するわけでありますが、いよいよ講和独立ということで谷口雅春先生の活動が再び始まります。まず第一に堕胎防止運動、この運動が提唱されます。そして八月には、「日本再建の道を拓くもの」を発表、占領政策の誤りを正し、日本再建の精神を提示されます。さらに昭和二十八年には 『限りなく日本を愛す』 が出版されます。私が最も愛読し影響を受けたものの一冊でありますが、その中に、「占領政策として定められたものは、占領終了として一応廃棄しなければならぬ」として現行憲法の廃棄を訴えておられまして、早くも憲法問題に言及していらっしやいます。

 昭和三十年には、谷口雅春先生は鳩山一郎首相との共著 『危機に立つ日本−それを救う道』 という、パンフレットを出されております。鳩山一郎さんは 「民主主義教育と生命の実相」 と題する文章を書いておられますが、先ほどご紹介した谷口雅春先生讃仰の文章である 「新時代のバイブル」と同趣旨のことを書いておられます。「私の友愛運動を簡単に要約すれば、すべての人間は神の子である、よって人々は自己を貴ぶと同時に他の人々をも貴ばねばならぬ。四海同胞の友愛精神はこの思想を基盤として発展せしめ、民主主義の徹底を期するということにある。この運動を生命の実相の立場から言えば、結局自他一体運動に外ならないのである。」 ということで、谷口雅春先生の教えに大変共鳴されているわけです。

 谷口雅春先生のご文章の方は、「日本建国の理想の復活」 と題するご文章で、

 「神武天皇の歴史物語は戦後の日本の各学校の教科書ではそれが神話であって歴史的事実ではないと否定されてきたけれども、これは日本建国の理想を抹殺するもので誠に由々しき大事なのであります。神武天皇が歴史的事実上地上に存在したかしなかったかということは、実証的な研究にゆだねておいて良いのでありますけれども、それよりも重要なことは何故日本民族が日本建国の歴史をそれが神話であるにせよ創作したかということであります。」

 と書いておられまして、非常に科学的、実証的な立場を取られている。古事記、日本書紀に書かれていることは、あるいは事実ではないかもしれない。神話かもしれない。しかし何故このような神話が作られたかということこそが大事であって、ここに建国の理想・理念が示されているのだという、そういう立場に立って書かれているのです。そしてここで 「生命の尊重」 ということを早くも訴えておられます。

 昭和三十一年になりますと、『年頭に際して過去を偲び将来の発展を想望す』 というご文章を聖使命新聞にご発表になり、「憲法改正問題は最重要の国家間題である」と指摘、憲法を正しい姿にもどすための運動を提唱されます。昭和三十一年には、ご文章だけでなく、実際運動まで提唱されているわけです。また、この年七月一日には、 「私は斯う考えますーすでに危機は来ている」を聖使命新聞に発表され、参院選を前にして、憲法改正の必要性を訴え、教科書問題、再軍備問題等で日本に危機の迫っていることを指摘されておられます。この参議院選挙では、自民党が改憲に必要な三分の二議席を取れるかどうかということが、大変な争点になっていましたが、結局、三分の二を取れませんでした。それで谷口雅春先生は、「鳩山首相に建言す−あなたの今為し得る唯一の最後の御奉公はこれです」を同じく聖使命新聞八月一日号に発表され、参院選で三分の二議席を下回り改憲の機会を失った鳩山首相に現行憲法の無 効宣言を建言するわけであります。そして十月には 「明治憲法復元運動に協力せよ」 というご文章も書かれております。

 ここで憲法を専門に学ぶ者としまして一言コメントさせていただきます。日本は法治国家でありますから、現行憲法が制定されてから五十年以上が経過している現状から考えますと、現在の憲法を直ちに破棄して、明治憲法に復元改正したり、あるいは新憲法を制定するというのは極めて難しい、あるいは不可能だと言い切ってもいいと思います。ですから、現在の憲法の改正手続きに従って改正し、そしてやがて全面改正にもっていく、それが事実上、新憲法の制定ということになると思っています。
 谷口雅春先生が現憲法無効宣言を発せられたのは講和独立直後のことでした。占領が終わった直後です。したがって、その時点で無効宣言をして、とりあえず明治憲法に復元をして、新しいスタートを図るというのは、極めて現実性のあったご発言でありました。しかも、それから四十年近くが経っていますから、そういう時代の差というもの がありますので、私共がそれをそのまま、今日展開していいのかどうか。やはり私共は、谷口雅春先生の正統憲法実現というこの精神を純粋に受け継ぎつつ、具体的な方法に関しては時代の工夫があっていいのではないか、私はそのように考えております。

