平成16年 5月号

み教えを生きる悦び (4)

神の恩寵に生かされて (一)

─ 父の死と妹の離別 ─

鎌 田 久 子


  神さま、私はずいぶん幼い頃から、あなたの深い恩寵の中に生かされ、育てられてまいりました。
  あの三歳の折に、生と死と別れという人生の一大事に遭遇させていただくことがなかったなら、この尊い御教えを、真剣に体得させていただこうと精進努力する意欲も湧かず、怠惰な一生を送ってしまったと思います。

  肉体を嫌悪し、早く肉体から脱皮したいのに、死んだらどうなるのか、その恐怖にさいなまれ続けた日々。
  母のお蔭で大聖師谷口雅春先生にお目にかかることができ、ご法話を聴聞し、御著書 ( 「生長の家」 誌 ・ 「白鳩」 誌 ・ 『生命の實相』 )をむさぼり読ませていただくことができ、今もお導きいただけるこの仕合わせ。
  迷いの呪縛から徐々に解き放たれ、 ”真無垢 ・ 真清浄 ・ 神聖受胎われなり” ”永遠に生き通しの生命われなり” と少しずつ解らせていただくことができました。本当に嬉しゅうございます。有難うございます。

  妹が生まれたとき、私は三歳一ヵ月。 家中に明るい笑顔があふれた。だっこさせて、と母にせがむと、母は両手で妹をだきあげ、右手で膝の上に安定させ、左手で私を抱き寄せ、だっこをさせてくれた。
  妹は顔を近づけると、甘いお乳の香りがして、ほっぺはマシュマロみたいにぷっくりと柔らかかった。
  まさか、この可愛い妹が父亡きあと、母の実家に預けられてしまうとは知る由もなかった。

  母は、二階に寝ている父を看護し、階下の乳児を育て、小学三年生の兄と、一年生の姉の面倒をみる大変な毎日を過ごしていた。 私が三歳七ヵ月のとき父は他界した。

  父のいまわのきわに生長の家の信徒であった母は、ありったけの聖経を集め、二人一組でお読み下さいと親戚の人たちに渡した。 誌友の方々は、全員お経を持参されていた。
  母の声に和して一言一言心をこめてあげてくださった 『甘露の法雨』 の響きは、今も私の魂に深く刻みこまれている。一斉読誦が終わったとき、目をあけた父が母に何か話しかけた。母はうなずくと 「ハイ、 『天使の言葉』 ですね」 と言って、また皆様に向って 「お願い致します」 と深々と頭を下げた。 聖経二巻をあげ終わると、母は父の肩に軽く手をおき、 「あなた、あなた」 と呼びかけたが、胸の上で合掌し、目を閉じた父は、もう動かなかった。 母がヒューと小さな声を発した。 するとみんなが父と母をとり囲み、泣き出した。 私は下座 (しもざ) にすわっている叔父にしっかりと抱かれ、母の側に行かないようにガードされていた。 「いい子だね。」 ときおり叔父が涙ぐみながら私の頭をなぜた。

  みんなが泣いているのに、私も泣かないと悪いと思い 「あーん。あーん」 と泣き声を出したが涙は一滴も出なかった。そのときは、まだ父の死がどういうことなのか解らなかった。 だれもが、やさしく可愛がってくださるので、嬉しくてお通夜のときなど、はしゃぎまわっていたように思う。 けれども、一連の葬儀行事が済み、大勢の人が去り、父の姿が見当たらなくなったとき、死とはどういうことなのか、幼い私にもようやく解り始めた。

  父の亡くなるひと月まえに、母の実家の嫂 (あによめ) は長男 (妹より三日早く生まれた) が夭折し、悲嘆にくれていた。それで、妹を養女に欲しいという話が持ち上がり、母の両親と長兄 ・ 長姉が説得にやってきては、母に決心を促がした。一ヵ月ほど断りっづけた母も、これからのつつましい生活より、裕福な実家で育てられたほうが妹は幸福になれる ─ 。そう思って実家に預けることにしたと、長じてからの私に話してくれた。

  伯母に背負われて、去って行く妹を 「行かせないで。行かせないで」 と母のお尻をたたきながら私はワアー ・ ワアー泣いたのを記憶している。 おそらく母は何十倍も辛く悲しい想いに耐えていただろう … 。

  夫の死と、乳児との別れを経験した三十六歳の母は、 「ひたすら御教えを求め、深め、行じていくしかないと、必死だった」 という。そして母が先に生長の家には入信したが 『生命の實相』 十二巻を、くりかえし拝読していた父のほうが、ずっと悟りが深かったと、尊敬のまなざしで、語ってくれた。
  とりどりの花が、美しく咲き香ゆる日に。




鎌田久子氏
どんな教えか
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