国際法の眼で見る大東亜戦争
 
「時事評論」の欄に「国際法の眼で見る大東亜戦争」をのせて貰います。この佐藤和男教授は日本の国際法の権威者であります。私たちは、「国際法」についても常識として知っておかなくてはならないと思います。そこで佐藤教授が講演された記録を、教授のお許しを得てここに掲載させて頂きます。ここに述べられていることは、世界の国際法学者の間で認められていることです。佐藤教授が分かり易く述べておられますので最後まで読んでくださるようにお願いいたします。文章を「その1」「その2」とわけて掲載することにしました。                               仙頭 泰  


            
国際法の眼で見る大東亜戦争  (その1)

               
法学博士 佐藤 和男

はじめに
 昭和二十年八月十五日正午の昭和天皇の玉音放送から数えて、本年(平成十五年)の夏で早くも五十八年の歳月が経過したことになる。大東亜戦争を前線であれ銃後であれ身をもって経験した世代の人々が日本の全国民中に占める比率は、現今、急速に低下しつつある。

 被占領時代以降のいわゆる戦後教育を受けた世代は、そのかなり多くの部分が、東京裁判史観といわれる日本悪玉論― 昭和三年以降(場合によっては明治時代からの)わが國の対外軍事行動を不正・違法と看做すもの− によって深く影響され、あるいは呪縛されている事実は否めない。

 日本の戦時指導者を犯罪人として処断した東京裁判(極東国際軍事裁判)は、国際法に準拠して日本の歴史的行動を裁くと豪語した。東京裁判を傍聴して以来、微力ながら一貫して国際法を研究してきた現在の私から見れば、東京裁判の実施自体が実定国際法に違反した政治的ショーであったことは明瞭であり、このことは世界の国際法学界でいわば常識となっているとさえいえる。

 ここにあらためて国際法の観点から、大東亜戦争と連合軍の対日占領政策の再検討を試み、「大東亜戦争の合法性と東京裁判の欺瞞性」を明らかにしたい。これが本稿の主要目的である。

一,大東亜戦争と呼称すべし

 昭和十六年十二月八日、米英両国に対する宣戦の詔書が渙発され、日本民族にとり曠古の大戦が、開始された(同日、東京のオランダ大使館に対して、日本政府は両国間に戦争状態の発生したことを通告している)。翌十二月九日には、重慶の国民党(蒋介石)政権が対日宣戦布告を行った。

 日本は昭和十二年七月以来、国民党政権と事実上の戦闘を続けてきたが、いずれの側も国際法上の正式な「戦争意思」(animus belligerendi)を表明せず、法的な意味での「戦争」の存在は認められず、日本側は「支那事変」(China Incident)の呼称を用いていた。また、日本は昭和十五年十一月に、南京の汪兆銘政権を支那の正統政府として承認していた。
 昭和十六年十二月十日に、大本営政府連絡会議が開かれて、「今次の対米英戦争及び今後情勢の推移に伴い生起すべき戦争は、支那事変を含めて大東亜戦争と呼称する」ことが決定された。

 十二月十二日の閣議は右の名称を了承して正式に決定したが、これを受けて同日、内閣情報局は次のように声明した。「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争たることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず。」

 大東亜(Greater East Asia)とは本来地理的概念であって、ソ連が使った"大祖国戦争"の「大」が美称であるのとは異なる。(Greater Manila, Greater Londonなどが,郊外をも含めた都市の区域を示しているように、大東亜は、東アジアと通常いわれる地域の周辺{特に東南アジア}をも包含する地理的概念である。)もっとも、情報局の声明にあるように、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」となれば、欧米植民列強の支配からのアジア諸民族の解放という理念がこめられた名称であることが、理解される。

 昭和二十一年八月、日本政府はポツダム宣言を受諾し、九月二日に同宣言の内容を条約化した休戦協定(連合国のいう"降伏文書")に調印して、連合国軍による占領行政が正式に開始されたが、占領軍総司令官マッカーサーは、同年十二月十五日に「神道指令」と通称される覚書(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」を、日本政府に通達し、その中で大東亜戦争という名称の使用を禁止した。神道指令の関係部分を原文とともに次に掲げておく。

 公文書ニ於テ「大東亜戦争」、「八紘一宇」ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ、日本語トシテノソノ意味ノ連想ガ、国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザルモノハ、之ヲ使用スルコトヲ禁止スル。而シテカカル用語ノ即刻ノ停止ヲ命令スル。

The use in official writings of the terms "Greater East Asia War" (Dai Toa Senso), "The Whole World under One Roof" (Hakko Ichi-u), and all other terms whose connotation State Shinto,militarism and ultranationalism is prohibited and will cease immediately.