 続いて、昭和三十二年には紀元節制定運動が始まります。翌昭和三十三年、『我ら日本人として』が出版され、さらに 『人類の危機に臨んで是非知らねばならぬこと』 というパンフレットも出版されます。またここでは、日の丸掲揚運動と日の丸行進が提唱されています。
 昭和三十四年、この年、伊勢湾台風がありました。それをきっかけに伊勢神宮復興奉仕練成会が始まりまして、中島省治先生が本誌第三号で紹介しておられますが、伊勢神宮の千年以上のあの巨木が倒れたということで、何とか伊勢神宮を復興させようということで、全国から青年会の仲間が集まり、練成会が始まります。そのときの感動的な記録を中島先生が紹介しておられます。安保改定問題が持ち上がってくるのもこの頃です。雅春先生は安保改定推進の集いで講演をされ、『憲法について知らねばならぬこと』 というパンフレットも書いておられます。

 そしてさらに昭和三十五年になりますと 『日本を築くもの』 が出版されます。これも私の愛読書すが、谷口雅春先生の愛国三大書の一冊と言われているご本です。この年、左翼の安保改定阻止国民会議が結成され、全国統一行動が開始されます。これに対抗して六月には 『日の丸か赤旗か』のパンフレットが出版されまして、六十五万部が頒布され、各界から大きな反響を呼びました。六十五万部ですよ。これはすごいことだと思います。

これだけの数が全国に頒布され、読まれたのですから。さらに 『声なき声よ手をつなげ 赤色革命のゲリラ戦はもう始まっている』、このパンフレットも五十五万部が頒布されております。そして『戦争誘発者は誰か』、このパンフレットも二十五万部。このようなパンフレットが、まさに国会を反安保のデモ隊が取り巻くような国家の危機と言われる時代に次々と発行されていったわけであります。

 当時、私は中学生でしたので、その頃のことはおぼろげな記憶しかないのですが、そういう時代に、谷口雅春先生は先頭に立ってこのようなパンフを次々と書かれ、国民的な運動を盛り上げられたわけであります。

 以下、年表を追ってみますと、昭和三十六年には、日の丸擁護運動や紀元節奉祝の日の丸行進を実施し、皇室の尊厳をお守りする法律の制定運動を開始されます。昭和三十七年、『愛国心を如何に見るか』 のパンフレットが出版され、ここでも、「いのちを大切にする連動連合第一回大会」 が開催されます。

 昭和三十八年になると、「全国日の丸連合会」が結成されまして、以後、生長の家も毎年正月と天皇誕生日の皇居参賀に日の丸の小旗を配布するようになります。これは現在でもいろいろな団体の協力によって続けられておりますが、残念ながら生長の家は手を引いてしまいました。

 「生長の家政治連合」 が発足したのは昭和三十九年です。昭和四十年、谷口雅春先生は自民党主催の日韓条約調印祝賀会で、憲法復元と優生保護法改正を自民党の国会議員に訴えておられます。

御製に応えられる谷口雅春先生

 昭和四十一年、この年の歌会始の御題は 「声」でした。御製は、

    日々のこのわがゆく道を正さむと
              隠れたる人の声を求むる

というもので、ご存じの方は多いと思いますが、こういう御製がこの年発表されております。これにお応えする形で、谷口雅春先生は、

    革命を呼ぶ声国に漲れり
              愛国者今起たずしていつ起つべきか
    明治憲法に復元せよと叫べども

               声いたづらに街に消えゆく
    大君は日本の危機来たれりと
               叫ぶ我らの声きき給ふか

 という御題詠進歌を作られました。第三首目の歌はまさに御製にお応えする形になっているわけです。

 そしてこの年 『古事記と現代の預言』 が出版されました。このご本も現在絶版状態であります。それから、この年に、建国記念の日制定推進全国婦人大会が開催されました。これが、前にご紹介しました参議院議長の安井謙さんが紹介された大会のことです。そしてその功あって、十二月には建国記念の日を二月十一日とする政令が公布されます。

 昭和四十二年には、第一回建国記念の日祝賀式において谷口雅春先生は 「神武建国の系譜とその理念」 と題して講演をされています。全国一五〇〇箇所で制定後初の建国記念の日奉祝行事が、各団体協力のもとに開かれたのもこの頃でした。そ して六月には優生保護法改正期成同盟が発足します。

