ただ一人の目撃者

仙頭  泰

 現在の日本の混乱は、大東亜戦争(太平洋戦争)終結後、連合国側が行った極東国際軍事裁判なる、勝者が敗者に対する報復裁判により、日本国を侵略戦争の張本人だと断定して当時の政治、軍事の指導者を法廷で裁き、被告の七人を当時、皇太子殿下であられた今上陛下の御誕生日を選んで絞首刑を実行したのである。この裁判による後遺症は、東京裁判史観と呼ばれる毒薬となり、今や日本国民は政治、経済、教育などあらゆる面で混沌とした状態に陥っているのである。

 吾々はこの迷妄から覚醒せねばならない。そのためには、歴史の事実を正しく知らねばならない。ここに同じ食材を使って、料理をするとして、異なった調理師の思いで作られた料理は、それぞれ形も味も違うものになるのである。歴史の事実でも、公正な取り扱いをせず、いたづらに自虐的に羅列することも可能である。家庭でも全体を眺めないで、家庭の一部である台所のゴミ捨て場を覗いて、この家は不潔で汚いと喚いていては、いけないのである。

 谷口雅春先生は「思い全相に到らざるを迷いという」と教えておられる。盲人が象のところに連れて来られて、それぞれが象の耳とか鼻とか足とか尻尾とか、それぞれ象の部分を触って、「象とはかくの如きものである」と発表し、甲論乙駁、激論をしたと云う。各自がそれぞれ象の一部分を触った意見を述べているので、それはその部分については間違っていないのである。

 しかし、それは象の全体像ではない。吾々は斯くの如き視点にたってはならないのである。つねに全体を公正に把握し、判断して行かねばならない。現在叫ばれている男女性差別をなくして、カタツムリのように男でも女でもない人間を考えることが、進歩的であると云う団体もある。これで本当に人間の幸せになるのだろか。

 これなども人間を唯物的に捉えた結果であり、人間が三次元でも四次元でも、もっと高次元の世界でも生きていて輪廻転生をしている事実を知るならば、その考えの愚かさが認識されるのである。吾々に必要なことは「観の転換」である。「360度の観の転回」といわれ、その中で一番大切なものは「人間観」である。「霊的人間観」にたって、ここからすべてのものが展開してゆく時、すばらしい21世紀の扉が開かれることを確信するものである。

 ここで歴史の重みを知るために、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決の結果、絞首刑をうけられた七人の方々について、学習することにする。


 昭和23年(1948年)12月23日午前零時1分、巣鴨拘置所に於いて東條英機をはじめとする七人の処刑が執行された。それは判決からたった四十一日しかたっていないスピード処刑であった。 七人の方々の名前は次の通りである。
東條英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章

 日本人でただ一人、この絞首刑に立ち会ったのは花山信勝師であった。この人に佐藤早苗さんが平成3年1月に会って、その時のことを直接聞き、「東條英機〔わが無念〕」・河出書房新社発行・と題する本のなかで次のように書いてある。これからその部分の内容を紹介することにする。

 「処刑時間は十二月二十三日午前零時一分、其の前に少なくとも十五分は時間が欲しいと、花山信勝師は当局に申し出ていた。最後の別れをいい、祈りをあげ、署名をしたり、刑場まで歩く時間などを考えて最低十五分が必要だと考えたのだ。ところが七人のううち、最初の四人が三階から降りて来た時は、もう七分しか時間がなかった。

 七人でなく四人というのは、絞首台が五つしかなく、四人と三人の二回に分けて処刑されることになったからである。

 東條英機は最初のグループで、土肥原賢二、松井石根、武藤章の四人であった。

 処刑を受けるために花山教誨師の待つ部屋にやって来た四人は、いつもの米軍の作業服のままで、一人に、選ばれた頑丈な下士官二人が左右に付き、列になって降りて来たのだ。逃げ出すはずもないのに両手には手錠がかけられ、その上からさらに股をとおしたバンドで締めつけられていた。履き物は編上げの日本靴で、両足も繋がれて錠前までついていた。十三階段を昇った時、足元を固定するためだ。

 『BC級戦犯の処刑のときはこんなことはしなかった。七人のときだけ特別にやったんですよ。だから時間がかかり、十五分といったのに七分しか残らなかったですな』「
 と悔しそうに語る九十三歳の花山信勝師は、そのとき、七分しかないといわれ、急いで線香に火をつけ四人に一本ずつ持たせ香炉に立てさせた。それから手錠をかけられた不自由な手で一人一人奉書に署名し、コップ一杯のブドウ酒を花山師の手で飲ませてもらう。自分の手では飲めないからである。

