平成17年11月号

み教えを生きる悦び (22)

尊師のまなざしが私にそそがれたとき…

鎌 田 久 子


 「真理への道はただ一つ ─ 人間は神の子だということである」 (智慧の言葉)

 尊師は、この一点、この一大事(唯神実相の神髄)を、あらゆる角度から、縦横無尽に説き明かされた。
「 ”神” そのものの生命があなた。全身全霊にみちみちて ”神” 詰まります魂が、あなたである」 と。
  この「神の子・人間」の聖句によって、私たちは

  『無原罪の神聖受胎』 の生命われなり。
   全智全能の神の生命の継承者われなり。
   神の全たき遺伝了を享けつぐ使徒われなり 。

 この自覚を得せしめ給い、いかなる暗黒に直面しても、光明の世界に転身できる神想観をも伝授されたのである。
 この悦び、この感動は、とうてい言葉や文字では表わすことのできない、尊く、有難い今生の一大廻心事である。

 あの日 (一月三日) 、私は本部大道場の窓側に正坐して、尊師のご法話を拝聴していた。
─ 身体は入浴によって洗い清めることができる。 けれども、みえない魂をおおっているベールをはぎとり、 「真無垢・真清浄の輝く生命われなり」 の自覚に到るには、どうしたらよいのだろうか。
 青年会の先達に伺うと、 「畳に穴があくまで坐りつづけ、ひたすら神想観に励むこと」 と教えられた。
  しかし、悠長に神想観三昧に徹することは現代社会では無理なのでは … 。 それに ”難行苦行は悟りの囚にあらず” と 「生命の実相」 にも著わされている。 と、生意気にも思うのだった。
 とにかく私は、世間からはお若いのに生長の家に熱心で、明るく素直なお嬢さん、といわれていた。ところが、誰にもいえない悩みをかかえていた。

 一、父の他界から始まった死への恐怖。
 二、自己の肉体への嫌悪感。

につきまとわれていた。
 食べず、眠らずの、長時間神想観に挑戦できないのなら、特別講習会 (昭和三十三年一月三日〜五日) に参加させていただこう。 そこで 『永遠に不壊不滅の生命われなり。永遠に汚れざる生命われなり』 のゆるがぬ堅信を得たい。私は必死の思いを秘め、大道場に鎮かに端座していたのだった。

 ご法話が始まり、五分ほどすぎたころ、尊師のまなざしが、私に注がれているような気がしてきた。それは錯覚というようなものではなく、 ピッピッ とくる確かな直観であった。
 あぁ、尊師は、たくさんの聴講者の中から、いと小さな私の悩みを汲み上げられて、いま諄々と導き給う。そのお声は、やさしく、厳かに響き渡り、そのひびきは、光の波動となって、私の全心、全魂を照射し、迷いのヴェールをことごとくはぎとってくださるのだった。

 (一)、久遠不滅の金剛身・死せざる生命汝なり。
 (二)、母の胎内は神の宮・不汚染の生命汝なり。

 尊師は、榎本あやめさんの体験例などを具体的に引用されながら、父が娘を諭すように、限りなくおやさしかった。

 「谷口先生、どうして私の悩みをご存知なのですか。榎本あやめさんのことは、小学生のころから拝読しておりましたのに。 知識を得ることに汲々として、のたうちまわっていたのですね。現象の世界に立って、神の子円満完全・不壊不滅の生命の自覚を望んでいたのですね。生命の本源、ただ実相世界に、たち還りさえすれば、よかったんですね。 三百六十度のコンバーションとはこういうことだったのですね。有難うございます。ありがとうございます。」

 涙がどうっと堰を切ってあふれ出した。二枚のハンカチがびしょびしょになり、ティッシュを全部使い果たしても止らない。見かねた周りの方々が リレー式にティッシュを届けてくださる。しゃくりあげる嗚咽を抑えるのが精一杯で、お礼の声を出そうものなら、号泣になりそうな私は、ひたすらお辞儀をし、涙を拭っていた。
 聖師の ”光” の霊泉に浴している間中、涙は間断なくあふれつづけた。まるで心身の付着物を洗い流すかのように … 。偉大な師にめぐりあえるように、われをこの世に生ましめ給いし両親よ、御先祖よ。神よ。本当に嬉しい。本当に有難うございます。
 感謝と、悦びと、感激のおもいが、沸点に達すると、涙がふきこぼれることを、はじめて体験させていただいた。

 宙を飛ぶようにわが家に帰ると、 「お帰りっ」 とみんながすこぶる御機嫌で迎えてくれた。 あらっ、これが以心伝心? と思っていると母が笑顔で、 「久子さん、今まで悲しい思いをさせて御免なさい。今日から鎌田家は、一切肉料理はつくらないことに決めました。安心してね。」
 私の目頭は、またも、涙腺がゆるんでくるのだった。





鎌田久子氏
どんな教えか
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