お母さん、
お母さん、
お母さんてば
おかあさん
なんにもご用はないけれど
なんだか呼びたい
おかあさん。
(佐藤恭子作詞 ・ 中田喜直作曲)
おかあさぁーん。天地四方にむかって呼びかけると、身体中にあたたかいものが広がり、元気、やる気、勇気が湧いてくる。
この世でいちばん自分のことを愛し、信じ、案じていてくれるのは母。辛く、悲しく、困ったときにも、すべてを投げ打ち、全身全霊で励まし、助けてくれるのは母。
わたくしにとって、母はこよなく慕わしく、有り難く、尊い存在であった。
身心すこぶる健康に恵まれ、何ごとも善意に解釈し、よく ”ころころ” と笑う母だった。そんな母が、ある朝、鏡の前で髪を槐かそうとして耳のあたりまで櫛を持った右手をあげては、だらりとおろす仕草をくり返していた。
「どうしたの、お母さん」やさしく声をかけて鏡の中をのぞくと、 「ひちゃこ(あら、発音がオカシイ)、手にね、力が入らないの … 」 と幼な子が母親に甘えるような口調で、悲しげに訴える母が映っていた。右頬面も少し弛緩している。
まさか、母がこんな状態になるとは、想像したこともなかっただけに、ショックは大きかった。
昨夜、なぜもっと母の気持を汲んで、一緒に憤ったり、悔しがったりしなかったのだろう。母はストレスが発散できなくて、血圧が上がり、脳軟化症になってしまったのだ。わたしの愛が足りなくて半身不随に … 。 ”ごめんなさい。ごめんなさい。” 隣の部屋にかけこむと、涙がとめどなく溢れた。
篤志家の祖父 (母の実父) は、全財産を長男に譲る遺言を残して他界した。母の弟は、戦後施行された主権在民の憲法や法律を盾に取り、兄を相手に提訴。その間、寡婦の母に財産放棄の用紙に印を押してほしいと頼みに来た。母は祖父の意志を尊重してすぐに応じた。他の姉妹四人も準じた。一年後に勝訴した弟は、数億円を取得。
やがて、玉川学園の瓢箪池を見おろす奥地に 「豪邸を建てた」 と実家の兄から知らされた。利己主義者と、親戚中から非難され、孤立無援になってしまった弟を不偶に思った母は、お守り『甘露の法雨』五体と時計を携えて、お祝いに駆けつけた。
祝意と愛念にみちて訪ねて行った母に、弟は 「忍耐と知力と努力によって戦い取った財産を、何の苦労もせずに、分け前ほしさに来たのだろう」 と、ひどい暴言を口にしたという。日教組の幹部として活動しているうちに、唯物思想に染まり、人格が変貌してしまった弟に、母は返す言葉も出なかったという。弟の妻がとりなすと、その妻をも怒鳴りつけて書斎のドアを荒々しく閉めたそうな ─ 。
他人の言動であれば、み教えを信奉するネアカの母は、すぐ立ち直ったにちがいない。肉親の情に厚い母は、弟の実相が赤い思想によってくらまされてしまったことが情けなくて、悔しくて、心が引っかかってしまったのだ。
母の苦しみをもっと深く思いやり、包容してあげていたら … 。 あの夜、浄心行を一緒にしていたら … 。すべての反省はあとの祭りであった。
半身不随の母観世音菩薩様は、私の仏性を引き出し、導き給う、最高の人格神であった。
若くして本部講師を拝命した未熟な私は、身体の不自由な母を看病する体験をさせていただかなかったら、頭でっかちの鼻持ちならない講師になりさがっていたと思う。
母と同年代位の白鳩幹部の方々、上司の方々を心より礼拝し、かしずくことができたのも、母観世音菩薩のお蔭である。
全国各地の出張から帰宅すると、料理、洗濯、掃除、買い物、入浴の介助と、睡眠時間の少ない日々を送るようになった。いまさらながら家事万端を喜々としてこなし、女手一つで私たちを育て上げてくださった母へ、限りない感謝の念が湧き、ご恩返ししなければと思う。 ─ お母さん、早く良くなってまた一緒に歌ったり、踊ったり、笑いころげましょうよ ─ 。
一泊研修会のため、二日間家に戻れないときも切ないが、北海道・沖縄の出張は、十日間以上となる。お隣りの奥様に 「一日に一回、必ずお声をかけて下さいませ…」 とお願いしているものの、娘の介助を待つ母を思うと断腸の思いである。
あの大好きな尊敬する母が、半身不随になるなんて … 。信じられない、夢であってほしい、本部講師なるがゆえに、誰にも相談できない悩みをかかえ、私は地獄の底をのたうちまわっていた。精も根もつき果てた或る日、本部の聖典売り場に行くと、真新しいご本が出版されていた。
『静思集』 (新選谷口雅春選集12) この聖典によって、私は天国へと誘われた。
(つづく)
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