平成17年 1月号

み教えを生きる悦び (12)

「大バカヤローッ」電話と挙手の礼

鎌 田 久 子
 


 おだやかに迎えた一月四日朝、電話が鳴った。

「はい、鎌田でございます」
「あっ、原だ。あんたネ、いつもハガキをくれるが世界の至宝 『古事記・神話』 とはなんだ!儂は日本も日本人も大嫌いだ」
「でも原さんの御両親は、日本人でしょう?」
「俺は日本に生れたくなかった。俺たちは天皇陛下の命令で、赤紙一枚で招集されたんだ。あんた軍隊に行ったことないから分からんだろうが、俺は初年兵で、いつも上官からぶんなぐられたり、蹴飛ばされたり … 。 だから俺は、天皇陛下と皇族は全員絞首刑にしたいと思っとる」

─ ああ、昔なら不敬罪で逮捕される。同じ本町二丁目にこんな偏向思想の不穏分子が住んでいるとは。身体中の血がふきこぼれそうな衝撃が走った。
〈神よ、彼のトラウマを癒やし給え。天皇陛下の慈愛よ、彼のコアーパーソナリテイに沁み透れかし〉 ─

 逸る心を抑え、ゆっくり優しく、と念じながら、「原さん、殴られたところはいまもお痛みですか、蹴飛ばされたおみ足はご不自由ですか?」
「いや」
「それはようございました。原さん、電話を切らずに聞いて下さいませ。お願いします」
私は次の五点だけは分かって欲しいと必死で訴えた。

一、昭和天皇は大東亜戦争突入を回避なさりたいと、八方手を尽されたこと。

二、原爆が二発も落とされた八月、十日と十三日の二回、宮中の地下壕で御前会議が開かれた。戦争終結か継続か。閣僚の意見は六対六であった。ときの鈴本貫太郎首相は、陛下に御聖断を仰いだ。昭和天皇は涙を拭われながら、
「これ以上戦争をつづければさらに多くの国民が死ぬ。また祖宗から受け継いできた国柄も保つことができない」 と仰せられた。そして、ご自分のご一身はどうなろうとも戦争を終結したいとの御悲懐を、次の御製にも詠じ給うた。

  爆撃にたふれゆく民の上をおもひ いくさとめけり身はいかならむとも

  国がらをただ守らんといばら道 すすみゆくともいくさとめけり

三、陛下の捨て身の御英断によって、無血終戦を迎えた八月十五日。翌月の九月二十七日にはマッカーサー元帥を訪問され、その第一声は、「この度の戦争に伴ういかなることもすべて私か責任を負います。日本の軍人、政治家の行為に対しても直接責任を負います。今、国民は住む家を失い、食料・医薬にも事欠いております。どうか、国民を飢えからお救い頂きたい。これは皇室の私有財産目録です。」 国と民を救うことができるのなら、私有財産も、自ら絞首台に上ることも辞さない陛下の無私の愛。

 (フーム、フームと原さんの鼻息が受話器に伝わってきた)

四、陛下は、十月に入ると被災地の国民を慰め、励まし、復興への力になりたいと強く望まれ、翌年の二月に実現。神奈川県を皮切りに全国御巡幸を開始。その九年間、世界中の人々が驚嘆する感動の奇蹟的事象がたくさん生れた。
 佐賀県因通寺洗心寮では、父母の位牌を抱いた孤児らが奉迎。 陛下は孤児に近づかれ「お淋しい?」 とお頭をおなぜになり、ハラハラと落涙された、など … 。

五、終戦の年の十二月八日、荒れ果てた皇居の清掃奉仕に、宮城県の青年男女が上京し、真心こめて第一回の奉仕をされた。そのときも陛下はお出ましになり三十分も御親幸を賜った。五十九年経った今日も、この皇居清掃奉仕には全国から参集し、天皇・皇后両陛下、御皇族のみなさまから御会釈を戴いている君民一如の国・日本!

 一時間以上、泣きながら夢中で語っていた。すると、「一回しか ”暁の鐘” には参加していないのに、一年間もハガキよこして、この大バカヤローツ」 ガチャンと電話が切れた。自嘲とも怒りとも取れるこのような汚い言葉を、私は生れて始めて浴びた。
 心が澄み切らないと賀状の返信も書けない。「宇宙浄化の祈り」をすぐさま実践した。特に「住吉の大神、本町二丁目のすべての人々のいのちを浄め給う、あー、おー、うー、えー、いー」 と。

 午後三時。通りへ買い物に行く。五メートル程先に直立不動の老人がいる。近づくと原さんだった。

「今朝ほどはお電話有難うございました」、 と笑顔で会釈すると、いきなり下げていた大根の首を握りしめ、ビニール袋ごとこめかみに ピタッ とつけて動かない。 三メートルほど歩いて振り返ると丁度大根の袋を下ろしたところだった。

 〈あの動作は天皇陛下への恭順を表す挙手の礼だったのだ〉

  私は嬉しくなって、歩き出された原さんの背中に合掌した。住吉の大神の神風が新春の通りをさわやかに吹き抜けていった。





鎌田久子氏
どんな教えか
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