世も末と沈みゐしとき知人より 初孫生るるの嬉しき電話
六月二十八日の昼下がりの刻 (とき) だった。
「先生! お蔭様で、今朝孫が生れました。九時四十分に分娩室に入って、わずか十一分でした。女の子で、体重は三千百八十グラム。 とりあげて下さったお医者様も 『安産でしたねえ!』 と祝福して下さいました…」
「私もお産のご報告はずいぶん頂いてますけど、こんなに短い時間に生れてきた赤ちゃんは始めてです。 産ませて戴くことに慶びいっぱいの妊婦と、生れてくることが嬉しくてたまらない胎児との心身の呼吸が、ぴったり合っていたからなんでしょうね」
「ええ、いつも先生が微に入り細に入り、やさしくお導き下さっているお蔭です」
「いいえ、正枝さんが素直に、真剣に真理を実践されて、ご家族や、ご親戚や、まわりの方々に愛をふりそそいでいらっしゃるからですよ」
「私、嫁の祐美子さんが娘と同じに見えて、いとおしくてなりませんの。外出から帰宅しましたら、走り書きのメモが置いてあったんです。 ”お母さま、出発前にご挨拶をと思っていましたが、すれちがいになってしまい中訳ございません。感謝の心で元気な赤ちゃんを産んできますね。入院中はまたいろいろお世話になりますが、宜しくお願い致します。では行ってまいります” って…」
「まあ、正枝さんにすっかり甘えて、大安心、大調和の心境で産院にむかわれて、それで大安産でしたのね…ほんとによかった…ほんとうに…」
私は電話口であふれ落ちる涙をそっとぬぐった。有り難かった。うれしかった。実は…。
つい三日前に、突如まったく予期せぬ事件に逢着してしまい、 「生命尊重運動」 が暗礁に乗り上げてしまったのである。今日も二千名以上の中絶児が葬られているのに、歯止めをかける神の聖業が推進できない、第一義を第一義として、一日たりとも事務機能を停止させてはならないのに、四面楚歌の真っただ中にいた。
”泣いているときには笑えない。笑っているときには泣けない” 私は笑顔で、黒雲のはれるのを祈りながら、奔走にあけくれていた。そんなときに、○○家からの朗報をいただき、暗い洞窟に一条の光と、酸素を与えられた心地だった。
昨年の九月、渋谷区幡ヶ谷で第二回目の 「日本の息吹」 誌輪読会を開催したとき、はるばる石神井から正枝さんも参加して下さり、集まったみなさまに愛念のこもった手作りの大きなアミフルパイを二個ずつ配られ、とても好評で 「来てよかった。楽しかった。美味しかった」 とみなさま大満足で散会した。
この日、私は同じ本を二冊、正枝さんに差し上げた。少ない文字で、やさしく、あたたかく、魂にすーつと溶け入ってくるような詩的な文章と、広いスペースをぜいたくに使い、ホーッと声をあげるほど美しい花の写真が心に安らぎを与えてくれる名著 『遊煌(ゆきら) ─ お母さん生んでくれてありがとうI』 (池川明著) で、
一冊は、内科医師と結婚され、いまも慶応大学病院で薬剤師として敏腕をふるい、病院長先生より信頼されている正枝さんの長女・真理さんに、
二冊目は、○○JS且ミ長のお父さまを支え、ご両親と住んでおられるご長男のお嫁さんである祐美子さんに、これから父・母になるご夫妻に読んで頂きたいとの気持ちを込め、○○家のご繁栄を心から祈念して、お渡しした。
三、四日たった頃、正枝さんからお電話が入った。
「先生、嫁が ”お母さま、このご本を読ませて頂きましたら、感激して涙が出ました” と申しまして…」
「まあ、魂の高いお嫁さんですね」 と讃嘆しながら、わたしは、すでに素晴しい生命が授けられたのでは?と、ひそかな希みを抱いた。
ニカ月後に、正枝さんからはずんだお声で、祐美子さんの妊娠が告げられた。その時も私は思うのだった。お嫁さんは実家には帰らないだろう。あたたかく、おおらかな愛で包み込むように接する正枝さんのもとで、安心して出産されるに違いないと。
短い時問で、無事に出産された祐美子さんの受胎は、とても神秘にみちていた。五十代後半で祖母になられた正枝さんは、すばらしい方である。素封家の長女としてみ教えを信奉するご両親に、慈しまれて育った彼女は 「あの征雄さんとの結婚なら大丈夫」 と、父親から太鼓判を押されて嫁いできた。姑の良子刀自(とじ)は、三十四歳で戦争未亡人となり材本店を繁栄させ、四人の子供を立派に育てあげた。人情に厚く頭の切れる、男まさりの方たった。
正枝さんは、嫁と姑の確執という最も難しい人生の方程式に、見事な解答を見出し、いま磐石の真理をよりどころにして倖せに、美しく輝いている。
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