木曽正人団長の「レイテ島」ビリヤバ戦跡地に於ける霊的体験

仙  道       泰

この物語は私がハワイに居るときに、尾道の木曽正人氏が自分の不思議な体験談を手紙で送ってくださったことから始まるのであります。その手紙と同じことが尾道の「三都新聞」に掲載されていましたので、ここに転載して、護国の英霊のご冥福をお祈りすると共に、霊的な不思議な出来事と、霊人が告げられた龍宮住吉本宮に関することなどを、今一度皆様に思いだしていただきたいと思います。

 

昭和53(1978)年11月8日号「三都新聞」、『レイテ島慰霊の旅』の記事

 

……引き続き各自瞑目合掌の内に祈りを捧げるその時、私は驚天動地の如き経験を得る事になったのである。

 私は心奧に、祖国の為に奮戦し武運つたなく護国の神と化された多くの英霊を呼び感謝の誠を捧げるべく一心に聖経『甘露の法雨』を暗誦しながら精神を統一したのである。何時しか幽明の境を越えたのであろうか、暫くする内に私の身体に何とも形容出来ぬ柔らかいほのかな光が投げかけられている様な、明るい雰囲気を感じてふっと眼を開けた。(肉眼をあけたか心眼で観たか今もって不明だが。)

 

眺めると小高い山頂附近に、柔らかい黄金色に包まれた、神か仏か、観音菩薩か確かには解らない御方が、尽十方に燦々と霊光を投げかけておられるのが観えるのです。両側には何時の間にか入道雲の様に(当初雲と思った)横に整然と兵隊姿の英霊が何千、何万とも知れず正に雲集して浮かんでいるのです。ぼろぼろに破れた軍服に穴のあいた帽子と、みる影も無い程でありながらその御顔だけは、皆二十歳前後の若々しい喜びを満面にたたえて私の方を見ている様に感じた。

 

すると亦遠方でドドーンと云う雷鳴(私には英霊が口を揃えて歓声をあげた様に聞えた)、と同時に中央に居られる神々しき御方の口が動いたと思うと、私の耳元に綺麗なすみ切った柔らかい、まるで“金の鈴を振る様な”声が聞こえてきたのである。

 

「よくお出で下さいました。お待ちしていました。」と言われるのだ。私は全身にぴりぴりと電流が流れる様な身震いを感じた。信じられない程の驚き――。その御方は続けられる。

「この日を長い事お待ちしていました……。今日まで多くの遺族の方々、立派なお寺の住職、政府派遣の方等が慰霊の為に幾度となくお出で下さいました。それは嬉しい事であります。しかしこれまで誰一人として私達との話合(交流)の出来る方に会う事がありませんでした。――誰かその様な方をと数年前より想念(霊念)を送り続けて参りました。がついに本日こうして貴方に来て頂き話合が出来る事は誠に有難いことです。」

 

私は身に余る感激に唯々合掌して一心不乱にこの言葉を聴いていた。

「私達は過去三十有余年前、祖国の為第一線に参じ唯々一死奉公、残念ながら武運つたなく此の地に於いて戦死しましたが、今日に至るも私達は魂の安住地を得ることが出来ませんでした。悲しみの中に今尚、戦い且つさまよっている霊魂の戦友がたくさんおられるのです。私達は今も“此処に”生き続け祖国日本を守らんと祈念し続けてきました。何卒一日も早く私達の安住の地を……。貴方を通して多くの人にお伝え下さい……。」と語られると周囲に雲集せる英霊が一斉に頭を下げられるのです。私も自然に深く礼拝したと思う。滂沱と流れる涙に胸がつまり、恐らくは一切無の心境からふっと我にかえり自問自答していた私である。

 

思えば有史以来初めての敗戦によって大きく痛手を受けた日本と日本国民である。占領憲法、日教組教育、マスコミの煽動で民族の誇りある精神文化は喪失され靖国神社の国家護持は勿論天皇陛下公式参拝もままならぬ今日である。英霊の申される事痛い程心にしみながらも、急ぐべき憲法復元改正も、靖国法案成立も果してこの私が一人動いたとて出来る事だろうか、否、不可能だ。と思うや、眼前の黄金色の霊光が急に暗くなり中央座の御方の姿は薄らぎ、同時に喜色満面だった英霊の顔が落ち窪んで、それは悲しい骸骨に一変したのである。

 

私は驚嘆して一心に懺悔し落涙していた。全力を尽くすことを絶叫。瞬間、周囲は再び元の霊光燦然たる世界にもどり、神々しき御方の言葉がまた聞こえるようになった。しかしそれからの内容は生長の家信徒の私にとって誠に衝撃的な事であった。

 

「霊界ではこれまで祖国の現状をみるにつけ私達の死が無駄であったとか、そうではないとか様々な意見があって混乱していたが、この数年間にようやく平定され、今後は現象界が浄化されて来るでしょう。その為に世界は非常に危機的な様相を呈して来ます。(この内容を具体的に表現されたが本稿では割愛する)日本もその渦中に包含されるが、祖国の上空は私達の念の力で必ず守ります……。」

