谷口雅春先生の天皇信仰(下)
四宮正貴
天照大神信仰の仏教的表現が奈良の大仏の造立
『聖なる理想・国家・国民』 (昭和五十三年四月十五日発行) 「釈尊が悟りを開かれて、宇宙の実相をそのままに直感され、その宇宙の実相が、蓮華の華の如く、中心に実(み)″があって、その実相が十六方向に開く花弁(はなびら)の如く現象として展開していることを諄々として詳細に講説せられたのが、いわゆる『華厳経』であって…“普遍の仏性″又は”遍在する神″の生命の展開せる”純粋世界″は華厳即ち蓮華荘厳の世界であるということが説かれている…蓮華荘厳の世界は…その中心の王地によってその存在が支えられていることが、『華厳経』 の廬遮那仏品(るしゃなぶつぼん)に次のように書かれているのである。『…此の蓮華蔵世界海の、金剛囲山(こんごういせん)は蓮華日宝王地に依りて住せり』。金剛囲山というのは、蓮華蔵世界の中央部にある須弥山(しゅみせん)を取りまいて八つの金剛の山脈があるのを指すのであって、それらが依って安住しているのは日の大神の宝の王様の国土に依って支えられているからだというのである。天照大御神の神勅の実現たる日本国が字音の中央にあって、この宇宙の鉄骨ともいうべき金剛囲山を支えているのであって、これが吾々が日本国を世界唯一の真理国家だという所以なのである。」 「釈尊は成道第十四日目にはじめて自己の悟れる宇宙の真理実相が、中心帰一の蓮華蔵世界であり、その中心に日宝王地が存在して、それによってその存在が安定している…として、日本国の存在を暗に示されたのであるけれども、当時のインド人に、そのような象徴的謎が解けるはずもないので、…ひさしく説かれないで龍宮海に秘められていた…しかし今や、時節到来、龍宮の大神・塩椎の大神(又の御名は住吉大神)によってその深義が開顕されることになったのである。それが生長の家の人類光明化運動であり、日本の実相顕現運動であるわけであり、日本の実相顕現運動である。」 「『妙法蓮華経』 は釈尊の悟後第一声の華厳経に相対して同一の真理を説いたもの.…妙なる “法″すなわち”実相″は蓮華をもって象徴される中心帰一の世界であり、中心に『蜂巣』(ハチス・八洲−大八洲(おおやしま)−日宝王地)の存在する世界であることを説いている…」 「”妙法蓮華″の秩序を最も完全にあらわした国家は日本国のみである。天照大御神(インドの用語では毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい)を中心に頂き、その子孫たる歴代の天皇さまが永遠の国家の中心生命として国民にその恵沢を霑おし給うて今に至る、宇宙大生命の本源的中心生命がその応身を”生ける天皇”にあらわし給い、吾ら国民ことごとくその中心生命に帰一し奉るとき、その時、地上に天国の秩序あらわれ、久遠平和の世界が実現するのである。」 「国家としては神の生命が筋金となって一本ズーツと縦に貫くのがいわゆる 『皇統連綿』 である。日本国はヒノモトとして、霊性本源(ひのもと)として、その発祥は天照大御神の神勅をもって肇まり、皇室の霊統が連綿として縦に貫くのである。」 この壮大なる日本国体論を初めて学んだとき大変に驚愕した。正直に言つて、完全に理解し納得することはできなかつた。古代インドに生まれられた釈尊が日本国体の実相をお説きになつたのだらうかと思つた。しかし、この教へは谷口雅春先生の空想でもなければこじつけでもないのである。日本の仏教受容史を学ぶと、谷口雅春先生の説かれたことが日本伝統精神に全く合致してゐることがわかるのである。 聖武天皇の勅願により総国分寺として建立された東大寺の本尊は廬遮那仏である。聖武天皇は天平十三年(七四一)三月二十一日に、『諸国の国分寺・国分尼寺建立の詔』 を発せられ、諸国に国分寺(金光明四天王護国之寺・国ごとに建てられた寺)・国分尼寺(法華滅罪寺)の建立を命じられた。