平成20年 3月号

み教えを生きる悦び (48)

伊勢湾台風下の内宮御正殿の奇跡

鎌 田 久 子


  奉仕とは、神さまにすべてを捧げ奉り、四六時中お仕えすることである、と思えるようになった。この自覚は、ひとときもなおざりにできない ”生命尊重運動” に携わらせて頂いてきたお蔭である。
  奉仕といえば、昭和三十四年十二月三十日から、翌年の一月二目まで「第一回全国高校生伊勢神宮復興奉仕練成」に参加させて戴いた時の感動が、いまもけざやかに、よみがえってくる。

  昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風は、有史以来、未曾有の被害を伊勢神宮にもたらした。
  谷口雅春先生は、当時の 「理想世界」 誌に─伊勢湾台風で伊勢大廟の樹齢千年の大杉が、惨めにも倒れた。現下日本の象徴である─と訴えられた。

  その頃、私は幼稚園に勤めていたので、夏 ・ 冬の休暇は、すべて青年会運動に棒げていた。宇治の高校生練成のお手伝いが二十九日に終了し、帰り支度をしていると、楠本先生のお部屋に呼ばれた。
  「お母さんがあなたの帰りを待っていらっしやると思うけど、引き続き伊勢で始まる全国高校生練成会を手伝ってほしい。この電話を使っていいから、お母さんのご了解を得てもらえますか」と仰る。
  お言葉に甘えて、母に電話すると、 「谷口雅春先生が 『明窓浄机』 に書いてらした。日本人の魂のよりどころ皇大神宮の聖地が甚大な被害をうけた。どうか伊勢神宮の復興に尽力して下さいって。風邪引かないように祈ってますからね。しっかり献労してらっしやい」 と励まされた。

  三十日の午後、私たちは楠本・良本両先生方に伴われて、三〜四メートルの倒木の障壁を迂回してようやく御正殿にたどりついた。台風襲来から三ヶ月を経ているので内宮周辺はきれいに片づいていた。樹影のない御正殿は太陽の光を燦々とあびて、富岳のごとく屹立して鎮まり在わすのだった。

    内宮御正殿の奇跡 − 大木はご正殿を全て避けて・・・

  参拝を済ますと、台風当日、内宮をお守りされた宮司様のお話を玉垣内の左側に集まり正坐して拝聴した。

『九月二十六日の十五号台風は、夜に入ると秒速七十メートルを超えました。寸断した電線や、倒壊家屋の木片や、神宮森林の太い枝葉を巻き込んだ台風の目が ”グワァー” と地うなりをたてながら御正殿めがけて迫ってきました。

 私は、御正殿に飛び移り、真中の御柱の前に両足を踏ん張って立ちはだかりました。御鏡とともに、木っ端微塵にくだかれて、天空に散っていこうと覚悟しました。耳をつんざくような轟音をともない、台風は刻一刻と迫ってきます。もはやこれまでと腹が据わりました。まるで巨大な生きもののような強風が三十メートル手前まで来たとき、台風は真っ二つに割れ、左右にびゅーんと分かれて、ものすごい早さで通りすぎてゆく。

  内宮様には指一本触れさせぬ大いなるお力。その間、三分くらいだったでしょうか。あまりの極限状態に置かれたので、しっかり噛みしめていた私の上下の歯は動かず、踏ん張っていた両足は固まって元に戻すのに大変でした。

  やがてお日様が登り、周囲に目を凝らせば、うっそうと茂っていた樹木は全部なぎ倒され、重なって倒れ伏している。その樹木たちは一本も御正殿に向かって倒れておらず、枝葉も全部御正殿をさけて散乱していました ・・・ 』

  まるで神兵が、御正殿を守護し、死守されたとしか思えない奇蹟を目の当たりにしたとき、宮司様の全心身は天照大御神の宏大無辺の神慮に打たれた。そして物言わぬ老樹・神木から立ちのぼる霊気に包まれ、思わずその場に拝脆・礼拝・平伏した。その手の甲には熱い涙がボタポタ落ちたという。

  宮司様のお話に、私たちは言い知れぬ感銘と無量の啓示を与えられた。

  尊師は 『天皇の御位につかれる方は、十善の徳を積まれた最も高貴なる魂の御方である』 と仰せられている。しかし、日本は、初めて敗戦を体験し、神風は吹かなかったと、日本人は神を見失った。GHQの日本弱体化政策をも素直に受け入れ、 “日本なるもの” を否定する日本人がどっとはびこった。ご皇室の祖神であられる皇大神宮、靖國神社、全国の護国神社を国家祭祀から切り離した。しかもマッカーサーは、日本国民が現人神と仰ぐ天皇陛下にいわゆる人間宣言をも発せしめた。何たる不敬であろうか。

  しかしそれでも御正殿はご安泰であった。これは、人知 ・ 人力ではとうてい為し得ないことである。尊師の仰せの通り、大日本帝国は神国であった。天皇国家・真理現成国家であった。魂の底から感動が湧き上がり、六十兆の細胞が打ちふるえた。
  「よし、永遠に不壊不滅の日本の魂・御正殿に殉じたご神木に深甚の感謝を捧げながら、無我献身、復興奉仕に頑張ろう!」 みんなの頬がぬれていた。

  (つづく)





鎌田久子氏
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