平成18年 2月号

み教えを生きる悦び (25)

二つの挫折感 と 著書 『信仰と愛行による新生』 との出会い (下)

鎌 田 久 子


  尊師の名訳とあい挨ったマン女史の文章は、神愛と、神智と、神力に裏打ちされた力強い筆致で、私の迷妄を、信仰心の甘さを木っ端微塵に打ちくだいた。

 「もし芥子種ほどの信あらば、この山に動いて海に入れと言うと雖も、必ずならん」

という祈りも、女史は、人類の至福と向上にとって必要な祈りであるならば、必ず成就すると、確信にみちて説いておられる。 ”神の子無限力” を尊師からあれほど教えていただきながら、私にはそんな大それた祈りなど出来っこないという、 ”芥子種ほどの信” もない自己不信があった。
 玉置和郎議員の根回しのお蔭で、元総理とも三十分近く面会し、 「このまま堕胎を放置すれば、日本民族が地球上からいなくなります。」 と、五百年後は0になるブルグ・ドルファーのグラフをつけて手渡したこともあった。朝飯会 (国会議員の勉強会) にも数回出席させていただいた。ただあまりにもソフトな対応に、いささかの不信が生じていた。

 女史は、「山をも動かす信仰」 を増強するには、三つの段階の絶対信仰が大切だと、説かれる。

 一、神に対する信
 二、人に対する信
 三、自己に対する信

 女史は、くりかえし、たたみかけるように、

 一、宇宙には、唯ひとつの力がある。その力は善である。
 二、その力を恐怖心をいだいて使うならば、その力は、わたしたちの欲しないものを
    持って来るのである。
 三、その力を信仰をもって使うならば、その力は、わたしたちの願うところのものを
    もって来てくれるのである。

… と。

 私は、いつのまにか神への絶対信、絶対愛からはずれて、”成就しなかったら … ” という芥子種ほどの恐怖心があったことを気づかせていただいた。また ”既に成就せり。神さま有難うございます” という信念と気魄にみちた祈りが足りなかったことを、深く反省した。

 いま私は皆様ご存知の逸話を思い出している。

 ある男が昇天して天国に行くと、神様が 「お前の生涯を、早送り映像でふりかえろう」 と言われ、興味ぶかく見入った。 白い砂浜に二人の足跡が刻まれていくので、男は 「神様、あの、もう一人の足跡は誰なのですか」 と尋ねた。神様はにこやかに 「ああ、あれは私の足跡なのだ」 と言われた。男は 「神様、あなたはいつも私の側にいてお守りくださっていたのですね」 と感動した。
 やがて映像が中盤にさしかかると、突然男は叫んだ。 「ああ、神様、あなたはひどい。私が人生でいちばん苦しいときに、あなたは私をお見捨てになった。あのときの私は、たった一人で歩いている」 すると神様は 「男よ、勘違いしないでほしい。あのとき、お前は弱り果てて一歩も歩けない状態だったのだ。だから私はお前をしっかり抱きかかえて歩いた。あれは私の足跡なのだ」 と。まことに神様は、一瞬なりとも、私たちを愛することをお忘れになったことは無いのだ!

 神に愛され、神によって生かされているこの生命は、神の御意思を実現するためにこそ、使わせていただかなければ、としみじみ思う。

 女史の三部作の結末篇にあたるこの著書は ”富の創造と活用法” ”健康の回復と維持” など十三章にわたって詳述されている。 しかし私の心を深く捉えた章は、第十章の ”より善き世界をつくるために全人類に対する助言” であった。
 女史は、

@ 共産主義は霊的に嬰児である。
  自己中心・夜郎自大・権力への異常な渇望などがその特徴。

A 共産主義は一種の宗教である。

B 共産主義は悪である。

C 共産主義は決して全世界を支配することは出来ない。

D 共産主義は失敗する (結局は内部から崩壊する)

と分析する。

 「もし共産主義の与えた苦痛と殺害と略奪と脅威がなければ、人類は科学と愛の宗教が手をつなぎ、両者が共存している時代を持ち来たすのに、なお数千年を要したかも知れない。戦争や、爆弾や、軍隊の殺戮なしに、唯物思想を崩壊させ、速かに理想世界を実現する方法は如何? それは発願し、祈りと、信と、愛と、行動によって可能である。地球上の人類の二%が祈りつつ真理を実践する教師として起ち上り活きた範例を示せばよい。」

 ”ひと二人して祈らば、かの山海に入ることも可なり” とキリストは言った。
 この地球上の人類六十四億の二%、一億二千八百万人が世界平和の祈りを行えば、必ず核兵器は陰を潜める筈。
 私たちは万能の神に波長を合わせ、実相世界を顕現する黄金の鍵 ”祈り” を与えられている。今こそ日本民装の使命遂行に燃えて、ますます ”祈る使徒” を殖やして地球浄化に励みたい。






鎌田久子氏
どんな教えか
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