平成17年12月号

み教えを生きる悦び (23)

”天上の火” はいまも燃えさかる

鎌 田 久 子


 神授の国 「天皇国・日本」 に、聖師谷口雅春先生が降誕された明治ニ十六年十一月二十二日、西方には満月が、東方には太陽が輝いていた。

 聖師は、幼い頃より不思議な運命を辿られた。往時の尋常ならざる数々のご体験は、すべて神が仕組まれた成道への布石であったと、拝察する。 昭和四年十二月十三日、 「今起て!」 の神啓が天降ったその日より、聖師は昼はヴァキューム・オイルーカンパニーの 広告部で翻訳の仕事をされ、帰宅後は夜遅くまで執筆にご専念。 原稿のレイアウト・校正など、わずか十九日間で調整され、大晦日には、六〇頁の 「生長の家」 誌・創刊号一千部が納本されたのである。
 翌年の一月一日には、この創刊号の無代進呈を開始。 聖師ご夫妻は、冬のさなか、神与の大使命遂行に火の玉のごとく燃えて、人類光明化運動の壮途につかれたのであった。

 創刊号の冒頭を飾る 「生長の家の精神とその事業」 の言霊に私が触れたのは、昭和三十四年ごろの 「理想世界」 誌に、 ─ 人類光明化運動発進の宣言 ─ と題して載っていたのを拝したときだった。

 ”自分のもっている限りの火で人類を救わねばならない。自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照らさずにはおかないだろう。 此の火は天上から天降った生長の火である。 火だ! 自分に触れよ。 自分は必ず触れる者に火を点ずる。”

 天界からほとばしる気宇壮大な力強い宣言に、私の魂は穿たれ、しびれ、高揚し、燃えた。 幾たびも拝聴している聖師のご法話も、 『生命の實相』 を始め次々と発行される各種聖典も、みんな天上の火! だった。
 聖師は、この燃ゆる火でみずからを焼きつつ、私たちにその火を灯しつづけていらっしやる! 私は 「理」 誌を胸にいだき、現象の自己の至らなさに泣いた。 恥ずかしい? 引っ込み思案? そんなニセモノの自己につきあっている隙はない、と切実に思った。

「雅春先生、私たちもまた億万分の一なりとも追体験をさせていただき、日本国家の実相顕現運動と、世界平和の実現に、祈りつつ邁進させていただきます。」

 感激の涙にむせびながらお誓いした … あの日から何年たったろうか。


 聖師が、生長の火を高くかかげて、人類光明化運動を開始されてから、七十五年を閲した。
 昭和六十年六月十七日、神界に戻られた谷口雅春大聖師の果たされた御事蹟は、日本の浄化はもとより、世界・地球・宇宙浄化にまで波及されていることに、あらためて驚かされる。

 聖師の真理布教活動の一端七項目は、

(一) 神・仏・耶の聖者が説かれた教えの神髄は一つ。 万教帰一を、日本から世界
    に宣布。

(二) 永遠に不壊不滅の 「天皇国日本」 の実相顕現運動を師先躬行。

(三) 地球上のすべての人類は、みな神の子。森羅万象ことごとく神の分け御魂。
    共存共栄が神の理念。

(四) 生長の家発祥以前から、世界の光明思想家の著書を渉猟。
    海外に英文 『生長の家』 『生命の実相』 普及。

    信徒の熱願により、昭和三十八年三月十日から十月十四日まで七ヵ月間
    「世界平和祈願」 御巡錫へと雄飛。講演・著書・神授の祷りという三拍子揃った
    伝道は、海外にも奇蹟続出の大旋風をおこす。

(五) 世界平和の祈り (午後八時三十分。聖師と同じ時間に) と、宇宙浄化の祈り
    (いつでも、どこでも四六時中)をご提唱。

(六) 龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕斎殿を建立。

    建立にまつわる多数の逸話中、鎮座地名が 「大神平」 であったとは、まさに
    神定め給う地であった。

(七) 「七つの燈台完成点燈祭」 実現。


 あの昭和六年九月二十七日夜神示 ・ 同年一月十五日神示が、まさか、この地上に、今世紀に、成就されるとは … 。

 昭和五十七年九月二十七日夜の九州本山での儀式は、永遠に私の魂に刻まれて、忘れることのできない厳かな御祭であった。私は、夕方五時まで原宿本部で執務し、飛行機とホバークラフトとを乗りつぎ脱兎の如く本山に駆けつけた。
 マーラーの第二楽章が全山に響きわたり、顕斎殿をめぐる小高い山々には 「七つの燈台」 が、点燈いまや遅しと聳え立つ。
 やがて白い布で囲われたお座席の横に二台のお車が着いた。雅春先生を先頭に四先生がお席に進まれる。
 そのとき、私は息を飲んだ。雅春先生の顔が、月の光のような透明な輝きを放ち、お身体は、神の御心のままにすべての聖行を完うされた崇高な解脱身のような安らぎをたたえていらっしやる。

  「ああ、いま聖師の御魂は宇宙に天翔り、天界の神々とともに、われらに祝福の光を降りそそぎ給う。そして地上の合図に合わせて天上の火を 『七つの燈台』 に灯され給う … 」

 翌朝、東京に帰ってからも感動の余韻は続いていた。

 




鎌田久子氏
どんな教えか
総合目次