連合国は何故 日本を裁いたか |
◇大東亜戦争は太平洋戦争と同じか 今から六十一年前の話です。若い人達がまだこの世に生まれていないときに、日本は米英仏などと戦争を始めました。そして昭和二十(1945)年八月十五日に、連合国のポッダム宣言を受諾して、有条件降伏をしました。 ここから戦争に勝った連合国軍による六年七ヵ月という長期間に亘る軍事占領がはじまりました。この占領後、大東亜戦争という呼び名は、連合国總司令部GHQの指令により使用禁止となり、爾後、太平洋戦争と呼称されることになりました。
◇極東国際軍事裁判=東京裁判 昭和二十一年〔1946年)一月十九日、連合国総司令官マッカーサーは極東国際軍事裁判所条例なるものを一方的に作り、新しく「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を創設して、日本の戦時指導者として、政治、軍事関係者二十八名(後に二十五名となる)を軍事法廷で裁き、次の七人を絞首刑にしました。 七人の方の名前は,東條英機、武藤章、松井石根、木村兵太郎、土肥原賢二、 広田弘毅、板垣征四郎です。 東京裁判は本来復讐が目的であって、それゆえ俘虜虐待を最も重くみました。 将軍や閣僚に対しても、俘虜虐待と結びつけて断罪しました。 ◇連合国側の狙い 連合国の狙いは、日本の国力を弱体化して、小さな狭い国土で生活をさせることでした。そして日本が再び白人社会の強力な競争相手にならないようにすることでした。 ◇国際法違反を犯した東京裁判
連合国軍が、軍事法廷を創設して、裁判を始めますが、その訴追の内容は国際法に違反する行為でありました。それは国際法上に無い、「平和に対する罪」「人道に対する罪」をつくり、過去にまで遡って事件をさばくことは、事後法の不遡及の原則に反する不当な行為であります。日本側の弁護士も東京裁判が事後法で裁くことに強く反対し、判事の中にも事後法であることを認めた人もいました。 昭和二十年までの国際法では、戦争をはじめること、これを遂行することを犯罪とした国際法の学説は一つもありませんでした。 (詳細は「世界がさばく東京裁判」監修佐藤和男・発売元 ジュピター出版を読んでください) ◇無条件降伏に非ず 日本はポツダム宣言を受諾して降伏したので、無条件降伏したのではありません。ポツダム宣言には、日本側の守るべき事項と同時に連合国側が守るべき事が記されてあります。
東京裁判では、日本側の弁護人は、始めから終わりまで、ポツダム宣言受諾は無条件降伏ではないことを断言し、これを弁護の中核として貫きました。
それは連合国側にも守るべき義務の事項があるからです。 以上 |
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