平成22年10月号
み教えを生きる悦び (78)
忘れ得ぬ摩文仁ヶ丘の思い出
鎌 田 久 子
かつて私は、白鳩会沖縄教区連合会長の金城とみさんに案内されて、摩文仁ヶ丘に参拝させていただいた。母と同年代の会長と手を携え 「六根清浄」 を称えながら登った丘の頂には、もう、往時を偲ぶよすがは、何も残されていなかった。 きれいに整地された、広い敷地の中央に 「黎明の塔」 がポツンと建立されている。参拝者が一人もいないことを幸いに二人は、心をこめて感謝の祈りを捧げ、 『聖経 甘露の法雨』 を読誦させていただいた。 小高い丘の下は、絶壁の崖。 周囲には危険防止の太い木の柵が張りめぐらされている。柵の最先端に歩み寄ると、雲ひとつなく、地平線の彼方まで広がる碧い空。海は、太陽の光を反射して瑠璃色に輝き、白い波頭をけたてて、迫ってくる。 この美しい景観は、沖縄の終戦間近も厳存していたであろう。だが、牛島満大将自決の報せを聞くと、もはやこれまでと、この崖から飛び込み自決をした島民たちが相当あったという。 足腰のしっかりしている島民はもとより、小 ・ 中 ・ 高の男女学生も戦力に動員され、尊い生命を国に捧げてくださったことを想い、わたしは感謝の言葉を称えつつ、しばし海に向って合掌した。 ふいに、牛島大将の永訣の和歌が、口をついた。 秋待たで枯れゆく島の青草は 皇国の春に甦らなむ 矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん ”皇国よ、永遠なれ” と、万歳をこめて絶唱された和歌を、現地の丘で奉唱させていただくとは … 。 いいしれぬ感慨にひたっていると、金城会長がどすんと、倒れるように私の胸に顔を伏され、 「グッグッグォーッ。 ウオーウオーッ 」 と苦しみ、悲しみのマグマが、一挙に吹き出てきて、自己抑制できない激しさで泣きくずれた。 私はただ 「辛かったでしょう。苦しかったでしょう」 とやさしく背中をさすることしかできなかった。 長い号泣がやむと、涙と鼻水で洗われた金城さんの顔は、十歳若返って光っている。彼女いわく。 「先生は霊感がおありですね。ほら、いま白い大きな波が押し寄せてきた十五メートル先のところで、長男の利之は、自爆したそうです。小学五年生でした。頭の良い子で、自分から牛島総司令官のところに志願して伝令の役を引きうけて … 。 夜半暗くなると、走って味方の陣地に伝文を届け、朝の暗いうちに、現地の密書を大将の元に届け … 。 何十回も成功して六月二十三日、この丘に帰ってきたとき、大将の自決を知りました。避難していた島民達か止めるのを聞かずに駆け出し手榴弾を浜辺に打ちつけて、 『天皇陛下万歳!』 と叫んで逝ったそうです」 。 ふたたび私は、涙をこらえながら浜辺に向い、 「利之さーん。 有難うございます 」 と心をこめて慰霊礼拝合掌をした。 「沖縄は家族三人に一人はこの戦争で亡くしてます。家(うち)は人と子供二人が ─ 。 先生は対馬丸のことご存知ですか?」 「えぇ」 とうなずくと、 「うちの重雄十歳・小学三年生は、学童疎開で対馬丸に乗っていたんです。学童は八百人、護衛の軍人、学校の先生方、船内の調理師さんなど、千五百人もが乗れる大きな船でした。病人も乗っていにたので、赤十字の印を船腹にはっきり描いて航行してましたのに、米海軍の潜水艦から五発の魚雷が発射され、沈没してしまいました。助かっだのは98名。重雄の遺体も遺品も見つかりませんでした。 七年後に、どんな手掛かりでもいいと思いたち、宮崎県を訪れました。 市役所への道すがら、ふっと農家の庭先に目をやると、見覚えのある毛布が風にゆられて、私を招いているんです。 ハッと駆け寄ると、金城重雄と書いた白い布が縫い付けられてあります。 もう夢中で胸にだきしめ、そこの農家に飛びこんで 『どんなに高くても構いません。 この毛布売ってください 』 と叫んでいました。 … 」 云々。 沖縄の皆さまは、金城さんの体験より、もっともっと悲惨な体験をされている方も多い。 当初、米国は54万余の大軍と千五百隻の艦艇で沖縄を包囲し、五〜六日で全滅させる予定であった。ところが、日本は十一万余の軍隊と島民の参戦による三ヵ月の持久戦攻防を展開して、本土上陸決戦を食い止め、沖縄は、日本の砦となってくれたのである。 昭和四十七年三月十五日、やっと沖縄は、日本に復帰した。ビザ無しで渡航できるようになったとたん、本土からは、レジャーや観光を楽しみに沖縄に行く人がふえた。 「 巨木はさけ、岩はくだけ、海はその形を変え、機銃掃射によってハゲ山と化した 」 沖縄は、深い感謝を捧げ、鎮魂・慰霊の参拝にこそ訪れる聖地である。 |
このことを現代に生きる私達は忘れてはならない。 |