 翌昭和四十三年には、『憲法の正しい理解』 が
発行され、これも十万六千部が頒布されました。続く昭和四十四年には、「生命体としての日本国家」という御文章を理想世界誌に発表されまして、これがあの三島由紀夫先生が絶賛されたご文章であります。そしてその後は靖国神社問題についても積極的に発言されております。当時、靖国神社国家護持法案が国会に提出されていましたが、政府は宗教色を無くして靖国神社を単なる記念廟にして残そうというような、そういう案まで持ち出してきました。それでは本当の祭祀にならない、英霊祭祀を守らなくてはならないということで、谷口雅春先生は政府の実に反対し、独自の案を発表されております。靖国問題にも果敢に取り組んでおられたわけです。そしてさらに 『占領憲法下の日本』 が五月に発刊されまして、三島由紀夫氏が序文を寄せておられる。これは四十万部頒布され、各界の反響を呼びました。

 昭和四十五年、『続占領憲法下の日本』 が二十万五千部頒布されています。そしてこの年、三島由紀夫氏の自決があったわけですが、谷口雅春先生は 「憲法に体をぶっつけて死ぬ一三島由紀夫氏の”死″ の意味するもの」と題しまして 「やまと
新聞」 にご文章を発表されています。その中で、「ひと国のために命を拾つる、これにまさる愛なし」 という言葉をおっしゃっていたと思います。昭和四十六年には、『占領憲法下の政治批判』 を出版、これも十五万部です。「靖国神社の国家祭祀について」という論文も「やまと新聞」紙上で発表されておられます。さらに 『愛国は生と死を越えて−三島由紀夫氏の行動の哲学』 を出版。昭和四十七年、『わが憂国の戦い』、『諸悪の因現憲法』、そして 『美しき日本の再建』 これらが相次いで発行されます。

 さらに昭和四十九年には、「日本を守る会」 が発足致します。十二月になると、鎮護国家出龍宮住吉本宮の構想を発表され、昭和五十一年十一月十日には、天皇陛下御在位五十年奉祝行事が全国各地で行われ、東京では一〇〇万人が銀座で奉祝 パレードを行いました。この時も生長の家が大変熱心に取り組んでおります。

 昭和五十二年、『国のいのち人のいのち」 が出版され、この年から元号法制化要求の地方議会決議が起こります。そして昭和五十三年に、元号法制化実現国民会議が結成され、昭和五十四年に元号法が成立致しました。この年、『聖なる理想・国家・国民』 が出版され、鎮護国家出龍宮住吉本宮の落慶式があり、昭和五十五年には 『私の日本憲法論』も出版されました。

 ところが昭和五十八年、聖使命新聞に 「今後は教勢拡大に全力を」 と題した無署名の一文が載りまして、突然、生政連活動が停止されてしまいます。そしてこの頃から生長の家は政治運動から徐々に手を引き、今日ではまったく何もしないことになりました。それどころか谷口雅宣氏は政治運動に反対でして、「日本国実相顕現」 という言 葉など、どこにも聞かれなくなりました。

母から伝えられた生長の家

 以上、ざっと駆け足で見てきましたが、これが戦後の国家救済・民族救済にかけられた谷口雅春先生の御足跡であり、そして生長の家の運動でもあります。そこで、私自身のことも簡単に申し上げたいと思います。

 私の母は十八歳か十九歳の娘時代のころに入信致しまして、昭和七年、浜松支部発祥当時に谷口雅春先生御夫妻を囲んで写した記念写真には娘時
代の母が写っております。ですから、かなり古い信徒の一人であろうと思います。非常に熱心に生長の家の信仰を歩んできまして、地方講師、さらに静岡県講師会の副会長も拝命しておりましたけれども、晩年まで動ける間はずっと活動して参りました。私もしたがってそういう影響のもとに育ったわけですが、初めて見真会に参加したのが、中学入学前、小学校六年の春休みでした。高校生見真会に行きまして、周りは高校生ばかりですから非常にかわいがっていただきましたが、その時に、人間神の子・神の子無限力という教えと、それから日本国のすばらしさを教えて戴きまして、本当にうれしかった、楽しかった思い出があります。それ以降、私は同級生を誘いまして、中学生、高校生練成会に毎年のように参加するようになりました。特に東京近県の中学生、高校生練成会は、当時、夏と冬に飛田給で行われておりました。私は高校生のときに静岡県生高連の執行委貝長もやりましたので、お互いどれだけ練成会に参加したかということで他県の生高連の人たちと競争をしたりしながら、多くの友達を誘っては参加しておりました。

