護国の宗教・生長の家

中 島   功

 生長の家は政治を捨てたと教団は言っている。しかしどこまでが谷口雅春先生のご本心であったのか。選挙運動に参加してみて、政治の世界のあまりにも薄汚いことに、そして理想の実現があまりにも遠いことに絶望されたのであろう。しかし、選挙ばかりが政治ではない。政治家に頼んで法案を通してもらうばかりが政治ではない。先生は人間の霊的実相を悟られたと同様に日本の国の霊的実相を直視されていた。そしてその実相を現象世界に顕現せんことを必死に祈り、かつ我々にも説き続けられた。このことは現総裁谷口清超先生にも引き継がれている。それは、ここ数年間の建国記念日ごとのご講演において繰返しお説きくださっているとおりである。

 谷口雅春先生は、長崎に総本山を建立して住吉の大神を招霊され、護国の神剣を御神体とされた。それはなんのためであったか。押し寄せる滔々たる唯物思想の波、即ち祖国を呑み込もうとする「赤い龍」を、西の果ての地で喰い止めようとされたのではなかったか。これが政治でなくてなんであろう。政治は「まつりごと」である。宗教のない政治は根無し草であり、肉欲と物欲とに奉仕する権力闘争に堕せざるを得ない。宗教は政治と無縁であってはならないのである。

 問題は宗教の持つ排他性であろう。キリスト教・ユダヤ教・イスラーム等々、排他性の強い西欧の一神教には政教分離が必要であったろう。放っておくと社会が成り立たない。テロや戦争にまで発展する。しかし日本の宗教はそうではない。国家・民族の祀りを神道で行ない、家の祀りを仏教で行ない、一人々々がまた別の信仰を持っていてもなんの矛盾もないのである。

 日本の宗教のもう一つの特徴は皇室を仰慕し、国を護らんとすることである。日蓮だけがそうであったのではない。円覚寺の朝比奈宗源師が「日本を護る国民会議(現日本会議)」を提唱されたのは記憶に新しいし、キリスト教でさえ内村鑑三の流れを汲む「キリストの幕屋」はそうである。靖国神社を奉賛し、国体を護持せんとする志は高く力強い。

 これが日本の宗教である。日本民族は古くから全ての宗教の奥にあるただ一つのものを知っていたし、その「ただひとつのもの」がこの世に姿を現し給うたのが万世一系の天皇であることを知っていたのである。(「現人神」とはその謂いである。)そしてその粋が谷口雅春先生の生長の家であった。

 むしろ現在のわが国においては政治に宗教がないことが問題なのである。靖国神社にも年に一回お参りすれば良いとか、非宗教のモニュメントを作れば問題が解決するとか、他国の大統領が参詣してくださる明治神宮にも車の中で待っているとか。これが日本の首相である。情けなくて涙も出ない。政治家はすべからく宗教を持たなければならない。少なくとも人間の霊性と国家の霊性への洞察力を持っているべきである。かっては日本人は全てそれを持っていた。然るに明治以後の唯物教育と戦後の占領政策とによってそれが完膚なきまでに破壊されてしまったのである。

 それを取り戻そうとして起ち上がられたのが谷口雅春先生ではなかったか。先生は人間は物質で造り固めた機械でもなく、動物から進化した存在でもなく、霊的実在なる「神の子」であると説かれた。それとともに国家もまた個人の便宜的な集合体ではなく、まず初めに霊的理念があり、それに基づいて造りなされたものが国家であるとされた。それは日本だけでなく全ての国においてそうなのである。自由と民主がアメリカの国家理念であるように、日本の国家理念は古事記に記された「天孫降臨」「八紘一宇」である。国民にはそれを発見し、理解し、具現化して行く責務がある。特に政治家はそれなくしては存在の意味がない。それを宗教と言うのである。宗教は、現生長の家総裁谷口清超先生も説いておられるように、個人の救いにとどまるものではないのである。

 今の世の中にもそれのわかる政治家が皆無ではない。石原東京都知事もその一人ではないかと思われる。経済産業大臣平沼赳夫氏はテレビの対談の中で「私は母から薦められた谷口雅春先生の『生命の実相』によって唯物思想から脱却した。」と敢然と宣言した。(平成十四年八月二十五日 報道2001)

 ただ、今の一般の政治家は、あたかも宗教を持つことを恥じているかのごとくである。政教分離を誤認しているのである。しかし、その責任は国民にある。国民の集団意識の反映が政治であるからである。国民の風潮から利己主義・唯物主義を払拭して、人間の霊性、国家の霊性の自覚を復活させなければならない。我等谷口雅春先生の弟子たちには、その先頭に立つべき使命がある。

 

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