 そこで残り時間は二分しかないというので、花山師は「三誓偈」の初めの三頌と最後の一頌を読んだ。

 誰からともなく「万歳」はどうだろうか、という声が上がった。いいだろうということになり、最年長の松井石根が音頭をとり「天皇陛下万歳」を三唱し、つづいて「大日本帝国万歳」を三唱した。

 『日本で天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を叫んだのはこの七人が最後でしょうな』
花山信勝師は当時の場面を思い出したのか、感動的にそう言ってから暫く言葉につまった。

 そしてさらに『いよいよ最期、というときに東條さんが、両腕をとっている大きな下士官にむかって、ゴクローサン、アリガトウ、アリガトウといい、七人みんながアリガトウといったんです。死ぬ間際の真剣な万歳とアリガトウということばに感動したのか、後ろで見張り番をしていた四、五人の将校が繋がれた四人のところにやってきて、自分から手を差し出して握手を求めたんです。
 こういうのは世界に例がありませんよ。絞首刑にするほうと、されるほうが固い握手を交わすなんて、まったく珍しいことですよ。わたしはこの光景をこの目で見たんです』

 出口の鉄の扉が開いて、当番の将校、チャプレン・ウオルシュシ師、花山信勝師、その後に土肥原、松井、東條、武藤、また三人の将校が並んで中庭を歩いて刑場に向かった。

 作業服の四人は手錠の手を結びつけられ、錠前のぶら下がった靴を履き、ナムマイダー、ナムマイダーと念仏を唱えながら一歩一歩死への道を進んで行くのである。
東條英機の念仏の声が、ひときわ大きかったという。

 刑場の中は、目を剥くほどに明るい照明があてられていた。 十三階段の前にはマッカーサーから呼び寄せられたアメリカ大使、イギリス大使、中国、ソ連の代表が見届け人として並んでいた。 その前を四人は念仏を唱えながら通りすぎ、一列に並んだ四つの絞首台の階段をそれぞれ昇っていったのだ。

 花山信勝師は五十人以上の処刑に立ち会ったが、同じ日本人だからと、その瞬間は遠慮したという。しかしA級戦犯の処刑だけはすべてを目撃した。 東條英機が花山師に最期を見届けてもらいたいと、所長に申し込んであった。 日本人でたった一人の目撃者である。

 真昼の太陽のような明るさの中、並んだ各國の見届け人の前で、四人はそれぞれ首の縄を調節され、頭から袋がかぶせられた。 ガチャンという音とともに足下の板が開かれた。
 零時一分。時間どおりだった。

 下ではアメリカの軍医が一人に二人ずつ待ち構えていた。縄をはずし、袋をとり、脈を確かめてお棺に納められた。
まことに悲痛な一瞬であり、実に不気味な場面である。 残った板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の三人も同じように処刑されて、七つの棺がずらりと並べられた。

 『わたしはお経をあげてから、みんなどんな顔をしているかと、一つ一つ棺を開けて
見たんですよ。みんな平和な顔をしていました』 と花山信勝師は目撃したばかりのように感動的に言った。 七つの棺は、どこでどう処理されたのか、アメリカ側からの発表はなく、家族には遺骨さえも渡されなかったのである。

 処刑執行が本人に知らされた十二月二十二日、花山信勝師は最期の面談をした。
東條英機は、午後四時から四時五十分までであった。 東條英機は、遺品と遺書、手帳、入れ歯、眼鏡等をあずけ、最後の様子を妻にお伝え願いたい、と言った。そして最後の心境を次のように語っている。

「 死ぬ時期は、いい時期だと思います。
一には、国民に対する謝罪。
二には、日本の再建の礎石「平和」の捨て石となり得るということ。
三には、陛下に累を及ぼさず、安心して死ねること。
四には、絞首刑で死ぬことです。「自殺」でもしたら意味をなさんです。
五には、私の体は子供の時から病弱であったが、少し生き過ぎました。歯も二、三本しかないし、目も見えない。頭も悪くなった。これでは長生きもできません。ちょうどよい時期です。
六には、金銭上に関する不名誉のこともなくて、安心して死ねます。
七には、病苦より一瞬間の死はよほど幸福です。「終身」にでもなったら、永久に煩悩につきまとわれて、たまったものではない。 一番大事なことは「弥陀の浄土」に往生させてくださって、喜んで死んでいけることです。今こそ死期だと思ったのです。昨夜「宣告」のとき、心が朗らかになりました。「大無量壽経」の中の法蔵菩薩が決定して「無上正覚」を得るといわれる、あのような気持ちになりました。」