 右の神道指令以後、日本国内では太平洋戦争という米国式の呼称がマスコミや教育界で一般的となり、サンフランシスコ平和条約の発効(昭和二十七年・一九五二年・四月二十八日)を機に「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令」(昭和二十年九月二十日の勅令五百四十二号に基づくもの)が失効した後も、状況はあまり変わらず今日に至っている。

 しかし、日本国民がその呼称のもとに戦争の全期間中戦ったという意味において、大東亜戦争という名称を用いるのが正しく、事実、戦中に施行された諸法令はこの呼称が多く使われており、アジア諸国でも今なお忘れられず使われることがあり、例えば、私は先年マニラで現地のある国際法学者から英文の国際法の著書を贈られて、その中に「大東亜戦争」の英文表記が用いられているのを見て、肝銘したことがある。

 日本国民は、戦争を知らない戦後世代といえども、「大東亜戦争」の呼称を用いるべきである。

二、戦争は国際法上の合法的制度であった

 戦後日本の一般社会、とりわけ教育やマスコミの世界では、諸外国にも類例のない国際法に無知でかつそれを無視した"平和主義"なるものが横行し、戦後世代は「戦争はすべて悪」としか教えられず、その結果、国際社会の通念とは相容れない非常識な戦争観が罷り通るに至っている。

 国際法では、第二次世界大戦当時に至るまで、戦争は伝統的に合法的制度とされてきたのであり、欧米人を始め世界の人々は次のような考え方を常識としていた。

 各国家は基本的に自国民の安寧と福祉を求めて内外政策を実施するが、他の国家と利害関係が衝突し、平和的手段では紛争を解決できない場合に、戦争という最後の手段に訴える。

 往昔、騎士ないし紳士の相互間で、男の名誉ないし意地のために決闘が行われたが(どちらが悪いと断定できない)、国際法は国家間の戦争をそのような決闘になぞらえて、戦争遂行自体は合法と認めてきた(決闘の法理)。

 国家は国際法上、基本的権利の一つとして、戦争権(開戦権と交戦権)を持つ。
戦争は法的に厳密にいうと、特定の「法的状態」であり、国家は「開戦権」を行使して一方的な宣戦布告により、相手国との間に「戦争状態」を創出できた。こうして、国家は交戦国となり、交戦国は国際法によって「交戦権」を認められる。

 交戦権とは、平時ならば禁止されている以下のごとき諸行為を、戦時に合法的に遂行できる権利である。@敵国との通商の禁止、A敵国の居留民と外交使節の行動の制限、B自国内の敵国民財産の管理、C敵国との条約の破棄、またはその履行の停止、D敵国兵力の攻撃、殺傷、E軍事目標・防守地域の攻撃、破壊、F敵国領土への侵入とその占領、G敵国との海底電線の遮断、H海上の敵船・敵貨の拿捕、没収、I敵地の封鎖、中立国の敵国への海上通商の遮断、処罰、J海上での中立国の敵国への人的物的援助の遮断、処罰、等。

 以上のうちFに関連して一言しておきたい。米英蘭等の敵国の植民地(領土の一部)であったフィリピン、ビルマ(ミャンマー)、東インド諸島(インドネシア)等への日本軍の進攻は、合法的な交戦権の行使であって、"侵略"などではないことは自明である。

 ここで留意すべき重要事は、国家の戦争遂行にあたり、「交戦法規」を遵守しなければならないということである。戦争はいわばルール付きのゲームに似た面がある。

 交戦法規は、具体的には多数あるが、最も重要なものとして、@一般住民ないし非戦闘員を殺傷してはならない(戦うのはあくまでも軍隊と軍隊である)、A軍事目標以外の民間物(非防守都市を含む)を攻撃、破壊してはいけない、B不必要に残虐な兵器を使用してはならない、C捕虜を虐待してはならない、などが挙げられる。
 日清・日露の両役で日本軍が交戦法規を厳守した徹底ぶりは、全世界が称讃した。

