秋は、外気が澄み、月の光がこよなく美しい。
満月の空を仰ぐと、身心はおろか、魂までも天翔り、光の湯浴みの中で、下界の芥が濯がれてゆくような、神秘な気分に浸ることができる。
私はかつて、この皓々と輝く仲秋の名月の光のお蔭で、心の傷を修復し、母の広く深い愛しみに気づき、想いをめぐらせることができた。
あれは、いまからニ十数年前のことだった。
「今度の休日、お願いしたいことがあるので、伺います」 と、妹がはずんだ声で電話してきた。
「誰にも気兼ねせず、翼を休ませることが出来るのは、私のところしかないでしよ。子供は御主人に預けて、午前中からいらっしゃい。貴女の好きなものをいっぱい料理して待ってます」
十時頃に訪れた妹は、ピアノの上に置いてあった「愛吟集」を見つけ、”浜千鳥”を弾き始めた。
私は嬉しくなって駆け寄り「この歌、母が一番好きだったのよ。合唱しましょう」
(1) 青い月夜の浜べには
親を探して鳴く鳥が
波の国から生れ出る
ぬれた翼の銀のいろ
(2) 夜鴫く鳥のかなしさは
親をたずねて海こえて
月夜の国へ消えてゆく
銀の翼の浜千鳥
おお素晴しいハーモニー。自画自賛しながら数曲唱い合い、興じあった。心なしか母の写真がほほえんでいるようにみえた。
「さあ、声を出してお腹が空いたところでお昼にしましょッ。今日の御馳走はネ、七目チラシ寿司と蛤のお吸い物。あなたの好きな蝦と鰯のフライ。それとわが家特製の糠漬を召し上がれ」
「トマトとセロリの漬物、香りと甘味があって美味しい。主人にも食べさせたいナ…」
「ハイ。もちろん。本日お召し上りのものは、すべて御家族にもお持ち帰り頂くよう準備中でございます」 二人は顔を見合せて、コロコロ笑った。
楽しい刻は、またたく間に過ぎ、三時のおやつを食べ終ると、威儀を正した妹が予期せぬことを告げた。
─ 養父が他界して一年経つが養姉が遺産分与をしてくれない。それで裁判を起したい。民法八〇九条では、養子も実子と同等の権利があるので当然の主張。その折には、久ちゃんにも出廷して勝訴できるように弁護して欲しい ─
という。
戦後の憲法や民法を、権利主張の、この上なくおぞましいものと思っている私としては、いくら妹の頼みでもこれだけは肯えないと思った。
「貴女が育てていただいた養家に対して感謝こそすれ、裁判を起すとは、悲しい。私だったら仮に分与するといわれても充分お世話になっているので…と、お断りすると思う。高給取りの夫に恵まれ、貴女も駿台講師として収入があるのに…?」
すると妹の目が乾き、険しい表情になった。
「当然の事を主張してるのに、久ちゃんの考えオカシイ。生長の家なんかやってると、そんな風にしか考えられないのね。もう久ちゃんになんか頼まない。帰る」
−ああ、お土産は持って帰って
−「ええ、頂いてく。ご馳走様でした」 声までひきつらせてバタンとドアを閉め、妹は去った。私は、ドアの内側に放心状態で立ちすくんでいた。
ああ、幸ちゃんは愛情飢餓症。(心ない使用人によって、中三のときに自分が養女であることを知り、実母に見放されたという)その飢餓を無意識に埋めたくて遺産相続に固執している。幸ちゃんの心の氷点を温点に変えてあげたい。
妹ときまずく別れた五日後に仲秋の名月の夜を迎えた。青く冴えた月の光を眺めていると、ふいに母が、いつも私を膝の上に抱いてやさしい声で唱っていた歌詩が浮んできた。
(1) 青い月夜の故郷の
いつも優しいお母様
遠い我が娘を案じては
涙ぐんではおるまいか
(2) 学び終わりて秋がきて
こんど故郷に帰ったら
二人並んであの月を
拝みましょうねお母様
私はこの夜、初めて母が妹のことを想って唱っていたことに気がついた。いつか、わが娘と並んでお月様を拝みたい。その日を歌に託して夢みていたのだ。
私はその夜、夢中で妹に手紙を書いた。
幸ちゃん、母は手許で育てた三人の子供より、ずっと切実に貴女のことを想い、幸せを祈っていました。貴女を手放した翌日、台所でお乳をしぼって捨てながら、涙をポロポロこぽしていました。
”青い月夜” で始まる二曲は、母が貴女を心に抱きしめ、貴女に捧げる想愛歌だったのよ。
幸ちゃん、貴女は四人の祖父母、四人の父母、兄、三人の姉に慈しまれてきたのです。
今日、幸ちゃんから 「示談に応じるなら、すぐ分与したい」 と電話がありました。幸ちゃん、貴女は、御先祖に守られ、神様に祝福されているんですね … 。
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