我らの愛国運動とは何だったのか

中島 功

「愛国」は「運動」でなければならない

  平成十四年二月一日付の「聖使命」に生長の家の本年度の運動方針が謳われている。その中に、総裁谷口清超先生のご著書『智慧と愛のメッセージ』の一節が引用されていた。曰く「『生長の家』がこの地上に顕現し、「神の子・人間」『実相国・日本』の真理が宣布されたのは、単に個人の肉体の病気治しや金儲けのためではないのである。 (中略)国家の救済と全世界の浄化とを約束するのである。」と。また曰く「ことに日本にあっては、中心帰一の『神の国の構図』を現している、天皇陛下を中心に戴く日本の実相を正しく把握するとともに、東西文化の融合を図り、世界平和に貢献する。大和の国”としての役割を果たしていく極めて重要な使命があるのである。」
  まさに尊師谷口雅春先生の大理想そのものである。この総裁先生のお言葉が教団の本心だと思いたい。しかし、たとえ本心だとしても、「愛国」は「運動」でなければならない。谷口雅春先生の日本観・愛国の至情が今やわずか二十万人に減衰したと言われる生長の家の信徒のなかだけにとどまっていたのでは、すでに世界の大半を呑み込んでしまった滔々たる唯物思想、すなわち谷口雅春先生が言われる「赤い龍」を断ち切ることはできない。我々は谷口雅春先生がどんな願いを込めて、かの壮大なる長崎総本山を建立され、破邪の神剣を献ぜられたかの原点に立ち返るべきである。
  谷口雅春先生は「生長の家の一つや二つつぶれても、私は愛国の志を捨てない」旨のお言葉を発せられた。しかり、愛国を唱える限り、我々は一宗一派の信仰にこだわってはおられないのである。愛国の志を共にする限り、そして、その愛国が前述の谷口雅春先生の理念にもとらない限り、大同団結して愛国運動を展開すべきなのである。
  仏教の中にもすばらしい愛国の集団がある。キリスト教の中にも強固な愛国の集団がある。修養団体の中にも優れた愛国の集団がある。谷口雅春先生はそれらの集団の大同団結を推し進められた。
  格好をつけているときではない、なり振りかまっておられるときではない。教育の崩壊、家庭の崩壊、政治の崩壊、経済の崩壊、外交の崩壊、そして何よりも民心の崩壊、伝統の崩壊。日本は滅びつつあると言わざるを得ない。日本が滅んでは世界の平和もない、「生長の家」もない。我々はそのことを自覚しなければならない。いまこそ心ある信徒は勇気を持って立ち上がるべきである。

谷口雅春先生と「あの戦争」

生長の家は愛国の集団であると、私は今も信じている。それは総裁谷口清超先生の度重なるご講話やご文章で明らかに述べられているところである。すでに述べた本年二月一日付の「聖使命」の運動方針に引用されているお言葉もそうであるし、平成十年の建国記念日に生長の家本部で行われた記念式典でのお言葉でもそうである。「私たちはもっと人間の実相の素晴らしさ、日本国の実相の素晴らしさ、天皇陛下の実相そのものを、よく伝えていく生長の家の根本的な教えを広めていかなければならない、ということを痛感する次第であります。」とおっしやっている。
  また、平成十一年の同じく建国記念日でのお言葉では「本当の世界は神の国である。それが今この現実世界で、最も明らかに現れているのが日本国である。」と述べられている。日本を称える言葉としてこれ以上のものはない。
  それにもかかわらず、心ある信徒の方々は、現在の生長の家は谷口雅春先生の愛国の志を捨ててしまったと言っている。なぜか。それは副総裁谷口雅宣氏が指導する教団幹部の人たちの言動に起因している。
  たとえば、彼らは日本の過去の戦争をあまりにも悪しざまに批判するのである。あの戦争が日本による一方的な侵略戦争であり、連合国側には何の落ち度もないかのごとくに言っている。そのことに我慢がならないのである。
  それを言う人は、敗戦直後に谷口雅春先生が受けられた「日本の実相顕現の神示」を楯にとる。確かにそこには、「神が戦をさせているのではない、迷いと迷いと打合って自壊するのだ」と述べられたあと、「迷いの軍隊を皇軍だなどと思ったのが間違だったのである」とか「当時の日本人は気が狭くて島国根性であり、…遂に世界を敵として戦うようになったのである」とか、日本側の迷いばかりが述べられている。
  しかし、我々信徒は、眼光紙背に徹してこの神示を拝読しなければならない。そして当時の谷口雅春先生の苦渋のご心裏とそのご本心を拝察しなければならない。
  占領が解けた昭和三十年代以後のご講話・ご著書がそれを明確にお示しになっている。それらによってあの神示を読み解くべき鍵が与えられているのである。「日本人よ、いたずらな自虐思考をやめて誇りを取り戻せ」と叫んでおられるのである。『限りなく日本を愛す』や『若人のための 78 章』こそが谷口雅春先生のご真意である。そこには満州の建国についても大東亜戦争についても、その持つ世界史上における意義をお説きくださっている。
  谷口清超先生もお説きになっているように、我々は日本の国の実相を明るい積極的な言葉の力によって輝き出していくべきである。つまり生長の家人には、日本の国の歴史の真実を実相を観ずる目を持って拝み出し、それを若い人にそして子々孫々に伝えていく責任があるのである。教団幹部の人も一般信徒も勇気を持ってそれを叫んでほしい。
  以下に谷口雅春先生のご著書『聖なる理想・国家・国民』(昭和五十三年初版)でお書きになっているご文章(七六頁〜八一頁)を引用させていただきます。谷口雅春先生のあの戦争に対するお気持ちが遺憾なく表わされていると思うからであります。これによって副総裁以下の教団幹部の人たちの指導が谷口雅春先生の真意を伝えていないことが分かっていただけると思います。