 大東亜戦争(この名称は歴史的事実である)の期間中に、連合国側がこういう交戦法規の重大な侵犯を行った事例は枚挙にいとまがない。例えば、都市の無差別(軍事目標と民間物とを区別しない)爆撃、原爆投下、非戦闘員への暴行(特に満洲でのソ連軍の暴虐を見よ)、捕虜(戦犯容疑者を含む)の虐待、等々である。

 ちなみに交戦法規違反行為が、国際法が伝統的に認める戦争犯罪であり、違反者は、戦争中に敵側に捕らえられれば軍事裁判にかけられ処罰される。民間人の服装でテロ行為をするいわゆる便衣兵は捕虜の待遇を与えられず、処断される。武器を捨てても自軍に加わるために逃走する敵兵は、投降したとは認められないので攻撃できる。

 戦後のいわゆるB級戦犯とは交戦法規違反行為を命令したものを、C級戦犯とは直接に手を下した者を指す。もっとも、戦犯とされた日本軍将兵には、無実の罪でありながら復讐の対象とされた者が少なくなかった。

 第二次大戦中、連合国は「総力戦」(total war)概念を濫用して、戦争犯罪行為(例えば、住宅区域や平和産業施設の爆撃)を正当化して、相手方国民の戦意沮喪を図ったが、卑劣かつ違法な策略であり、戦後再び一般市民や民間施設の保護を謳っても(とりわけ一九四九年ジュネーブ四条約や同追加第一議定書において)、右の責任は逃れられない。

 ところで、国際法の意味における「戦争」(戦争状態)が終了するのは、原則的に、交戦国間に締結された平和(講和)条約が、発効する時点においてである。したがって、大東亜戦争が法的に終結したのは、日本と連合国との間のサンフランシスコ平和条約の発効の時点(昭和二十七年四月二十六日)においてであり、日本国民一般が考えているように昭和二十年八月十五日ではない。連合軍は、戦争段階終了後の占領段階という戦争状態の中において、日本弱体化政策を戦争行為として推進したのである。

三 東京裁判の違法性・欺瞞性

 決闘の法理により、戦争は、攻撃戦争(侵攻戦争)も防衛戦争(自衛戦争)も合法とされてきたが、一九二八年に米仏の主唱により締結された「戦争放棄一般条約」(不戦条約と通称)により、侵攻戦争は違法化されたと考えられた(米国学者などに反対論もある)。違法化(犯罪化とは異なる)された結果、侵攻戦争をした國は国際不法行為の責任(損害賠償または原状回復)を負わされる。

 不戦条約の眼目である第一条おいて、締約諸国は、「国際紛争の解決のために、戦争に訴えることを非難し、相互関係において国策の手段としての戦争を放棄する」ことを誓約した。「国際紛争を解決するための戦争」と「国策の手段としての戦争」とは、共に「侵攻戦争」を意味するものと締約諸国の間で了解(understanding)され、以後この二つの表現は国際社会で―特に外交場裡で―この意味で慣用されることになった。

 重要なのは、戦争が「侵攻戦争」であるか「自衛戦争」であるかを誰がいかなる基準に拠って判断するかであるが、米国務長官ケロッグの言明の如く、各国家が「自己解釈権」を行使して、みずから判断するものとされた。

 また、「侵攻」(英語ではグレッション・aggression その意味は、挑発されないのに行う攻撃)の国際法的定義は第二次世界大戦の時点では未確定で、国際社会で曲がりなりにも一般的な定義(法的拘束力には欠ける)ができたのは戦後の一九七四年十二月十四日(国連総会決議)のことであった。

 こういう法的状況にもかかわらず、戦後のいわゆる東京裁判が、不戦条約により「侵攻戦争」は犯罪(平和に対する罪)にされていると独断的に主張し、日本の遂行した戦争が、実質的には「自衛戦争」であるにもかかわらず、侵攻戦争(翻訳係が"侵略戦争"と悪訳した)だと強弁し、(日本国にではなく)東條元首相以下の個人に(いわゆるA級戦犯としての)戦争責任を追及したこと― 過去において前例なきこと ―は、そのこと自体が悪質な国際法侵犯であった。

 なお「不法行為」と「犯罪」とは法的には重要な差異のある概念である。国際法では、犯罪とは、国際不法行為のうち特に悪質重大で、国際社会の法益(法により守られている利益)を侵害すること甚だしいものを、あらかじめ条約ないし慣行法を通じて「犯罪」と確定したものを指す。

  (その1・おわり)

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