谷口雅春先生の
日本国家への偉大なるご業績(下)
(月刊「谷口雅春先生を学ぶ」通巻第7号から転載)

太田川幸彦

政治運動中止の「三つの理由」

 最後の問題として、「谷口雅春先生、今いまさば」ということに触れたいと思います。

 生長の家の元理事長であられた山口悌治先生の「神・国家・人間」 という題名の本がございます。この本の中で、山口悌治先生は人間観・国家観そして神観、この三つをきちんと学んでいくことの大切さと、信仰とは具体的には国家を通して実現していくものであり、例えば孔子だったら中国において、キリストはユダヤの国において、それぞれ先ず身近なところ、つまり自分の国から教えを
宣布していったということ、だから国家を飛び越えて、人類だとか世界だとか言っても始まらない、ということを強調しておられるわけであります。

 それに対して生長の家教団の現状はどうでありましょうか。機関誌「生長の家白鳩会』誌の平成十四年十月号を持ってまいりましたが、ここには、谷口純子さんの 「全てをチャンスとして」という講演筆録が載っております。実は、この文章は谷口雅宣氏のホームページにもそのまま掲載されています。ご覧になった方もいらっしやると思いますが、谷口雅宣氏のエッセイとか文章が載っておりまして、ここに奥さんの講演録と同じ文章がそ
のまま載っています。ということは、これはおそらく純子さんが谷口雅宣氏の意を受けてそのまま講演されたのではないか。なぜなら自分のホームページに他人の文章や自分の意に反する文章を署名入りでそのまま載せるはずがないからです。したがって、この谷口純子さんの文章を通して少なくとも谷口雅宣氏の考え方の一端は分かると思うのです。

 この中に政治運動について書かれてある部分がありますので、その部分をちょっと読んでみたいと思います。こんなことが書かれております。

 「古くから生長の家の運動をしている方はご存じだと思いますが、生長の家ではかつて政治運動をしておりましたが、今は一切しておりません。」そしてその理由らしきものを三つ掲げております。「生長の家は元々、昭和五年の立教当初、政治運動はしていなかったのであります。」元々立教当時から生長の家は政治運動はしていなかったから現在も政治運動はしないんだ、というのがどうも一つの理由らしい。それから二番目に、「しかし、時代の流れの中で政治運動を始めるようになりました。政治運動をするようになった時代は
どういう時代だったかと言いますと、東西冷戦の時代で、日本でも共産主義革命の危機が現実的に感じられていたような緊迫した時代でした。」 つまり政治運動というのは、冷戦時代の産物なんだという言い方がここから窺えるわけです。それから三番目として、「政治の世界というのは、皆さまご存じのように、いろいろな駆け引きがあり、利権の争いがあり、宗教運動と政治運動はお互いに相容れないものがあり、マイナス面も色々出てきて生長の家としては政治運動を止めたわけです。」どうもこの文章から見る限り、この三点ぐらいが政泊運動をやめた理由のようなのです。

 私に言わせれば、これはまったく理由になっていない。というよりも正しくない、誤りである、とはっきり言わせていただきたいと思います。と言いますのは、まず、生長の家は立教当時政治運動はしていなかったと言っていますが、すでに述べましたように、「教義の大要」 の中には、初めて 「宗教結社」として認められた昭和十五年、文字通りの立教と言えば昭和五年になりますが、昭和十五年、生長の家が宗教団体として正式に認められたときに、すでに 「教義の大要」 の中に 「
日本国の実相顕現」 そして 「人類光明化」 ということが謳われているからです。.生長の家は立教から十年後にはじめて宗教結社として正式に認められるわけですが、その政府提出文書の中の最も重要な項目である「教義」 の中に「日本国の実相顕現」と 「人類光明化」 ということが示されている。ということは、これは単なる 「時代の流れ」 の中で善かれた文書ではなく、まさに昭和五年の立教の精神を明文化したものと見ていいと思うのです。

 また、加えて申し上げておきますが、確かに昭和五年の 「生長の家」誌創刊号には 「日本国の実相顕現」 について直接触れられてはいません。しかし、三年後の昭和八年一月に、谷口雅春先生は東京の誌友の前で 「大生長の家(だいたかあまはら)論」を講義されています。それが昭和八年三月号の 「生長の家」誌に 「中心に帰一する道」 と題されて発表され、そのご文章が現在の頭注版第十二巻 『生命の實相』万教帰一篇下「第四章 古典に現われたる宇宙構造の中心理念」 として収録されています。

