日本国憲法の処遇対策

仙頭 泰

昨今、日本国憲法に関する論議が盛んになっていることは、結構なことである。今の憲法が昭和二十一年(1946)十一月三日に公布されたときには、人々は「マッカーサー憲法」と呼んだものだ。現今では、日本国憲法の誕生についての実情を、知らない人々が増え、そして日本国憲法の改正を論じているように思われる。
ここに菅原裕著「日本国憲法失効論」(国書刊行会・発売、昭和36年11月10日初版)がある。著者は極東国際軍事裁判のときには、日本側の弁護人として活躍され裁判の不当性も身を以て体験され、日本国憲法についても、学者としての良心からその研究の成果を「日本国憲法失効論」として世に発表されたのである。それは昭和三十六年(1961)のことである。
憲法改正を考えるのに大切な資料であると思い、「第三章日本国憲法の処遇対策」を抜粋して、ここに提供するしだいである。詳細については、「日本国憲法失効論」を読まれることを希望する。

  第三章  日本国憲法の処遇対策 著者 菅原裕

この占領軍の落とし子である日本国憲法を、いかに処遇すべきかについて、無効説(第四章)、及び失効論(第五章)にたいし、(1)擁護説と(2)改正説と(3)廃棄説とがある。しかし、これらいずれも法理を無視して、政治的考慮から有効論を主張しているに過ぎない。

一、擁護説 (参照・24頁)
○ これは主として左翼の人達が主張するところである。第九條を改正して再軍備せんとする保守系の策動に対抗せんがために主張する議論であって、憲法擁護運動といっても、日本の憲法を擁護しようとするのではなく、占領軍が作って残して行った占領憲法を擁護する運動に過ぎない。したがって、その論法も憲法法理によるのではなく、たんなる政策論議にすぎない。
○ 政府や保守党が、油断して啓蒙運動を怠ったため、親ソ派と反米派との提携が促進され、無自覚、無責任な、再軍備拒否という、およそ独立国にあるまじき俗論、愚論が憲法擁護運動の名のもとに、燎原の火の如く、国家の実情も世界の大勢も知らされてない津々浦々の純朴な地方人の間にまでひろがって行った。
○ 本当に憲法を擁護しようとするなら、ただそれだけで堂々とやればよいので、敗戦責任を帝国憲法に転嫁し、再軍備反対論を利用し、これと共同戦線をはるところにこの運動が脆弱で欺瞞に満ちていることを暴露しているのである。

○ この論者の中には、原案は、誰が書いたにせよ、内容さえよければよいではないかと、後進国民並の議論をする者もある。しかし民主主義は国民の自覚、反省に基づくものであって、こうした卑屈な乞食根性こそ清算さるべきであろう。
○ かりに占領憲法の内容が、立派であっても、独立回復後の、自由な日本国民の手によって、日本国民のために、再検討されない限り、どうしてそれが、日本国の正統憲法と言い得ようか。こんなことは、リンカーンの民主主義の定義を顧みるまでもない。

○ 旧敵国が、原案をつくり、銃剣の力をもって、それを被占領国民に、鵜呑みさせ、一部の卑屈、無自覚な国民が、この日本破壊工作に便乗してつくった占領憲法を戴き「日本は民主化せり」というのだったら、それはまさに、世紀の茶番劇であり、人類の歴史始まって以来のお笑い草である。

○ 母屋を接収されて、土蔵の中で、数年間を暮らした、ある金持ちが、占領ボケしてしまって、接収解除になっても、土蔵生活をやめない、という悲しい話があるが、占領憲法擁護論者と、この土蔵の主人と、どれだけの差異があるであろうか。

○ 占領軍の、傀儡になったり、日本破壊のガイドを務めた人たちに対して、一般国民は、あの時の特別事情として、これを恕するに、やぶさかでない。しかし、占領が終了し、特別事情が、解消したにも関わらず、今なお醜態を続けることはゆるされぬ。

○ 占領政策の協力者達は、今こそ弁解や、ごまかしをやめて、やむを得ず、祖国や同胞にそむかざるをえなかった、当時の事情をすなおに懺悔、謝罪して、自らの手によって、憲法をはじめ一切の汚辱を払拭、浄め払いすべきではなかろうか。
○ もしそれ、外国の第五列となり、この占領憲法を持続させることによって、日本の再建を妨害せんとするが如き、不逞な企てに対しては、日本国民は断じて容赦しないであろう。

