大東亜戦争は聖戦である

「学ぶ誌」より

 歴史をどう観るか。それはその人の思想・信条を支えるバックボーンである。とりわけ、日本においては大東亜戦争をどう観るかが、重要なポイントとなっている。

 今、ここに『聖霊天降る宇治』という本がある。巻末には「祝詞集」が収められている。その二一七頁の「尽忠の精霊に告ぐる詞」と二一九頁の「精霊招魂神社大祭祝詞」とをぜひ読 み比べられたい。そこにこそ、谷口雅春先生と副総裁との「大東亜戦争観」の遠いが如実に示されているからだ。即ち、後者には、大東亜戦争における日本の使命、役割が見事に剥落 しているのだ。その意図的に削除されたとしか思い得ない重要な文言を前者のそれから抜き出すこととしよう。

 「…今や人類進化の一周期の終りにのぞみすべての人類は その皮膚の色彩の相異にかかわることなく平等の尊厳を恢復し平等の取扱いを受け その国土は独立し万民平等の自由が確保せらるべき理想実現の時期が近づきたりしがこの理想実現のためには 何れの国の民族かが尊き犠牲となって有色人種に“神の子”の実相を自覚せしめその独立精神を喚起せしめる天使たるの役割を演ずる必要ありしなり…」
 谷口雅春先生は、大東亜戦争における日本の役割を「天使たるの役割」と仰せられたのである。これが後者にとっては何かと不都合だったのであろう。だからこそ「詞」を改竄せざるを得なかった。大東亜戦争を“侵略戦争”と位置づける副総裁にしてみれば、それも決してゆえなしとしない。

 こうした副総裁の考え方に沿って、今後ますます谷口雅春先生の説かれた御教えが曲解され、歪曲される動きが本格化してこよう。それが証拠に、既に本部講師試験には大東亜戦争について見解を述べる問題が出されている由。もし、そこで「聖戦」とも書こうものなら即不合格。合格するには“侵略戦争”と書かざるを得ない。そんな空気が瀰漫しているというから、恐るべき思想統制であり、また思想の変質である。

 谷口雅春先生は「天使たるの役割」を担った日本の大東亜戦争を堂々と「聖戦」とお書きになった。『碧巌録解釈 前篇』にはかくある。「若し大東亜戦争が単に弱肉強食の食うか食われるかの戦いであったのだとすれば、それは野獣的争闘に過ぎなかったかも知れない。(それは西欧的立場より観るときにはそう観えたでもあろうが、それは彼らみずからが東洋侵略の利己主義的見地に立っていたからである。一つの同一事物でも、観点の相異によって異るように観え、また解釈されるのである)日本的『無』の立場から、身剥的立場から、みずからの身を献げて宇宙を浄める民族的精神の立場から観ずるならば、それは決して弱肉強食的な 食うか食われるかの利己主義的争闘ではなかった。宇宙大生命の神聖なる聖意の実相顕現に献身する戦いであるのであったのである。だからこそ聖戦と言い得るのである。」 (二一一頁)

 ここに明言せられているように、“侵略”と言い張る人というのは、結局は「西欧的立場より観」ているからなのであり、裏を返せば『日本的「無」の立場』に立っていないからに他ならない。ところが、聖戦と言えばイスラム教のそれと同じだとの理由をもって、「大東亜戦争聖戦 論」を切って捨てているのが教団内の悲しいかな、実態なのである。これほど、谷口雅春先生の思いを冒涜するものはない。これほど、英霊の尊い犠牲的精神に泥を塗るものはない。

 結局、大東亜戦争を侵略と見る副総裁の中に、「日本的『無』の立場」「身剥的立場」「みずからの身を献げて宇宙を浄める民族的精神の立場」に対する何らの暖かい眼差しも、理解も共感もないというのが根本の問題なのである。実際、そうだからこそ愛国書の聖典が次々と絶版に追い込まれているのだし、生長の家の一大特色となっていた愛国思想が「国際平和信仰運動」の名のもとに風前の灯となっているのでもある。そういう副総裁を見ていると、谷口雅春先生の次のお言葉を何と聞くと詰め寄りたい気持ちにもなろうというものである。

「日本の国を救うは、深々たる龍宮海より発祥した日本の教えでなければならない。仏教ならば住吉大神が龍樹と顕われて、大乗日本仏教を示された以後の教えでなければならないのである。」(二〇九頁)

 この「日本の教え」こそが本当の生長の家なのである。谷口雅春先生が説かれた生長の家なのである。その立場に立てば、大東亜戦争は胸を張って「聖戦」と言わざるを得ないのである。

 まためぐりきた八月。終戦のこの月には、改竄された今の「祝詞」ではない、谷口雅春先生の御思いが込められた「詞」をもって英霊を心か らご慰霊申し上げたいと切に念願する次第である。

(「谷口雅春先生を学ぶ」誌 通巻13号 「教えから見た日本と世界」欄から転載)

 

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