平成18年10月号
み教えを生きる悦び (32)
念じて行動すれば花ひらく
渡辺はま子
鎌 田 久 子
全国の女子学生を主体にした「皇居勤労奉仕」 ”たをやめ会” と御一緒した折、私たちは、休憩時間になると、緑陰で輪になり、文部省唱歌や、「愛国の花」 を歌いあった。 飯田橋のユースホステルで四泊五日、家族のように親しくなった方々と名残を惜しんで帰宅すると、山積みの仕事が待っていた。 ”女といえど生命がけ” と、歌詞に気合いを込めて歌いながら仕事をこなしていた夜、渡辺はま子の生涯がNHKで放映された。よく母が 「はま子は武蔵野音大の声楽科出身だから、音程がしっかりして声量がゆたか。流行歌手とは声質がちがう」 といっていたが、私は、艶と甘さを含んだ高音の美しい歌姫、くらいの知識しかなかった。 ところが、この夜、彼女は明治生まれの気骨をそなえたすばらしい女傑であったことを知ったのである。 フィリピンの下院議員ピオ・デュラン氏は、文部人臣を務めたこともある親日家で、二人の息子には、日露戦争の英雄、乃木将軍や東郷元帥の名前をとって 「ノギ」 「トウゴウ」 と名づけていた。しかも戦後は、日本との貿易会社も経営し、モンテンルパの戦犯釈放に尽力していた。 昭和ニ十六年一月十日、復員局の植木信良事務官の計らいで、来日したデュランと留守家族十八人との懇談会が実現した。デュランは、国の法を犯してモンテンルパの戦犯に贈物を届けたり励ましたりしていた。留守家族は肉親の消息を真心こめて伝えるデュランに心から感謝し信頼の絆を深めた。 懇談会が終わると、死刑囚の鳩貝吉昌の次女、十ニ歳の礼子がデュランに駆け寄った。 「おじさん、私が生まれてからまだ一度も会ったことのないお父さんに … 」 あとは泣きじゃくって言葉が出ない。デュランも涙をふきながら、礼子をしっかり抱きしめて言った。 「私も、あなたがお父さんに生きて会えるように努力します。留守家族の皆さん、今日のお気持を、必ずフィリピン政府にお伝えします」 と、約束した。その三日後に、はま子はデュランと会うことになる。 その三年前に厳しい東京裁判が終わり、やっと巣鴨プリズン慰問の許可がおりると、はま子は自己の信念にもとづいて慰問を開始。慰問の会が終わって、かつての立派な軍人や政治家が、粗末な囚人服を着て、並んで獄舎に戻る後ろ姿に、何度も涙した。その様子を見ていた巣鴨プリズンの関口教誨師は、モンテンルパの友人加賀尾教誨師を助けたくて、はま子を誘った。 「今夜、フィリピンの政治家と会います。彼はあなたのファンです。日本の戦犯釈放に取り組んでいます。食事でもいかがですか」 彼女は、戦犯釈放の言葉を聞くと、すぐ諾と応えた。 食後、はま子は、心を込めて 「愛国の花」 と 「支那の夜」 を歌った。デュランは、感激して、モンテンルパの真相を告げた。無実の罪ですでに十七人が処刑され、一〇八人が囚われている。私は、政治生命を賭して一〇八人の日本人に、祖国の土を踏ませたいと、決意を打ち明けた。衝撃を受けたはま子は、 「モンテンルパヘ慰問に行かせて下さい」 とデュランに訴えた。デュランは彼女の勇気に驚きながらも、 「まだ国交が回復していない。現地住民の感情も収まらない。いつか必ず道を開く」 と約束した。(やがてその約束は実現するが割愛する。) 現地の加賀尾は、処刑におびえて暗くなっていく死刑囚たちに希望を与えるような詩を作ってほしいと、死刑囚の一人である代田銀太郎に提案した。代田は「チリ紙通信」は発行していたが、作詩には半月苦しみやっと仕上げた。作曲は、同じ死刑囚の伊藤正康が一晩で完成させた。 「ああモンテンルパの夜は更けて」 は、はま子の声で吹き込まれ、レコードは八万枚ヒットした。また留守家族と力をあわせ、五百万を超える署名釈放願いをキリノ大統領に届けた。しかし、愛する妻と三人の息子を日本兵に殺された大統領の心は、固く閉ざされたままたった。 オルゴール会社の社長吉田義人は 「モンテンルパの曲、オルゴールにできないかしら」 のはま子の言葉を受けて、金蒔絵のアルバム型一台と宝石箱型二台のオルゴールがはま子に贈られた。 はま子はすぐさまそのオルゴールを現地の加賀尾に送り、加賀尾はあるひらめきでそれをキリノ大統領に献上した。大統領は、じっと目を閉じて聴いていたが、 「この哀調を帯びた曲は?」 と尋ねた。加賀尾は 「モンテンルパの死刑囚が作詞作曲したものです」 と答えると、深く頷いた。 やがて大統領は胃病の手術でアメリカに立ったが、その二日後、弟のアントニオから、 ”一〇八名全員を釈放する” との発表があったのである。 ”強く念ずることは必ず成就する” 。 私も神様に、深く、強く祈りを捧げよう。 ”戦後殺されし胎児をふたたび生ましめ給え! 育ませ給え!” |
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