二、改正説 (参照・26頁)
○ 日本国憲法を改正して、維持してゆこうとする意見には、第九條その他の部分的改正によって、日本国憲法の部分的欠陥を補い、一時を糊塗せんとする方便的一部改正論と、日本国憲法のあらゆる面における欠点を意識して、全面的に、これを改正しようとするものとの二種類がある。しかし双方とも真正なる改憲意見でないことは同一である。(参照・26頁・朝鮮戦争勃発、リッジウエー最高司令官占領諸法令再検討の権限日本に与える)
○ 爾来、保守党は憲法を全面的に検討する論が主流となった。しかしながら、敵軍の占領下、銃剣で脅迫されながら出来上がった憲法が有効であって、その一部分を改正するだけで十分であると解することは、あまりにも現実を無視した、非論理的見解というべきではあるまいか。
○ すでに占領憲法の成立そのものが、無効もしくは失効している以上、これをどの様に改正してみても、結局は砂上の楼閣にすぎないのではないか。すなわちこの腕全体が腐っていると云うのに、この指一本だけ手術すればよいと云うのと同じである。

○ ことに心すべきことは、日本国民がまだ完全な主権も、自由な意志も、持たなかったときに、強要された占領憲法を、独立回復後の今日において、自由意志をもって、真正なる憲法としてその一部分に改正を加えることは、本来無効なものを、有効なものとし、限時的なものを、永久的なものとして、追認することになりはしないだろうか。
○ これは実に重大なことである。これをすることは、占領中、何事もマッカーサー司令部に追随した人たちにまさる過ちを犯すことになるのである。こんなことは占領中はとにかく、独立後は断じてゆるさるべきでない。
○ 近頃続出する新興諸国家の憲法とちがい、真に歴史を誇り、伝統を尊ぶ由緒ある大国の憲法は、区々たる美文の羅列や、実現不可能の作文の体裁よりも、民族的伝統や、国民的信念が、その憲法を価値づける根幹たることを、まず悟らなければならない。

○ 改正論者は、占領統治下の強要憲法が、日本国民の自由意志に基づかないため、随所に反日本的、非独立的条項にみたされている現実に鑑み、占領憲法自体が無効だという根本法理にめざめ、いわゆる改正意見の如きは、正統憲法が復活した後、出すべきものなることを識るべきである。

三、廃棄説 (参照・28頁)
○ この説は、占領憲法の違法性を法理に照らして究明しようとせず、ただ適当でないから廃止しよう、不都合だから破棄しよう、そして別個に新たな、理想憲法を制定しようというのである。従ってこの説は、絶対的無効論とは異なり、日本国憲法を破棄の時まで、その効力を全面的に、容認するものである。而して帝国憲法を、すでに死滅せるものとして、新たに時勢に適応する「理想的新憲法」を制定しようとするものである。

○ この説は、比較的右翼の理想主義の間に多く、かなり調子の高いものであるが、日本国憲法が廃止されるまで、独立国日本の真正憲法として認めようとする限り、これは法理の無視であり、屈辱的な見解である。
○ ことに帝国憲法を旧体制としてその復活を拒否して、勝手に自己の好みに基づいて理想的新憲法を制定しようとすることは革命主義と断ぜざるを得ない。

○ すなわち時の実力者の要望により、いったん革命的制定を敢行すれば、実力者が交代すれば、実力者が交代するたびに、憲法を改廃することとなり、国家は権力の濫用により、収拾不能に陥ることは、フランスにその例を見るまでもなかろう。
○ 国家の伝統や、民族の確信を無視し、いたずらに新規を追い、理想的文言の羅列に終わることは、憲法の制定においては、最も戒心しなければならぬところである。故にこの種の論も、真の憲法の権威に思いを致さぬ、軽薄な便宜論と評するのほかはない。

○ いわんや占領憲法の横暴を憎みながら、その占領軍の強要による占領憲法の効力について検討を加え、大義名分を明らかにしようとはせず、占領軍による帝国憲法の抹殺もしくは改正を容認し、これに便乗して、自らもまた、かってな策動をしようとするのは、ちょうど他人の簒奪によって、追放された旧主の復位を願わず、かえってその混乱に乗じて、自分の好む新しい君主を迎えようとする反逆に似ていることを、反省しなくてはならぬ。(参照・30頁)
○ わが國は、もともと立派な固有の憲法を持ち、それが占領によって一時効力を停止されたにすぎないのであって、その圧力が除かれた以上は、本来の憲法が復活するのが当然である。この真正憲法を放置して、新たな憲法を制定しなければならぬ道理はわが國には存在しない。
                                (終わり)
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