平成19年12月号

み教えを生きる悦び (45)

祈りは必ず叶えられる (下)

鎌 田 久 子


「すべてが備わっている実相の世界から、祈りによって、この世に引き出せばよいのです」

  輝子先生の凛としたゆるぎないお言葉は、彼女の魂に深く刻み込まれた。医師に、このまま出血が続けば切迫流産で流れてしまうかも知れない、助かる確率は数パーセントと聞かされたときには心臓が破裂しそうなショックを受けたが、七年間、祈り、信じ、感謝行に徹してきただけに、母となる自覚が足りなかったと即座に反省し、生まれて来る小さな生命に泣きながら感謝し、感動し、一晩中 『甘露の法雨』 を読誦し続けた。そして神への全托の境地になったとき、奇蹟が起こり、出血は止んでいた。

  後日、医師は彼女に告げた。 「出血の間中、赤ちゃんは子宮の入り口に鉄棒の懸垂のような格好をしてしがみついていました…」 と。
  安静を保つため、初めての入院生活を体験し、母子ともに不安が一掃され、しっかりと子宮に着床してくれた赤ちゃん。彼女は入院中、ご先祖様、舅姑、ご両親、夫、小姑、職場の皆様、看護師さんに心から感謝し、聖経読誦三昧の数日を過ごすことが出来た。

  退院してからも、感謝行と聖経読誦を続けた。三十代後半の初産。まわりはハラハラしているのに、ご本人は至って平気だった。ご先祖様が授けて下さった尊い生命、という磐石の信念が培われていたからだ。
  やがて月満ちて出産の日を迎えたときも、「神様が神の子を産ませて下さるのだ、嬉しい、楽しい、有り難い!」 とくりかえし心の中で唱えていると、言葉の創化力のお蔭で楽な出産ができたという。

  彼女は言う。

『赤ちゃんを取り上げて頂いたとき、ずっと側に付き添ってくれていた母が、 「マァ!こんな赤ちゃん見たことがない。朝日が昇るように輝いている!」 と驚きの声をあげ、産着にくるまった赤ちゃんを見せてくれた時は感動して涙があふれました。はじめて会った母親に笑いかけているような印象の赤ちゃんでしたから。考えてみれば、七年間、 『甘露の法雨』 の聖経に浄められた子宮に宿り、十ヵ月もの間、聖経を聴いて誕生したんですもの、崇高な雰囲気を漂わせていたのもうなずけます。

  私が結婚した頃は、いまほど嫁の地位は高くなくて、外にお勤めしながら経済援助をし、姑から料理、和裁、生け花、茶道、はては掃除の仕方など教えて頂きました。
  戦時中に育った私は、家事にうとくて、そんな私を、姑はよくぞ導いて下さったと思います。でも寝る時問が少なくて、むずかる幼児をおんぶして真夜中の舗道を行きつ戻りつあやしながら涙をこぼした時もありました。そんな時は、 「あぁ、私の過去の業がいま消えていくのだわ」 と勇躍して、困難を乗り越えてきました。

  そんな私を、唯一救ってくれたのは、この子でした。一歳四ヵ月頃になると、上手に箸を使い、黒豆を一粒ずつはさんでは 「おばあちゃん、このお豆おいしいからお食べ」 と言ってお茶碗に入れてあげるので家族中びっくり。おばあちゃんは嬉しくて相好をくずして大喜びでした。
  また庭師さんが庭の紅葉の木を剪定していると、 「アァ、可哀相、身体が痛いだろうナ」 と言ったり、蝿たたきを使う私に 「ひどいナァ、可哀相」 と言ったり、まるで悟りをひらいたお坊さんみたいな子供でした。
  三歳六ヵ月くらいから、姑にカルタ取りをして遊んでもらっているうちに字を覚えてしまい、その後は姑に本を読み聞かせて 「何て賢い孫だろう」 と姑を喜ばせるのです。姑に礼儀作法を教えて頂き、幼稚園の頃には、近所の方にきちんと挨拶をして感心されました。

  小・中・高に進んでも、徳育 ・ 知育 ・ 体育すべてに抜群の力を発揮し、小学五年生の頃、 「世界の平和はマスコミによって左右される」 と語った。大学受験は東大・京大合格間違いなしと太鼓判を押されていたが、東大も京大も思想が合わないからと、筑波大学を受験。見事一番の成績で合格。
  大手企業から引く手あまただったが、小学生の時に言った言葉どおり、NHKに入局しマスコミの世界に飛び込んだ。ここでも優秀なキャスターとして活躍。
  しかし、自分の意見が述べられなくては仕方がないと企画局に移り、日本の素晴しい文化を伝えるドキュメンタリー番組を企画・脚本・演出し、大きな賞を戴いた。
「NHKは日本の顔だから、どんどん電話やファックスで意見を寄せて頂き、正しい放映をするよう育てて頂きたい」 と息子さんは語っている。

  神童を立派に育てた母君は、最後にこうおっしゃるのだった。「先生、”天使のほほえみ” を立ち上げられ、法改正されて、そのお蔭で生まれてくる子供達のために大学を作って、日本のお役に立つ人材をどしどし育てて下さいな』





鎌田久子氏
どんな教えか
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