 この 「生長の家」誌昭和八年三月号の 「出版部だより」 には、このご文章は東京での講演が基になっていることが明かされており、さらに 「今まで秘されていた生長の家の大生長の家(だいたかあまはら)論が公開せられ」 と書かれているのです。「今まで秘されて
いた」 ということは、はじめて生長の家の教えが天降った時から昭和八年一月までの間のいつの時点かということになりますが、「日本国の実相顕現」 とは教えの根幹を為すものでありますから、三十三の神示が時間の経過を経て順次発表されたと同様に、たとえ 「生長の家」誌創刊号に載っていなくとも、昭和五年三月一日の立教と同時であったと考えても一向に差支えがないのではないで
しょうか。

 この点、どうも谷口雅宣氏は、政治運動というものを選挙運動、あるいは橋や道路を作るとかいった利権による争いなどとまったく同じ次元のものと見ているのではないかという気がしております。これは私は正しくないと思う。つまり谷口雅春先生のこれまでのご文章等から分かりますように、要するに、生長の家は、単なる 「個人の魂の救済」 だけではなくて、「国家救済」 「民族救済」を政治力を通して行うのである、これが政治運動だと位置づけられていることは議論の余地がありません。だから信徒個人が伝道や誌友会などによって個人救済を行うと同時に、政治力を通して国家・民族の救済を図っていくというのが、これが谷口雅春先生のおっしゃる生長の家の政治運動であります。その政治運動の一つとして選挙運動も出てきますが、それはずっと後のことです。戦後だけに限りましても、最初に政治運動がスタートするのは昭和二十年の社会事業団の設立からですから、政治運動イコール選挙運動ではなかったということは明らかです。

 したがって、谷口雅宣氏は政治運動というものを余りにも狭く考えすぎているのではないか。それから立教当時政治運動がなかったからと言うのなら、私はあえてこう言いたいと思います。現在、両軸体制とか何とかいわれていますが、この両軸体制なんてものは立教当時にありましたか? もちろんありませんでした。それから環境保全運動だってありませんでしたし、谷口雅春先生の教えを否定するような 「総裁代行」など立教当時教団におりましたか? 当然いません。立教当時なかったからと言うなら、今ご自分のやっていることをどう説明するのか、ということを私はあえて申し上げたいと思います。


 それから二番目は政治運動が冷戦時代の産物だなどといった言い方をしている。しかしそんなことはなくて、すでに申し上げたとおり、戦前から政治運動は行なわれております。戦後も昭和二十年から具体的な運動を展開されているわけでありますから冷戦とは無関係です。冷戦開始以前から始まっているのですから。それに、冷戦がまだ続いてる間に生政連は解体されてしまいましたから、この点でも冷戦とはまったく無関係であることは、生政連解体を推し進めた当の谷口雅宣氏自身がよくご存知のはずです。

 それから三番目に、「宗教運動と政治運動はお互いに相容れないものがあり、マイナス面も色々出てきて生長の家としては政治運動を止めたわけです」という箇所です。これはおそらく選挙活動について言っていると思いますが、確かに選挙運動についてはいろいろと問題もあったりしまして、確かに一部には批判もあったと思います。がしかし、選挙運動イコール政治運動ではないと私は考えておりますから、直ちにこれは理由にはならない。それにマイナス面が出てきたから止めたというのは第一、第二の理由と矛盾します。元々立教の精神になかったから、冷戦時代の産物だったから、だから政治運動を止めたんだと言いながら、一方ではマイナスが出てきたから止めた。これでは一、二番目の理由と全く矛盾することになります。

 したがって、政治運動を止めた三つの理由なるものは、少なくともこの文章から見る限り全然説明になっておりません。政治運動のことは谷口雅春先生が述べられた理念、教義、立教の精神及び使命の中に明確に記されており、実際に戦前から、そして戦後は昭和二十年から始まり三十数年にわたって行われたのが政治運動なのですから、その活動をあえて否定するというのであれば、その理由を明確に示していただきたいと思います。

