『静思集』 を手にとり、ぱらぱらと頁をめくり始めたとき、わたしはあまりの嬉しさに、思わず ”神様” と、その場に坐り、合掌しそうになった。
当時、わたしは、家族の中に身障者や病人を抱えた方々が、どんなに精神的な苦痛を乗りこえ、介護の重労働の大変さに堪えてらっしゃるかを身に沁みて体験中であった。
母の病いは、私の信仰の度合と、愛の深浅を試すかのように一進一退をくりかえしていた。或る日、京都の一日研修会が終り、明日は大阪へ移動というスケジュールだったので、宿泊旅館の夜は個人指導に訪れる人もなく静かだった。 久し振りに、二時間半、母の完治した姿を描いて、真剣に遠隔思念を送信した。
翌日夜遅く、ようやく家にたどり着き、玄関の扉をあけると、なんと母が、
「お帰りなさい」 と走り出てきた。
「あらっ、歩けるの?」 と驚く私に、母は嬉し気に
「ほらね。」 と、何度も歩いてみせるのだった。
「久子、祈ってくれたんでしょう。」
「ええ」
「八時半になったら、 ”世界平和の祈り” がしたくなってね。それから 『甘露の法雨』 と 『天使の言葉』 を誦げたあと、お聖経で身体中をなぜていたら、実相円満完全・実相円満完全って、久子の声が聞こえてきて、一緒に合わせて誦えているうちに眠くなってしまって … 。 今朝おきたら手足が軽くなって、こんなに動けるようになっていたの … 」
と母観世音菩薩様は、切実な祈りが、時空を超えて届くことを、教え給うのだった。
その後の数力月、母は神癒によって健康にさせて戴き、感謝に満された日々を過していた。元気になった母に、有難う、有難うと、私もまた安心して、伝道に励むことができた。ところが、沖縄十日間の出張から戻ると、母はお風呂場のタイルの上に転倒し、額から頬にかけて青痣ができ、右手中指の第二関節の骨がくの字にピキュッと突起していた。
すぐ両手の平に挟み思念することニ十分。くにゃっと骨が伸びた。
「久子は祈りの天才ね」 と明るく満足気の母。
けれども次の出張スケジュール表にジーッと見入ると、
「今度は、長崎南北の一泊なの? 四日も一人で留守番をして居たら死んでしまう。 講師をやめて、側にいて … 」 と、駄々っ子のようになってしまうのだった。
私は、娘として母への愛情を存分に出し切る孝養に徹すべきか。 「生政連」 行事と、白鳩会行事がびっしり重なり、休日のほとんどとれない状態の中で、日本国家の実相顕現運動に全身全雲を捧げて使命遂行を果たすべきか悩み抜いていた。
尊師の貴重なお時間を頂くことは、申し訳ないと思うものの、正直に現状を訴えて御指導を仰ぐしかないと思いつめていた。そんなとき、神界から尊師をとおして、真理が満載された『静思集』 という救いの御手が差しのべられたのである。
この書を、尊師は、人類の先覚者として居丈高になって説教しようとして書いたのではないといわれ、かつてない表現手法(手紙形式)で綴っておられる。とくに第二章の 「家庭に悩む人への手紙」 は、あたかも私の悩みにご返信くださっているような内容で、すがりつく思いで拝読した。多分、相談者と私とのちがいは、男子高弟とその奥様との関係、末弟の女子である私とその母との関係、そして講師としてのキャリアの長短かと思う。
十四通にのぼる尊師の返信は、二五頁にわたって、切々と諄々と、体験例話を挿入されて認 (したた) められている。しかも尊師は、弟子に対して、心より愛情と尊敬をこめ、苦悩を共有されながら、涙をこらえ、毅然として ”肉身の情を断ち切って下さいませ” と迫られる。一言隻句からほとばしり出る霊気は、私の迷いを吹き飛ばし、渇いた魂をひたひたと霑してくださるのだった。
『静思集』 の第二章の尊師の返信によって、私の堅信と伝道遂行の決意は、ゆるがぬものとなった。
心が定まると、環境も自ら整ってくる。私の出張中に、今度母が倒れたら万事休すである。不安を解消するためにも、入院が一番という声が職場や親戚中から出て、入院してもらうことになった。
母は、自然治療力を信じているので医者も薬も受けつけない。そこで枕元でお聖経を誦げたあと睡眠中の母の潜在意識に語りかけた。 「有難いわねえ。家から三十分のところにキリスト教の病院があるの。とってもきれいですてきな病院よ。一度診察していただきましょうね」
今まで、自宅療養にこだわっていた母は、三日後、素直に入院に応じてくれた。
私は、後顧の憂いなく、丁度開始された選挙戦に全力投球した。また 「憲法復元」 「優生保護法」 改正のためにも 「白鳩」 会員百万名達成をめざし、火の玉のごとく燃えて挺身した。まことに母は、半身不随となって、娘の神愛・神智・神力を引き出す観世音菩薩様であった。
如是・合掌
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