終戦時の田中静壱大将のこと

                   仙 頭  泰

       

終戦になってから、六十年たってしまいました。今ではあの終戦の日の出来事など遠い昔の出来事で、その実状を知らないか、無関心の人々が増えました。大東亜戦争の名称が日本を占領した連合国軍總司令部の指示で太平洋戦争と呼び変えられ、いまではこの戦争は何処の国と日本が戦ったのか知らない若者が増え、やたらと日本が中国などに侵略したのだという歴史認識をすり込まれ、それを信じこみ、極東国際軍事裁判という国際法違反の軍事裁判で、戦勝国が戦敗国日本を一方的に裁いた茶番劇の結果の「東京裁判史観」という麻薬に毒され続け未だに、主権国家としてのしっかりとした定見を持たない「クラゲ」なす状態を続けています。

日本の歴史教科書には、民族の神話もなければ、日本建国の理想も語られず、何時建国したのかも知らず、ただずるずると時が流れて、いつの間にか気がついたら日本という国が存在していたというような印象であります。だから祖国を大切にして護り育てる気持ちは更になく、国家に対しては困った時に、損害賠償をさせる道具くらいにしか考えなくなりました。

日本は連合国に対して、無条件降伏をしたのではないのです。「日本の軍隊が無条件で降伏する」という条件であります。終戦時の「詔勅」のなかにも「国体を護持しえて」というお言葉がきちんと入っているのであります。

谷口雅春先生は、このようなことを私たちに、繰り返し説明してくださいました。ハワイの二世部隊のこと、田中静壱大将のことなども話してくださいました。今日はここに終戦時の田中静壱大将のことを、中嶋與一先生の手記により、紹介します。田中大将に関しては「あゝ皇軍最後の日」と題してもと副官であった塚本清著のすばらしい本があります。この本には、終戦時の行動が詳しく記述されています。

終戦時、昭和二十年八月十五日正午に天皇陛下の玉音放送が行われるこの日の午前八時に田中静壱大将の説得により、叛乱軍が蹶起してからわずか数時間しかたっていなかった事件ですが、無事終結をみたのであります。すべての処理をおえられた大将は八月二十四日、東部軍管区司令部司令官室で自決されました。その時の遺品の中に、御賜の品、「観音経」「甘露の法雨」などがあり、テーブルの上にきちんと置かれてありました。

 

無血終戦の偉勲者田中静壱大将のこと

中嶋與一(元生長の家本部總持)

 

昭和十八年十月二十九日、陸軍大将田中静壱氏夫人の操さんが生長の家本部へ訪ねて来られました。その日、谷口雅春先生は九州御巡錫中にて、私が本部道場の指導を受持っておりました。操夫人が訪れた時には私はすでに道場へ出ていたので、受付氏が「道場へいらしゃい」と言ったのですが、「待たせていただきます」と言われ、四畳半ほどの薄暗い部屋で約三時間待ったようであります。

 私が道場から下がって会ってみますと、その用件は「夫が病気で重態です。すでに諦めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみがあるように思えるのです。可哀そうで見ていられないので、その心の苦しみを取去って安心させてあの世へ送りたい」ということでありました。

 

「病院はどちらですか」

「陸軍第一病院でございます」

「軍人さんですか」

と尋ねますと、夫人は名刺を出されました。見ると「陸軍大将田中静壱」とあるのです。

「はあー、これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが、私はお断りします。誰か他の講師を紹介しましょう。」

と、椅子から立って部屋を出ようとしますと、夫人はあわてて、

「なぜでございます。」

と詰寄ってこられました。

 

「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。」

と言いました。というのは、その時分、私は牛込の憲兵隊や名古屋の憲兵隊から呼び出されて、「お前は“海ゆかば”の歌はいけんちゅうて講演しとるそうじゃな」と、さんざん油をしぼられ、その頃は身体に油気が少なくなっていた上に、さらにしぼられたので意識が不明瞭になったほどでありました。そこで、

「私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。とてもお会いする勇気がありません。」

と言いますと、夫人は、

「私の夫は大将でございますけれども至極やさしい人でございます。お友達から貴方様を紹介されましたので主人もお待ち致しているのでございますから、是非お願いします。」

と懇願されるのです。

 

「そのお友達というのは誰のことですか。」

「東條大将の奥さんです。」

ここにいたって私はいささか狐につままれたような気持ちになりました。

「はあー、少し変ですねえ。私は東條夫人は新聞でお顔を知っているだけですが」

「奥さんもそう言っておられました。お会いしたことはないけれども、毎月この雑誌の文章を読んで知っているだけなのですが、きっといい指導をして下さると言って紹介して下さったのです。」

 

その雑誌は『白鳩』でありました。夫人は「主人は貴方様を神様の次のような御方と思って会いたがっております。」

と言われ、その言葉にそそのかされて私は逢ってみようかという気になったのです。十月三十一日午後五時頃、病院を訪ねたのでありました。病室の入口には「面会禁止」とあり、その下の机には山のように名刺がおいてありました。