小田村寅二郎先生の切々たる教団への苦言

 この間題につきましては、初めに谷口雅春先生讃仰の言葉を取り上げましたときにもご紹介しました国民文化研究会理事長でいらっしゃった小田村寅二郎先生が 「故谷口雅春先生を追慕申し上げる傍ら 「生長の家」 の後継執行部各位に心底からの苦言を呈上する」というご文章を発表されてい
ます。これは昭和六十年十一月十日、谷口雅春先生が亡くなられて五ケ月後に書かれたものです。このご文章の一番はじめの見出しは 「一、谷口雅 春先生を敬仰して」 です。

 「去る六月十七日、九十一歳の御高齢で帰幽された故谷口雅春先生(「生長の家」総裁)の御霊に、謹んで哀悼の意を捧げさせていただく。(中略)ここ十年間にわたって、『日本を守る会』(私もその常任委員の末席を汚していたが)に、『生長の家』が、谷口先生の御志のままに、実に献身的な御協力を寄せられたことも、忘れ難い所である。昭和五十年の 『天皇陛下御在位五十年奉祝行事』 への協賛をはじめ、『元号法制化、教育正常化、靖国問題、憲法改正等々』 の重要課題に、常に協力を惜しまれなかった谷口先生の憂国の御至誠は、まことに仰ぐに値するものであった、と回想する。

 『日本を守る会』 が結成される前に、円覚寺管長の朝比奈宗源先生、富岡八幡宮宮司の富岡盛彦先生が、原宿の 『生長の家』本部に谷口総裁を訪ねられた時のことを、陪席された澤渡盛房氏(富岡八幡宮権宮司)がよく話されるが、その折に谷口先生は、朝比奈・富岡両先生のお話を真剣な御
表情で聴かれたあと、『日本を守る会』 の結成に賛同されて次のお言葉を述べられた、という。

”「生長の家』 の二つや三つぶっ潰れても、祖国日本が本来の姿に立ち戻るためには、それもやむを得ない。……協力を惜しまぬどころか、「生長の家」 の活動そのものが目指すところはそこにある”

と言い切られた由である。谷口先生ならでは、と深く感じ入ったものである。(以下略)」
 その次の見出しは「二、苦言呈上の部」と題されて以下のように書かれています。

 「谷口先生亡きあとの 『生長の家』 が、尊師の憂国の御至誠を継承される所にこそ、『尊師の心を心として前進を決意』(吉田武利理事長−『聖使命』八月一日号所載)されたことが生かされる、とは、私ならずとも多くの同憂の士たちの、共通の祈念する所であった。
 しかし、先生御逝去後わずか三カ月を経過した九月二十日付で、『生長の家』 本部から、全国の同会指導者層に出された 『指令』 は、事もあろうに、『尊師の心を心とする』 とは正反対に、いわば”尊師の心を忘れて祖国日本の現状把握には目
をつぶり、ひたすら教団エゴイズムの道に走りだした”と評するほかなきものとなったのである。私はこの 『指令』を見るに及んで、『生長の家』の驚くべき転身と、尊師の心をないがしろにした増上慢に、抑え切れぬ憤激を覚え、あえてこの稿の執筆公表に踏み切った次第である。

 (中略)一体『生政連』が行っていた”政治活動″とは何であったか。(中略)御在位五十年奉祝行事、元号法制化、憲法改正気運の醸成、靖国問題、教育正常化等々における 『生政連』 の既往の活動を想起せられればお判りと思う。言い換えれば、現下の日本に必要な 「祖国防衛・国体護持』を中心軸とし、『祖国の歴史・伝統尊重』 にかかわる多くの運動は、全国の良識者およびそのグループと『生政連』 が行ったというのが、実情ではなかっ たか。

  (中略)自分は活動をやめた、それはよいとして、同じ運動をしている大切な祖国防衛の従事者、その中には、立派な教養を積まれた方々が沢山おられるが、その方々のされる運動に自分の会の信者たちが、個人として共鳴活動をすることも許さない、というのが、先の 『指令』 である。それは一
つには祖国日本が置かれている厳しい国内・国外関係に目をつぶって、我関せず焉、とする教団エゴイズムでしかない。さらには、一人びとりの信者は、教団の一員たる以前に、日本国民の一人であるとの自覚−それは故谷口先生のお志に基いたものであった−に対しても、これを踏みにじるものであり、極論すれば、人権侵害の大弾圧の伏線をも意味することになりはしないか。