 

私は思わず反論した。

「念の力でそんな事が可能ですか。」

間髪を入れずに厳しい叱責の声。

「念の力がどんなに強いかは貴方が一番良く識っているではありませんか。」――心に深く飛び込んで来た響きに私は素直に謝意を表した。

 

「しかし現象の日本国は何といっても現象界の貴方達の努力で守るより他に方法はない。私達も勿論応援は致します。」

「ところで今、長崎の地にすばらしいものが完成しつつありますね。」

しばし考えて答えた。

「はい龍宮住吉本宮という住吉大神の御出御を仰ぐ御社ができてきます。」

英霊が一斉に賛意を表す。

「私達は以前から承知しています。誠に慶びにたえません。その完成の日を待ちこがれているのです。さて貴方は、谷口雅春(呼びすてにされました)を識っていますね。」

「はい、私達生長の家の総裁先生です。」

「そうです。しかし御存知ですか、あの方は表面は人間の姿をしているが実は住吉大神の化身でありますよ。」

 

その強い響きの言葉にふれた時の私の驚きたるや言語を絶したものであり、永年の信仰生活の中でこれ程の感動は無かったのである。嗚呼、尊師は神そのものであらせられる!

「今後の日本国を守るその中心になって活動するのは、実に谷口雅春導きになる生長の家の信徒の皆様以外にはありません。確かに自衛隊も必要ですが、まだまだ不十分です。國と國の戦いよりも内部の革命分子の蜂起を未然に防止することに起ち上がって下さるのが信徒のみなさまなのです。しかし何と云っても現在の誌友が二百五十万や三百万では不十分です。少なくとも壱千万人の方々が信徒誌友になって頂かねば、この儘ではこの日本国は名のみ残り真の日本国は永久に顕われないかも知れません。幸に住吉大神の御顕齋をする御社が建立され、今後は此処が日本国の真の姿を顕す中心となるでしょう。且つ亦、同時に世界浄化の中心となるでしょう。以上の事をよく御考慮下さいまして、お帰りになりましたら直ぐに是非とも多くの方々にお伝え下さる事をお願いいたします。」

 

その言葉が終ると眼前の霊光がすっと消えていったのである。

その直後私は、「どきっ」と心臓が高鳴る衝撃で我に返った。誰かが私の肩を叩かれたらしい。一気に現象界に目覚めたものの暫くは自分が何処に居るのか、現象界か霊界か混沌としている有様だった。

 

 霊的対話の時間は十分か、二十分か定かでないのだが他の遺族の方が申されるのもまちまち三十分と言う人も五十分という人もあった。唯、一様に皆様は私が最初立って祈っていたのがいつしか座して不動になった事が不思議に思っていたと聴きました。現象的には晴天に二度も雷鳴が轟いた事、二十七回も慰霊及び遺骨収集に参加された土肥氏が非常に……。

 

龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕齋殿 御造営の経過

 

昭和45(1970)年7月18日 長崎県西彼杵郡西彼町の敷地を購入

昭和47(1972)年1月19日 生長の家九州別格本山開所式

昭和47(1972)年2月11日 生長の家九州別格本山練成道場開所式

昭和49(1974)年11月22日 谷口雅春先生、住吉大神の神社建立の御決意を

                        生長の家秋季記念日祝賀式にて御発表

昭和50(1975)年1月13日  谷口雅春先生御夫妻、本山総裁公邸に御移転

昭和50(1975)年2月28日 住吉本宮御造営奉賛会を結成・献資活動開始

昭和50(1975)年6月13日 本部最高首脳者会で、「龍宮住吉本宮」(本殿)「鎮護

                        国家出龍宮顕齋殿」(拝殿)の正式名称が決定さる

 

昭和51 (1976)年8月28日 龍宮住吉本宮立柱式

昭和52(1977)年3月15日 龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕齋殿上棟祭

 

昭和53(1978)年7月1日 第一回生長の家龍宮住吉本宮練成会開始

昭和53(1978)年7月14日 落慶大祭後「生長の家總本山」とする旨を決定

昭和53(1978)年11月21日〜28日 龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕齋殿落慶

      鎮座祭執行

               落慶鎮座奉祝大祭執り行われる

 

宇宙浄化の祈り

 

住吉(すみのえの)大神(おほかみ)出でまして宇宙を浄め給う

ア― オ― ウ― エ― イ―

住吉大神わが日の本を浄め給う

ア― オ― ウ― エ― イ―

住吉大神ここに集まれるすべての人々の

生命を浄め給う

ア― オ― ウ― エ― イ―

住吉大神宇宙を浄め終りて

天照大御神出でましぬ

天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命射照らし          宇宙(くに)靜かなり

天照す御親の神の大調和の生命射照らし宇宙靜かなり

 

「我らの愛国とは」
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