病室に入ると、将軍が寝台に長い体を横たえて、目をとじております。その傍らに腰をかけ、ちょっと挨拶の言葉をかけてみたけれども返答がありません。額に掌をあててみると相当熱い。「お熱があるようですね」と言ってみたのですが相変わらず、黙然としているのです。こうなると心持ちがわるくなって「さようなら」をするところでありますが「主人が待っている」という夫人の言葉をまにうけて腰をあげることができない。しばらく考えこんでおりますと、フト何気なくポケットに手が行って『甘露の法雨』をとり出したのであります。

 

そこで、「これから生長の家の聖経『甘露の法雨』を読みますから、閣下はそのままの姿勢でお聴き下さい。」

と宣言して読みはじめたのであります。二人の位置の関係上、私の右の掌は将軍の額に当たり、聖経をくりひろげる左手は胸部に置いている恰好でありました。最後に「聖経終」と読み了えたとき、田中大将はカッと目をあげて、案外やさしい声で、「ありがたいお経ですね」と言ったのです。それから私は『甘露の法雨』の講義をやったのであります。田中大将はフィリピンへ出征中、その年の三月十二日に発病し、三十九度を越す高熱がつづいているにもかかわらず病因が不明、マラリアに似ているが病因が発見出来ず、ついに八月六日、飛行機にて東京の陸軍病院へ送還されたということでありました。

 

将軍の語ったところによりますと、アメリカ駐在武官としてワシントンに在ったころ、マッカーサー氏(当時佐官)と親交があり、その友人を今では敵とすることになった、悪因縁でしょうね、と自嘲されるのでした。また田中大将は、こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない、同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない、といとも悩ましげに話されるのです。そこで私は、因縁というものにとらわれているのは“迷い”です。迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。

 

“肉体は心の影”“われに使命あり”と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌をもって大地を損することがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありません、と言い放ったのであります。すると将軍は一つ一つうなずいて聴いて、そして最後にニッコリして「有難うございました」と一言いわれたのであります。

 

翌十一月一日、朝七時に田中大将夫人から電話が入りました。その要旨は、主人は昨夜グッスリ眠り、今朝は上機嫌に目を覚まし、これまで出しぶっていた尿が快調に出て大層心持ちがよろしい、また熱も三十七度に下り、私としましては嬉しくて、たとえようもございません。これは奇蹟です、涙がこぼれて仕方がありません、というのです。その日、もう一度病院を訪ねると、将軍はちゃんと寝台に端座して私を待っておられました。そこで再び『甘露の法雨』の講義を致し、以後毎日講義をつづけたのであります。講義中は実に真面目に謹聴せられ、その態度はさすがに立派でありました。

 

ある日、病院の廊下で一人の看護婦から呼びとめられました。その人は田中大将を看護している三人の看護婦の中の一人でした。「先生、毎日ご苦労様です」と挨拶されてから彼女が私に語ったことによると、長い間閣下は一言もお言葉がなく、何をしてさしあげてもあの大きな目でジロッと御覧になるばかりでした。それが、先生が来られてからというものガラリと態度が変わり、検温が終りますと「有難う。ごくろうだね」と笑顔をむけられるようになったというのです。今まで病室へ行くのを三人で譲り合って、誰も行きたがらなかったのが、この頃では皆で行き、将軍をまじえて大声で笑い合うようになり、こんな嬉しいことはありません、というわけです。

 

こうして田中大将自身は日増しに恢復し、また操夫人は各方面へ『生命の実相』を配ったのであります。退院した田中大将は、やがて東部軍管区の司令官として軍務にいそしむようになったのです。昭和二十年八月十五日、終戦の御聖断が下ってからもなお戦争続行を主張する青年将校たちの叛乱が起こりました。その叛乱をめぐって重要な役割をし、後に監禁された私の以前からの知人からも、次のような驚くべきことを聞いたのであります。

 

その日、正午から陛下の御放送が行われるという直前、叛乱軍の幹部将校七名によって、今上の御命を頂戴し幼い皇太子を擁立し戦争を続行する、との密議が行われたといいます。かかる激越な行動に移らんとした青年将校たちを説得し、とり静めたのが田中静壱大将であったことは、総裁先生のお話によって、つとに知られるところであります。かくて陛下の歴史的な放送により、事なく終戦を迎えたのであります。

 

想うに、今上の御命をお救い申しあげるについて田中静壱大将の偉勲は無上であると申しても過言ではないと思います。その田中大将は、すでに昭和十八年に病にて絶えるはずであったと思われるのが『甘露の法雨』によって救われたのでありますから、田中静壱大将を通じて住吉大神のご使命が具現せられたということであります。

 

陛下には田中大将の働きに対し、八月十五日午後五時十五分、蓮沼侍従武官長侍立の上拝謁をたまわり、

今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」

との優渥なるお言葉があったと承わっております。しかして八月二十四日、一切の使命を完うして、田中大将は極楽浄土へ移籍せられたのでありました。

                                (終わり

 

                    生長の家四十年史」     昭和四十四年十一月二十二日発行

「我らの愛国とは」
総合目次