いま思えば、あの伊勢神宮復興奉仕練成会に参進させて戴くことのできた私たちは、世界一の果報者だった。
日本民族の魂の中心地・伊勢の聖地で、理屈抜きに、国家の理念・神髄を、全身全霊で、直観把握させていただく、千載一遇の好機に恵まれたことは、大聖師・谷口雅春先生のお導きの賜であった。
昭和三十五年一月二日午後帰京。翌三日には、恒例の谷口雅春先生単独の新春特別講習会に参加させていただいた。私は、原宿本部に向う途中、母にしみじみ囁いた。 「お母さん、私たち、神様に愛されているのね。伊勢練成が終ったら、今年は、三日からご法話が伺えるようにプログラムが組まれていて … 。しあわせ、しあわせ、神仕組みね … 」 と。
母とご本部の大道場に向かう廊下を歩いていると、向こうから青年会長の故菊地藤吉先生がやってらした。いつもなら内気な私は、ご挨拶だけなのに、まだ感動覚めやらぬ気持ちを抑えきれず、思わず 「先生、昨日、伊勢練成から帰ってまいりました」 と申し上げた。先生は相好を崩して、 「ほう、そう。ご苦労さん。ご苦労さん」 と、大きなあたたかい手で握手をしてくださった。
大道場に坐っていると、突然司会者が私の名前を呼び、 「舞台裏までお越し下さい」 とアナウンスが入った。びっくりして伺うと、菊地先生が待っていらして、 「司会者が体験発表者を募っているけど、まだ一人しか申し出でがなくてね。それであなたがいいと、さっき申し込んでおいたから」 と、司会者の方も 「谷口雅春先生は、若い人の体験談を非常に悦ばれますから … 」 とおっしやった。
お二人の笑顔に促がされ、私は生まれて初めて本部大道場で体験発表をさせて戴くことになった。
いよいよ出番直前になって、 「鎌田さん、二人分お話しして下さい。三人目の方が現れないので十四分でお願いします」 と司会者に耳打ちされ、なぜか急にドキドキが収まった。中央の實相の御額に合掌し、谷口雅春先生の御前に進み、合掌礼拝させていただくと、先生も合掌して下さり、あまりの忝 (かたじけな) さに涙が込み上げそうになった。
演壇に立つと仰天した。大道場の両側も、後方のドアのところも、坐れない方々が二重、三重に立っていて、二階もまったく満席である。 ( 『生長の家五十年史』 には、前年は七五三名、この年は二倍の一六七五名とある) やはり危機迫る日本を立ち直らせるべくどう活動すべきか、谷口雅春先生のご指導を仰ぎたくて、菩薩たちが雲集したのだったと思う。この菩薩の皆さまの熱い気をうけ、私もまた燃えて話させていただいた。
「台風の直撃から御正殿を命がけで守ろうとした伊勢神宮の宮司様が、いつもなら十五分で着く職員宿舎までの道を、一時間半かけて帰り着くと、三十人の職員が青い顔をして震えている。職員の目が宮司様の足下に集中しているので、ハッとして 『私は幽霊じゃない、足をさわってみてくれ』 と叫ぶと、皆が足をさわりに来て、よくぞ御無事で、と泣き出す職員もいた。しかも、あのすさまじい台風の目の中で御正殿は大いなるお力に守られて傷一つ受けず御安泰であったと話すと、信じがたい奇蹟がおきたーと、みな相擁して泣き崩れたという。
また、私たちは、谷口雅春先生が大本教時代に着物に縄の帯をしめて修行された故事に習い、三日間作業衣に縄の帯をしめ、軍手に地下足袋をはいて献労に励んだこと、なかでも、元旦早朝、人間神の子の鉢巻をしめ、大日章旗を先頭に、聖歌 『使命行進曲』 をありったけの声を張り上げて歌い、光の行進をさせていただいた歓びの体験は生涯忘れられない。
宇治橋を渡りながら、腕を肩まで振り、足は直角になるまで上げ、頬を紅潮させながら歌わせていただいたとき、感動が込み上げ、涙がにじんだこと。清く澄んで流れゆく五十鈴川よ、この 『使命行進曲』 を日本中の人々の心に運んでおくれ。どこまでも果てしなく広がる大空よ、世界中の人々の魂に、この歌詞とメロディを届けておくれ、人類光明化運動を伸展させるために!そう願いながら …
どうか皆さま、ご子弟を伊勢神宮復興奉仕練成会に参加させて下さい。」
私は無我夢中で話させていただいた。 この年の四月、谷口雅春先生は ”生長の家高校生連盟の歌” をおつくり下さった。そして五月一日、第十二回生長の家青年会全国大会 (本部大道場で開催) に於いて、生長の家高校生連盟が結成され、発足した。 伊勢練成に参加した私たちは、抱き合って喜び合った。
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