 亡き谷口雅春先生は、日本という国が立派に伝統的国家として厳存発展することを人一倍念じられた方であり、その日本国にこもる永久生命こそは、実は“生命の実相の顕現されたもの″と看破された方でもあられた。先生がその御生涯をかけて信者の方々に教えられた 『日本の国の尊さ』 への謙虚な姿勢は、さきの 『指令』 とは全くうらはらのものではなかろうか。立派な国に日本を立ち戻らせ得てこそ、『生長の家』 なる教団の存続発展もあり得ることを、後継執行部各位は、再思三考せらるべきと思う。」

 このように、小田村寅二郎先生は教団に対して切々と苦言を呈しておられるわけであります。このご文章はすでにご存じの方も多いかとは思いま
すが、改めてご紹介させて戴きました。

 また、この度の 『月刊谷口雅春先生を学ぶ』 には続々と熱烈な支援の声が寄せられております。その一部を紹介させて戴きますと、「合掌ありがとうございます。『谷口雅春先生を学ぶ』創刊おめでとうございます。仙頭泰様より御送付戴き感動致しました。谷口雅春先生の御遺志を今こそ正しく伝えたいと思います。」「本誌拝読致しました。まさに我が意を得たり。まずもって真の勇者、中島先生そして諸先生のやむにやまれぬ尊師雅春先生への敬崇の決意に心からの感謝と激励の拍手を送ります。」 「熱い思いで手紙を受け取りました。心よりこの会の成功発展をお祈り致します。この日が本当に十年早ければ今の教育の荒廃も防ぎ得たのかもしれませんね。微力ですが応援しています。」「私は今の組織に疑問を感じて辞めましたが、雅春先生の御著書を一生懸命読んでいます。私の友人も疑問を持ち、二人でよく雅春先生の御著書について話していました。この本を知ってとてもうれしかったです。」 「最近なんだかおかしいなあと思っていましたが、疑問が解けはじめました。よろしくお願い致します。」 「私は生長の家に入信して二十四年目に辞めました。今の組織がおかしい方向になってきたからです。雅春先生の御遺志を継いでくださる方がどんどん出ていただきたいと思います。」 「この度は御出版おめでとうございます。生長の家の本当の運動がここから始まることを心より願っています。」 こういった声が続々と寄せられているわけです。したがって、いかに教団の現状を憂い、批判する声が全国津々浦々に充満しているかということが分かると思います。

憲法改正運動について

 最後に憲法改正運動について少しお話し申し上げたいと思います。現下の我が国の最大の課題はやはり憲法改正であると思います。戦後半世紀の間、講和独立直後に憲法改正運動の盛り上がりはありましたけれども、結局、一言一句改正することも出来なかった。ところが、ようやくこの憲法改正運動が現実の政治課題となりつつある、そのように私は確信しているわけであります。国民の六割、少なくとも過半数以上が憲法改正を支持する時代です。そして国会には両院に憲法調査会が設置され、中山太郎会長以下、非常に熱心にこの
憲法調査会の活動に取り組んでおられます。

 つい最近、新聞で報道されましたが、民主党が憲法問題についての中間報告をまとめました。この中で、従来民主党は、「論憲」 つまり憲法改正を論じるという段階に止まっていたわけですが、「創憲」 つまり憲法を創る、新しい憲法まで視野に入れた創憲という選択肢もありうるということを書いているわけです。そして憲法九条の改正もありうると言っている。ですから、民主党からそういう声が上がってくれば、それにこたえる形で自民党においても新しい憲法ということが問題になってくるのは当然のことと言えます。数から言っても、自民党全員と民主党の議員の半数ぐらいがもし一緒になれば、国会の三分の二を取ることも可能になってきます。

 先の国旗国歌法では全国会議員の七割、八割の賛成を得て、つまり自民党と民主党のかなりの部分、それに公明、自由、保守が加わり、七割、八割の人達を結集して法律を制定することができました。憲法改正は衆参両院の三分の二以上の賛成が必要ですが、決して夢物語ではなくなってきているわけです。さらに平成十四年七月四日の産経
新聞に報じられていましたが、憲法調査会が五年を目処として報告を出すことになっておりまして、もう二年半後には報告書が出るわけですが、中山太郎会長は、この憲法調査会の終了後は特別 委員会を設置する必要がある、その特別委員会は憲法改正のための特別委員会だと言っておられます。いま国会にあります憲法調査会はあくまで調査報告のためであって、議案の提出権はないとわざわざ縛りをかけている。その為に改正案を提出することは出来ませんが、それが終わったら憲法改正のための特別委員会を設置する必要がある。そういうことまで述べておられるわけです。もうこういう所まできているわけです。