  練成会では、徳久克己先生、仙頭泰先生、菊地藤吉先生など錚々たる方々の御指導を直接受けましたが、今の人達にとってみれば、本当にうらやましい時代だったと思います。特に私には、人間神の子無限力の教えが非常に支えになっておりますが、それ以上に愛国心の話が好きで、五日間の練成中、四日目の夜は必ず天皇陛下や愛国心の話がありましたが、何度聞いても感激で涙がぽろぽろ出てきまして、うれしくてうれしくてたまらない。それが楽しみで参加していたというところもあったと思います。その後、地元で生高連の見真会をやったり、あるいは学生時代には生学連活動をやりましたけれども、特に仙頭泰先生には御指導を戴きまして、大変感謝している次第です。

 このように私は中学生、高校生時代から生長の家の活動をしてきました。当時は、全国的にも生高連活動が盛り上がった時代でして、第二次黄金時代とか言われておりますが、全国で仲間が立ち上がりまして、その時代の仲間が現在いろいろな方面で活躍しております。
 昭和四十年代には生学連活動にも勤しみました。大学一年の年、昭和四十年の練成会の後には
七月の終わりから八月にかけて第一回平和行進というものを行いまして、東京から広島まで十日間くらいの日程で平和行進を行いました。行く先々で青年会の幹部の方々が出迎えてくださいまして、歓迎会もやってくださいましたが、勉強会もありまして、夜遅くまで勉強する。しかし朝は四時五十分に起きますから本当に大変でした。昼間は汽車で移動しますけれども、炎天下を行進もする。街頭演説もします。これを十日間続けましたから、体力には相当自信がつきましたけれども、最後に広島県の教化部で神想観を実修したときには、突然ばたんという音が聞こえまして、どうも 神想観をしている間に眠り込んでしまって倒れた人がいたらしいのです。それぐらいくたくたになりましたけれども、本当に精神的にも体力的にも自信がつきまして、まさに無限力だと実感したという、そういう体験もありました。また大学内にも生長の家学生会を結成しまして、講演会を行ったりしました。ごく簡単ですが、私のこととともに、その当時の生長の家の雰囲気というものをご紹介させて戴きました。

教えから導き出された愛国運動

 さて本筋にもどりますが、谷口雅春先生のこのようなご業績、特に民族救済・国家救済のための愛国運動、これは決して単なる運動ではなくて、あくまでも生長の家の教義に基づくもの、つまり立教当時からの使命でありまして、明確な理念に基づくものであったということを私なりに明らかにしてみたいと思います。

 まず第一番目に 「生長の家の本尊に就いて」 という谷口雅春先生の御文章ですが、『生長の家三十年史』 に載っています。宗教団体法というのが成立したのが昭和十五年、戦前ですが、この宗教団体法に基づいて生長の家は宗教結社として文部省の管轄下におかれるわけです。ですから生長の家が正式に宗教団体として認められたのは、この昭和十五年ということになります。そしてこの時に出された 「教義の大要」 の中には次のように書かれています。

 「国體ヲ明徴こシテ皇室ノ尊厳ヲ明ニシ、各宗ノ神髄ヲ天皇信仰ニ帰一セシメ、盡忠報国、忠孝一本ノ国民精神ヲ昂揚シ、悪平等ヲ廃シテ一切ノモノニ人、時、處、相應ノ大調和ヲ得セシメ、兼テ天地一切ノモノニ総感謝ノ実ヲ挙ゲ、中心帰一、永遠至福ノ世界実現ノ大目的ヲ達成センコトヲ期ス」

 とありまして、その実行目標として、ご存じのように 「吾等は宗派を超越し、生命を礼拝し、生命の法則に随順して生活せんことを期す。」 以下の 「七つの光明宣言」が出てくるわけであります。従いまして、私に言わせれば、ここには確かに昭和十五年という当時の時代風潮というものがあります。大東亜戦争突入直前の事でありますから、愛国心や国家意識の昂揚ということで、いかにも当時らしい言葉も使われておりますけれども、しかしそこに表わされていることは、まぎれもなく日本国の実相顕現ということであり、同時に人類光明化運動であった。つまり、教義中に 「日本国の実相顕現運動」 と 「人類光明化運動」 の二つが共に示されていたと私は理解しています。

