平成20年11月号

み教えを生きる悦び (56)

青い風船と美奈ちゃん

鎌 田 久 子


 東の空か明るくなってきた。ふと目ざめた横田めぐみさんは、部屋の窓から裏庭に日を走らせた。

「あらっ、青い風船…」

  一本の木槿(むくげ)の梢に、ユラユラと呼びかけるようにゆれている青い風船。彼女は知っていた。拉致被害者救出のシンボルカラーが、青であることを … 。
  西門に詰めている看視員の巡回は、早朝五時。まだ十五分のゆとりがある。そっと足音をしのぼせて木槿の下に行き、たれ下がっている白い紐をグッと引いた。風船は途中の小枝に引っ掛かり、パチンと割れてしまった。すると中から青い小さな折鶴がひらりと足元に落ちてきた。鶴の翼には、”紙をひらくと裏に文字あり” と記されている。彼女は、右手に鶴を握り締めると、走って自室に舞い戻った。
  高鳴る胸の鼓動を抑えながら、窓辺の暁光の中で折鶴を広げると、ああ、なつかしい父母の筆跡!

  「めぐみちゃん、まだ救出できなくてごめんなさい。必ず会えます。その日の来ることを信じて、待ってて下さい。神様は、すべてをみそなわし給い、お守りくださっています。どうかくれぐれも身体を大切に…。
希望を捨てないで生き抜いて下さい。いま、拉致被害者を無事救出するために、大勢の方が、必死に祈りながら運動を進めて下さっています。もう少しの辛抱です。めぐみちゃん、元気でね。家族一同より」

彼女は、声をあげて泣きくずれた。


「お待たせしました。発車します。」
  車内放送の声に、私はハッと現実に戻った。左側を見ると、ぐっすりねむっている六ヵ月くらいの赤ちゃんが、うば車ごと乗車していた。そばの優先席には、若い母親が汗をぬぐっている。その母親の足を、三歳くらいの幼児かけとばしながら泣いていた。 (この幼児の声を、めぐみさんの泣き声と錯覚して、夢を見ていたのだった)

  「美奈、ママ痛いでしょっ。やめて頂戴」 と、母親に叱られると、自分の気持ちを発散できない幼児は、ますます大きな泣き声を張り上げる。うとうとしかけていた乗客たちは、一斉に目を覚まし、何とかならないのかという非難のまなざしを母子に注ぐ。

  ― 今朝八時から宮下公園に集まって一万個の青い風船をつくって公園の樹木にくくりつけ、九時頃から集まってきた方々には15個ずつ一本の紐につなげていただき、各自手渡す。
  十時から国会議員・家族会幹部・有識者による拉致被害者早期救出のアピール、約四百人による被害者奪還・青い風船デモ。”北朝鮮よ! 家族を還せ! 子供を還せ!” 風船ごと拳を天に突きあげてのシュプレヒコール。
  お昼時になると、ビルから出てきた社員の方々もびっくりして立ち止まり、やがて一緒になって呼応して下さる。やはり日本人だなあ、と嬉しくなる。

  三十六度の炎天下を二時間デモ行進し、宮下公園に戻ったとき、あの風船を一個いただいてきたらよかった、と思った。幼児は、風船が大好き。きっと泣き止むのに。─ (ああ、そうだ。野田さんからいただいた飴玉が一個、ハンドバッグに入っていたはず)

「美奈ちゃん。はいっ。美味しい飴玉!」

  小さな手が素直に伸びて、上手にセロハンをむきお口にポン。急に車内が穏やかな空気に変った。ホッとしたママは、「美奈、有難うは?」 と促す。

「アリガトウゴザイマシュ」
「あら、きちんとご挨拶ができて、お利口さんネ」

  乗客の方々の笑顔のまなざしの中で「ウン」 とうなずく美奈ちゃん。ママも嬉しそうに 「ご馳走様です」 と頭を下げられた。
  たった一個の飴玉が、こんな素晴らしい効果をもたらすとは、面映くもあり、有難かった。

「美奈ちゃんは良い子ね。お母様にだっこしてもらいましょうね」
ママのお膝の上でご機嫌の美奈ちゃん。

「赤ちゃんが生まれると、上のお子さんは、退嬰化現象をおこすんですネ。赤ちゃんがねんねのときは、美奈ちゃんを百%可愛がってあげて下さい。何かと赤ちゃんに手が掛かりますから、そんなときは、美奈ちゃんにもお手伝いを頼むとよいですヨ。タオル持ってきて…。 有難う! ママ助かるわっ…。」
「ああ、そうすればいいんですね」 深くうなずくママ。

  西小学校前のバス停、「あっ、降ります」 「じゃ、お母様は美奈ちゃんと先に降りて下さい。私か乳母車を水平におろしますから… 」 すでに降車口には運転手さんが、
─ すると、中年の男性が二人座席から飛び出してきて、三人で赤ちゃんをそっと地上に降ろして下さった。
  パタンとドアが閉まる。 「発車します」
  窓の外では、だっこされた美奈ちゃんがバイバイと手を振っている。私も窓側の乗客もみんなが母子にバイバイ! バイバイ!
  疲れが吹きとぶ一日となった。





鎌田久子氏
どんな教えか
総合目次