 そしてさらに 「民間憲法臨調」 が平成十三年の十一月三日にスタート致しました。この会は民間の側から国会の憲法調査会をバックアップし、またある意味では憲法改正の道筋を憲法調査会に示していこうと、そういう趣旨で立ち上げたものです。そしてこの会には、従来では考えられなかったような方々が多数参加しておられます。

 代表世話人には三浦朱門元文化庁長官になっていただきましたが、世話人のなかには、京都大学
教授の中西輝政先生がおられます。それから浅野一郎先生。この方は元参議院の法制局長ですが、「元参議院法制局長」 の肩書で参加してくださっています。こういう時代なんです。さらに代表委員としては、特筆すべき方々として、例えば現役の読売新聞論説委員長・朝倉敏夫氏や産経新聞の花岡信昭論説副委員長も入っておられます。それから漫画家の小林よしのり氏やあるいは櫻井よしこ氏。桜井さんは我々と思想的にかなり近いものがあり、憲法問題についても同じように考えていらっしゃるように思いますが、もともとこういう会とか組織運動には参加されなかった方です。あくまでも一人でやってこられた。そういう方が、今回は参加して下さっております。そして研究会にもわざわざ出席して下さる。名前だけではありん。それから労働界からはゼンセン同盟会長高木剛氏が参加して下さっています。これも画期的なことです。

 代表委員は百名前後の方々がいますが、学界、経済界、マスコミ界それに労働界など、各分野の主だった方々が参加しておられます。この研究会は毎月開かれていますが、常時、四、五十名の方
が、それもこんな忙しい人がと思われるような方々が、熱心に出席され発言されています。

  ですから、このように憲法改正のための民間運動が盛り上がっている中で、もし谷口雅春先生が今いらっしゃったならば、本当に先頭に立ってこの国民運動を指導され、我々信徒たちにハッパをかけられたのではないかと思います。

 先に触れましたように、この憲法改正運動に当たってやはり何よりも大事なことは、国家論・人間論であります。あるいは国家観・人間観と言った方が正しいかもしれません。これを確立するということ。これが無いと単なる小手先の技術的な改正論になってしまうわけです。したがって国家とは何かを真っ先に考えていく必要があります。果たして言われるように、国家とは単なる部分の寄せ集めなのか、あるいは単なる権力、必要悪というのが国家なのか。このような国家観、国家論からは本当の日本の憲法というのは生まれてこないはずであります。

 「必要悪としての国家」 などというものは、これは実は 「政府」 のことであって、本当の国家というものはそのような政府を包含するところの
「有機体」 であり、谷口雅春先生の言葉を借りれば、まさに 「生命体としての国家」 であります。つまり、歴史と文化、伝統を共有する、「国民共同体」 こそが真の国家であり、そしてその中に管理機構として政府があるにすぎないわけです。

 政府というのは確かに国民の総意によって作られます。しかし、共同体としての国家というものは我々の意志で作ったものでは決してない。生まれたときに既にあったものです。そしてこの国家の構成員というのは、我々の先祖、今生きている国民、それにこれから生まれてくる人達の、言わば時間的な共同体でもあるわけです。国家とは、決して今生きている国民だけのものではありませだからこういう国家観というものが根本になかったなら、本当の憲法というのは出来ないと思うのです。

 また人権ということが盛んに言われますけど、人間とは何かということを、憲法学者達は誰もはっきり語っておりません。しかし私は、人権について語るためには、まず人間観ということから考える必要があると強調しているわけですが、こういう国家観・人間観ということを考える際には、
やはり谷口雅春先生の教えというものが非常に重要な意味を帯びて来ると思います。

 最後の最後になりましたが、憲法改正運動の展望でございますが、憲法改正はこの五年から十年以内に必ず実現すると思います。また実現しなければいけないと考えております。そのためにも私どもは広範な運動を展開して行く必要があると思います。


 今こそ生長の家教団が、本来の使命に目覚め、本来の教えに立ち返って、憲法改正運動のために立ち上がってくれることを心から念願致しまして、私の拙い話を終わらせていただきます。

 

ご業績とエピソードへ
総合目次へ