をみなこそ 生けるかひあり 天地の
なべての人の 母にしあれば
谷口輝子先生の、このすばらしいお歌を拝したは『生長の家聖歌集』を手にしたときだった。
何しろ、三度のお食事を頂くよりも、真理のお話を聞かせて頂いたり、聖典を拝読することのほうが好きだった私は、日曜・祭日はもとより、学校の授業のない日は、せっせと原宿本部に通っていた。
ある日曜日、三十分ほど早く大道場に着いたので、聖典を拝読していると、数人の方がいらして、
「いつも熱心ですね。きょうは聖歌隊の人たちのお休みが多くて…。貴女いっしょに歌っていただけませんか?」
「いいえ、私、聖歌は知らないので歌えません」
「あらいいのよ。一番後ろに並んで、口パクで構わないので…」
と、背中を押され、腕を引っ張られて二階録音室にいざなわれてしまった。
そして、聖歌隊専用の楽譜を渡され、パラパラとめくると、そこに、 ”をみなこそ” のお歌が載っていたのである。
万葉の歌人といえども、このわずか三十ー文字の中に、かくもおおらかに、あたたかく、広く、深く、女性なるものの本質を、優雅に格調たかく謳い上げている女性を私は知らない。
すべての人の生命を慈しみ、育み、限りない愛をふりそそがれる谷口輝子先生。キリスト教的に拝すれば聖母マリアさま。仏教的には慈母観音さま、神道的には女神さま。理想の ”女性なるもの” 、 ”久遠の母性” を具えられた輝子先生への憧憬は、ますます募るのだった。
真理の凝縮された聖歌を、やさしい先輩諸兄姉に教えていただき、毎日曜日に、大道場の舞台に立って歌わせていただくうちに、私の引っ込み思案の性格は、いつの間にか直ってしまった。
やがて聖歌隊の方々は、青年会に所属し、その中に女子部会があることを知った。ある日、女子部長さんが、 「鎌田さん、今度の日曜日は午後から端ぎれを持ち寄って、輝子先生のお誕生日に座布団を差し上げるので、お弁当持っていらっしやいね」 と声をかけてくださった。 母にそのことを話すと、大喜びで美しい端布を渡してくれた。
次の日曜日の午後、私たちは大道場の横の床に紙をしき、パッチワークの分掌作業に精を出した。端布がたくさん集ったので、雅春先生にもということになり、配色に工夫をこらし、四週目の愛行で見事な夫婦座布団が出来上がった。
はるかに仰ぐ尊い両先生に、報恩感謝のささやかな真心を捧げることができたと思うと、私たちは嬉しさでいっぱいだった。
ただ、私の心の中に気になることがあった。それは、座布団の中綿に、ほころびてはけなくなったストッキングを持ち寄って細かく刻んで入れるという企画だった。 「それは失礼では … 」 と、若輩の私には言えなかった。母に打ち明けると、 「そう、いかにも若い女性の発想ねえ。じゃあ、家に新しい真綿があるから、それを裏布にびっしりはって、その中に刻みを入れたらどうお」 と助言してくれたのだったが … 。
数日後、聖歌隊のお役をすませ、録音室にもどると、 「女子部の人は残って下さい」 と部長がおっしやるので、車座に坐った。その真中にうやうやしく何か捧げて入られた部長が、 「みなさん、輝子先生からお手紙が届きました」 と発表され、私たちは、ウァーッと喜びの歓声をあげた。
部長が朗読してくださった後、一人ずつ手にして拝誦させていただいた。私の想像では、鳩居堂などの立派なお店で注文された谷口輝子先生の用箋と封筒かと思っていたが違っていた。お菓子の包装紙を使ったお手製の封筒、便箋もお菓子箱の上をおおっていた白い和紙のような、倹(つま) しく、雅趣にみちたものだった。
お手紙は、心からお悦びくださっている御様子が、具体的につづられ、御自分の娘たちによびかけてくださっているような、あたたかさにあふれていた。 あぁ、輝子先生は、大いなる魂のお母様、もし座布団の中身がストッキングだとお判りになっても、きっと、にっこりお笑いになって、 「まあ、女子部の人たちは始末がよいのね」 とおっしやるにちがいない。恐縮していた私の小さな杞憂は、すうーっと消えてしまった。
輝子先生八十四歳のときに、 『新版女性の書』 が出版された。その ”はしがき” の中で先生は、
「 ”をみなこそ” という私の歌があるが、これが白鳩会の精神である。 」
とずばり教示されている。
輝子先生のあまたのお歌、あまたのご文章は、永遠にまばゆい光を放ち、今もなお、新鮮に私の心に迫ってくるのである。
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