 そして二番目に 「奉斎神」、つまり生長の家はどんな神様を祀るのか、ということですが、これは 「古事記と現代の預言』 の中に次のようなご文章があります。

 「住吉大神は、常に日本が危機に直面している時
にあらわれて、日本国の新生に貢献せられる神様であります。(中略)生長の家とは全く住吉大神の宇宙浄化運動(換言すれば人類光明化運動)なのであります。」

 と書かれている。つまり、日本国実相顕現運動と人類光明化運動、これが生長の家の教えであり立教精神であると、明確に書いてあるわけです。また、先ほどの昭和十五年に文部省に提出した文書には、生長の家の奉斎神として「斎奉(いつきまつ)る神として顕斎する主祭神はなし、幽斎する主神として宇宙大生命」 と書いてありまして、さらに 「副神として生長の家の大神、住吉大神」 ということが書かれています。生長の家の奉斎神は住吉大神であり、日本の危機に臨んで出御される神様であるということです。ここからも生長の家の使命というものが当然明らかになってくるはずであります。

 そして三番目に昭和二十年の社会事業団の設立に関する谷口雅春先生のご発言です。社会事業団が存在していることはもちろん知っておりましたが、次のご文章を改めて読み直しまして驚きました。

 「その日、玉音放送を聞いて駆け付けてきた本部
員に『これから日本の実相顕現をやらねばならぬ』と訓すとともに、(中略)ようやく一年ぶりに 『生長の家』 と 『白鳩』を十一月号から復刊することが出来たのである。

 私は、復刊された 『生長の家』 十一月号に 『生長の家社会事業団の設立』 という文章を発表したが、それは日本再建のための一大政策であった。戦前の主たる生長の家の教化方針は、個人の魂の救済、病気の神癒、人生の苦難の解消といった、個の救済に専ら向けられていたが、戦後はそれをさらに政治力にまで発展せしめ、立教の本来の使命である真の政教一致と、世界救済を目的とするところの 『生長の家社会事業団の設立』 を提唱したのであった。従ってこれは戦後の生長の家人類 光明化運動の発進宣言ともいうべき文章であるのである。」

 そして、「生長の家社会事業団の設立」 のご文章中の 「綱領」 には、「吾等は真理を政治に実践し」 とあり、「要旨」 という項目の中にも、「『汝等天地一切のものと和解せよ』 との信条に生活せる吾等が戦争を未然に防ぐことを得ざりしは吾等が単なる宗教運動に終始して其精神を政治力にま
で発展せしめざりしがためなり。」 とあります。さらに 「説明」 という項目の中では、次のように 述べられています。

 「従来我等が主として採り来たりし教化方針は、個別的個人個人に対して魂の救済、病気の神癒、人苦難の解消等であったのであります。これ即ち『単なる宗教運動に終始して其精神を政治力にまで発展せしめざりし』 原因にして、かくして獲得されたる個別的個人誌友はやがて自己満足に到達して 『宗教』 と云う静的精神面に安眠を貧るに至り、生長の家をして国家全体を救い得ず、戦争惹起を防止し得なかったのであります。」

 最後に、四番目ですが、「立教の使命」 という点から見てみたいと思います。これは 『菩薩は何を為すべきか』 にある 「人類光明化運動指針」 の第五条を見ても明らかです。

 「第五条 生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々受け継ぎ語り継いで来た 『命(みこと)』 の自覚にほかならず、生長の家の立教の使命が同時に日本建国の理念の現成にほかならない事を明らかにすべきである。」

 つまり日本国の実相顕現は立教の使命であると
いうことをここでもはっきり言われているのです。そして昭和三十四年から始まりました国民総自覚運動におきましても、「第一次五カ年計画の根本方針は 『人類光明化運動を、先ず日本の実相顕現のための一大国民総自覚運動たらしめることを目標とする』」 とこのように書かれているわけであります。

 このように、年表を通して時系列的に見てきました谷口雅春先生のご業績、これらはすべて今述
べたような 「理念」 に裏付けられたものであり、生長の家の 「教義」 に基づき、「立教の使命」 として掲げられているものでもあるわけです。

 従ってこのような観点から見ましても、現在の生長の家のあり方には当然疑問が出てくるはずであります。果たして現在の生長の家が谷口雅春先生の教えを正しく受け継いでいるのか。まことに残念ながら、「否」 と答えざるを得ないのであります。

 

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