占領軍の放送に飼いならされた当時の日本

  今、日本の国は民主主義という語の花咲く世界であって、民主主義でないと言われれば人道からはずれた非道な者のように言われるのでありますが、このアメリカから輸入されたところの民主主義は、占領軍が日本へ上陸して来てマスコミを占領してコトバの力で日本の戦争を侵略戦争で悪い戦争だと宣伝これつとめた歪んだ宣伝の下に造り上げられた。中にも、放送局を先ず占領して。天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず”という標語を毎日放送して、皆人間は平等であるのに、天皇みたいな特権階級がいてそれに忠誠を尽くそうなどと考えるから戦争が起るのだ。こういう論法で天皇排撃の思想に誘導し、日本民族は常に侵略戦争を繰返し行なって来た実に悪い民族だという様な、日本人として生まれた事に屈辱を感じて祖国をきらいになる様に仕組まれた放送を盛んにやったのであります。
  みなさんはあんまり若いから、そういう終戦直後の放送をお聞きにならなかったと思いますけれども、今、四十歳前後になっていて、反日本的な教育を学校でやっている先生たちは、このような言葉の手品によって反日本的な精神を養われた、その頃の少年だったのであります。
  そういう人たちは大東亜戦争の本質を知らない。大東亜戦争というものは起るべくして起ったのであって、これを防ぐことは誰にも出来なかった。それは地上人類の成熟期が近づいて、黒人をはじめとして、すべての未発達の、未開発国の有色民族も「人間は神の子なり」の自覚を得て、有色民族といえども神の子であるから、そんなに白人に対していつまでも奴隷になっている必要はないのであるという自覚を得る為に、必然に起るべくして起ったのが、あの大東亜戦争であった。それだから天皇陛下でさえ、それを止めることができなかった。そして一年間というものは日本軍は連戦連勝して「有色民族といえども白色民族に劣らない優秀な力をもつ事が出来るんだな」という自覚を先ず東南アジアの民族たちに与えたのである。
  日清戦争、日露戦争、満州事変等ことごとく日本の侵略戦争であったという様な宣伝がラジオでも新聞でも盛んに行なわれたのであります。そして、日本がそんな国ではないということを反論したり、日本民族の優秀性を説くことは、占領軍によって禁じられていたのだから、みんなその時代の日本人が聞くことは、日本民族は悪い民族である、という放送ばかりであった。そして、占領軍は戦争中、反日本的運動者として刑務所につながれていた共産党員を解放して「今までの愛国者と自称した者は日本の国を潰したが、我れこそ本当の愛国者だ」と名乗らせたそういう背景によって出来上がった教師の組合が日本教職員組合、略して日教組というのであって、今でもそういう反日本的、天皇排撃的な教育を教壇で続けている人が日教組傘下の教師に多いのであります。

住吉大神の御使命について

  この時点に於いて住吉大神が現われられたのは、常に住吉大神は、日本の国の重大時期又は非常事態のときにあらわれて世の暗黒を消し、光をあらわし、この世界を住吉の世界にせられる使命をもっていられるからなのです。この世界を住吉の世界にするには、悪平等を排して上、中、下と、秩序を正して、あるべきものが、あるべき位置にあらしめられなければならない。生け花にも天地人の位置の秩序に従って生けられた時に、始めてそこに生け花の美があらわれる如く、この世界も上、中、下─と、あるべきものが、あるべき位置に秩序あらしめられたとき、そこが美しき世界となり、住吉の世界になるのであります。そういう宇宙浄化の使命をもち給うた神様が住吉大神であられるのです。
  およそ、美とは何であるかというと、あるべきものがあるべきところにある場合に、われわれは、それを”美”として感ずるのであります。
人間の顔でも、その眼鼻立がちょうど本当に適切なところに並んでいるときに、その人の容貌を美しいと感ずるのであります。(中略) さて住吉のおはたらきというものは、あるべきものをあるべきところにあらしめるところの、宇宙の浄化の原理ともいうべき神が住吉大神であらせられます。この住吉大神が伊邪那岐神様、宇宙創造の神様、宇宙浄化の禊ぎ祓いの最後の浄化の神様として出て来られて、上、中、下と、みずから秩序ある相に分かれて、人類はみな。神の生命”の顕現で一体であるけれども、みな個性があって、日本民族は日本民族として、他の国に並びのない天皇国家というそういう理念を持っていて、他国に類例のない素晴らしい美しい中心帰一の国家を創ったのであります。そういう個性あるアイディアを実現する使命を持って生まれたのが日本民族なのである。



我らの愛国とは

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