と淡々と語ったという。

         東條英機の遺書      遺言(全文)

判決後考える所があって筆をとる。十二月二日に書き誌し刑死前日二十二日再読す。
敗戦後の日本の状況は真に断腸の思いである。今日刑死されることは個人的には慰められるが、国内的にこれを見れば到底その責任は免れ得るものではない。殊に同僚や下僚迄もその道連れとしたことは相済まぬ次第である。

然し国際的にこれを見ればあくまで戦犯者ではない。力に屈したに過ぎないのである。天皇陛下及び日本国民に対しては自分の責任は甚だ重大だと考えている。然し軍隊の大部は陛下の御意図に依って行動したもので、その一部の無軌道によって全般を批難し、これが為忠良な臣民の遺族まで苦しめている現状は真に相済まぬ事である。

そもそも裁判が平和の礎石となる為には更に司法権威者を集め、これによって公正に行なうのでなければ不可である。本裁判を忌憚なく云わしむれば政治裁判に堕し勝者の行った裁判と称すべきである。

天皇陛下の御地位、存続の問題は申すまでもなくその存続は絶対に必要であって、これを思わないのは恰も空気等の大恩を忘れるのと同然である。近視眼になってはならない。一時の現象に眩惑されてはならない。東亜民族は小さくても列強と共に天地に存続する権利を有することを忘れてはならない。

本裁判に於て印度判事の言動は真に尊敬に値し、東亜民族の誇と信ずる。願わくは列国も排他的の観念を捨て共和的に進むべきである。日本の統治を行っている米国の指導者達よ。願わくは日本の国民性を知り民心を失ってはならない。


赤化を防がねばならない。日本が大東亜戦争において誠意を失い東亜民族の真の協力を失った事が敗戦の真因であった事を考察して貰いたい。日本が赤化の温床となれば危険はこの上もない。国民の大部分は凡人であるから衣食住問題の困難等が米軍が進駐している為であると思わせてはならない。今日の状態からこれを見れば遺憾ながら失敗していると論ぜざるを得ないのである。

顧るに赤化の防壁なる満州を捨ててこれを赤化の拠点とし、朝鮮を南北二分して争いの基を作って仕舞った。日本が米国の指導の下に戦争を放棄した事は賢明であるが他の諸国もまた日本と同様にこれをやらねば駄目である。

そもそも戦争を止めるのは人間から欲心を棄てさせねばならない。それには信仰(宗教心)が必要であろう。然るに世界各国は自国の事のみを考えている。畢竟戦争は避け得ないであろう。故に自衛の問題は十分検討を要す問題であろう。
要するに世界第三次大戦は到底避け得ないであろう。然も日、独なき後はその立役者は米ソ両国となるのは当然である。かかる場合当然極東もその戦場となるであろう。武力のない日本はこれに対して策を十分立てておかねばならない。これに対して当然米国もその責任が重大というべきである。

日本人八千万人の生存して行ける方途を講じなければならない。産児制限はそもそも神意に悖るものである。追放、戦犯容疑等はこの際一擲し日本国民をして安んじて生業に在らしめる様にして貰いたい。而して自分の刑死を契機として遺族抑留者の家族等を援護願いたい。靖国神社に祀る様にし戦死者の遺族の気持を知ってその遺骨を還送し墓を守る様にせられたい。戦犯者の遺族を援護する事もまた当然である。

日本の再建のためには特に青少年の教育を重視しなければならない。今日における青少年男女の教育は進駐軍の影響もあるだろうが、行き過ぎの点が少なくないと思う。日本固有の美風は守らなければならない。敵味方を論ぜず戦争が終末した今日、成るべく速かに合同追悼法会を営まれて欲しい。 

一部の残虐行為のあった事は真に遺憾である。然し無差別爆撃等殊に広島、長崎における原子爆弾の如きは、勝者の不正である。これも同様糾断さるべきものである。 

日本における統帥権独立の問題は、近代戦においては間違いだったと思考する。将来、国軍が編成せられるとせば、徴兵制にするか志願兵にするかは検討の要がある。

訓練に当っては、勿論、忠君愛国を基調とすべきも、特に責任観念の旺盛なる事は大事であり、この点は米軍に学ぶべき点が多い。また質実剛健だけの教育は、硬直に過ぎて駄目である。人の教育、素養の向上が、大事であって、これが為には、宗教心を昂揚することが、一手段であると思う。また国際条約の遵守、俘虜に対する取扱いの教育等は、如何なる場合においても、大事な問題と信ずる。以上

 

我らの愛国とは

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