東大寺は総国分寺とされた。これらの寺は鎮護国家の祈りを全国的規模で行ふものであつた。そしてこのことが、日本は仏教国であるといはれる所以なのである。 毘廬遮那大仏を建立したこと自体が、日本の伝統的な信仰精神と仏教の融合=仏教の日本化なのである。毘廬遮那大仏は天照大神のお姿そのものである。廬遮那とは光明遍照といふ意味であり、インドの太陽神にほかならず、後の真言宗の本尊である大日如来に当たる。聖武天皇は、蓮華座の中心(蓮華は宇宙を意味する)に座して照り輝く太陽神=毘廬遮那大仏を天下万民と共に拝することによつて、明るく大いなる国家の実現を願はれたのである。 『大神宮禰宜延年日記』 といふ書物によると、『大仏建立の詔』 が発せられる二年前の天平十三年(七四一)十一月三日、聖武天皇の命により右大臣橘諸兄が伊勢の神宮に参拝し、東大寺建立の発願にあたり伊勢の大神に祈願したことが記載されてゐる。 諸兄はこの時、「当朝は神国なり。尤も神明を欣仰し奉り給ふべきなり、而して日輪は大日如来なり、本地は廬遮那仏なり、衆生此の理を悟り解いて、当に仏法に帰すべし」 といふ示現(註・神仏が不思議な霊験をあらはすこと)を得たといふ伝承がある。かうした伝承が生まれるのは、わが日本民族は神と仏とを理論・教義によつて識別しようとする以前に、信仰的・心情的に神仏を一つのものとして仰ぐといふ態度を持つてゐることによるのである。これはわが国思想史・宗教史に一貫する誇るべき特質である。 天照大神信仰といふ日本伝統信仰の端的な表現が、奈良の大仏の建立であつた。太陽信仰=天照大神信仰と、毘廬遮那大仏への信仰は本質的には一つであつた。 聖武天皇は、天平勝宝元年(七四九)四月一日、大仏の鍍金に当てる黄金が陸奥国より産出したことを仏神に感謝するため、東大寺に行幸され、完成途上の大仏を礼拝された時に宣せられた、『黄金の出でたるを廬遮那仏の前に白さしめ給へる宣命』 において、「三宝の奴と仕へ奉れる天皇(すめらみこと)が命…廬遮那仏の大前に奏(まを)し賜ふと奏さく…掛け巻くも畏き三宝の大前にかしこみかしこみ奏し賜はくと奏す」と宣せられた。聖武天皇は自らを仏法憎の 「奴」と称されたのである。 近世国学者・本居宣長は、これをいたく慨嘆し「これらの御言は、天つ神の御子の尊の、かけても詔給ふべき御言とはおぼえず。あまりにあさましくかなしくて、読み挙げるもいとゆゝしく畏ければ、今は訓を闕(かき)ぬ。心あらむ人は、此はじめの八字をば目をふたぎて過ごすべくなむ」(暦朝詔詞解)と書いてゐる。 しかし、聖武天皇は、「天津日嗣高御座の業」 の神聖な伝統を捨てられ、「現御神」 の御自覚を忘却されたわけではない。 神仏を一体の存在として敬ひ奉るといふのが聖武天皇の大御心であつた。即ち、現御神天皇の国家統治の伝統の上にさらに 「三宝」 への帰依が加はつたのである。ここにわが国体の包容性・重層性がある。 これはわが国伝統の破壊ではない。むしろ仏教の日本化である。全く嘆くことはいらないのである。 わが国においてもつとも尊貴な神・皇室の御祖先神と仰がれる天照大神は太陽神であられる。太陽を中天に仰いで、明るい国家を建設していかうといふのが、 聖武天皇をはじめとしたこの時代のわが民族の願望であつた。つまり、わが国の天照大神への信仰といふ伝統が仏教的に表現されたのが奈良の大仏の造立だつたのである。その太陽神を中心に仰いで国家を救済しようといふのが聖武天皇の大御心であつた。 ◎ 以上、谷口雅春先生の天皇論・国家論のご文章を紹介し、あはせて小生の考へを記した。ただし、『天孫降臨の神勅』・『無門閥』の「奚仲造車」「世尊拈花」 の公案の解釈など、まだまだ重要なことを谷口雅春先生は説かれてゐる。これらについては機会を改めて論じさせていただきたく思つてゐる。 |