アメリカ人弁護人団

仙頭  泰

 「極東国際軍事裁判」通称「東京裁判」に関する国民の関心が高まってきたことは、大変うれしいことであります。今日の日本人は数十年前の歴史も知らず、「太平洋戦争はどこの戦争?」など平気で云う若者もいるのです。自分の國が嫌いで、日本に生まれたことが悲しいという人もいます。なぜこの様な日本になったかと云えば、七年間という長期間の軍事占領下で、完全に日本弱体化の政策で統制され、その間に東京裁判を通して、日本は侵略戦争の張本人で悪人であるという観念が潜在意識に刷り込まれた結果であります。そこで茶番劇と云われた「東京裁判」に於いてでも、歴史の真実を後世に正しく残そうとして、懸命に努力した米国弁護人のことを「東京裁判の正体」菅原裕著・国際倫理調査会発行・国書刊行会発売から、抜粋して学習の資料に提供いたします。
        
        菅原裕著 「東京裁判の正体」    第9章 アメリカ人弁護人団


1 アメリカ人弁護人の良心

○本裁判においては各被告に対し、日米弁護人各一名ずつを専任弁護人として選任するこ とが許された。これは東京裁判においてのみ許されたことで、ニュルンベルクでは連合国 側の法律家が、被告の弁護に当たる事は認められなかった。

○占領中であったから、アメリカ人弁護人はみな占領軍の軍人もしくは軍嘱託の身分をもっ ていたが、すべてアメリカ本国では弁護士もしくは検事の経歴を有する法曹であって、軍  籍を持つ者と全米各地から応募した者とであった。

○最初はコールマン海軍大佐がアメリカ人弁護人団長として着任したが、陸海軍の相克か 、GHQに対する不満か、ガイダー、アレン、デイ―ンら有力弁護人数名とともに活躍を見ず して、辞任帰国したのは遺憾であった。なかんずくアメリカ刑事弁護士界の白眉ガイダー  氏の辞任は惜しいきわみであった。

○アメリカ人弁護人諸君は恩讐をこえて旧敵国の被告たちのため全く真剣に弁護の労をと り、寝食を忘れて努力し、アメリカ人弁護士道を発揮した。この点裁判官や検察官らが連 合国の名誉や利害に拘泥したのに比較して、弁護人諸君は、一段たかいところに立ち、  世界平和、国際法の確立の見地から活躍したことは立派であり、われわれをしてさすがに 弁護士の国アメリカの感を深からしめたのであった。

○占領軍や検事団もしくは裁判所が、ポツダム宣言受諾なる条件付降伏の日本の立場を、 ドイツなみに簡単に葬り去らんとしたインチキを、随所に破砕して、本法廷の判決のいか  んにかかわらず、後世本件を再検討せんとする者に、公平なる判断をなし得るような資料 を一応記録せしめたことは。アメリカ人弁護人の努力に負うところが極めて多い。

○感受性の強い日本人はとかく、アメリカ人弁護人の活躍を見るとただちに親日家の如く即 断して感謝するが、必ずしもそうではない。彼らは固有の職業意識によって、自らの満足  のため良心に従って善処したというのが大半であった。

○しかし中には心から、日本や被告が好きになった者も少なくない。われわれ日本人弁護  人も、せっかく弁護にたってくれたアメリカ人弁護人だけでも、将来の日米国交のために、 いい気持ちで帰すようにと、相戒めてできるだけ努めた。

○しかし本件の如く国家の侵略性を決定する政治的裁判において、アメリカ人弁護人の職 業的法廷技術に依存しきって、かつての大臣、大将たるの誇りを失い、ただ少しでも罪の 軽からんことに専念し、ひたすら個人弁護に陥った被告も多少出したことは、アメリカ人弁 護人の魅力とはいいながら、日本人としては淋しい気持ちがしないでもなかった。

○しかしながら、本件裁判が表面だけでも、自由に論議を闘わせ、順調に局を結び得たこと はなんといってもアメリカ人弁護人諸君の介在と健闘の結果であった。

2 アメリカ人弁護人の正論

○ローガン弁護人 木戸被告担当のウイリアム・ローガン弁護人はアメリカ弁護団中最も活 躍した一人であるが、彼は太平洋戦争部門の冒頭陳述で「日本に対する連合国側の圧迫 」と題して痛烈にかつ詳細に、連合国の仮面を剥いだのである。(224頁参照) 彼は最終弁論を終わるや、判決を待たずに急遽帰国したが、東京を去るにのぞんで全被告に対してつぎの趣旨の挨拶をのべた。

○私は最初日本についた時には、これはとんでもない事件を引き受けたものだと、後悔しな いでもなかった。しかるにその後種々調査、研究をしているうちに私どもがアメリカで考え ていたこととは全然逆であって、日本には二十年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて 断じてなかったことに確信を持つにいたった。したがって起訴事実は、全部無罪である。し かしこれは弁護人である私が二年半を費やし、あらゆる検討を加えてようやくここに到達  し得た結論である。したがって裁判官や検事はまだなかなかこの段階に到達していないだ ろうと想像される。これが判決を聞かずして帰国する私の心残りである。

○ブルックス弁護人 小磯被告担当のブルックス弁護人は連合国の対中国経済援助の不 当をついた。(225頁参照)中国は欧米における、勢力から軍需品、武器等を受け取ってお り、その結果として騒擾による損害をこうむった国が日本である。この弁護のために参考 として中国に誰が武器を供給し、誰が軍事資材を供給し、これによって日本の人たちが殺 されたかという事情を知りたいなどと述べている。

○これに対しウエップ裁判長は「私は今ここで皆の弁護人特にアメリカの弁護人をよく存じ  ませぬのにこういうことを申しあげることは、非常に遠慮したいのでありますが、どうぞあな た方はこの法廷を助けるのだということを心に置いて注意深くあなた方の質問をそれにそ ってやって戴きたいものでございます」と述懐した。

○勿論、この意味は、われわれの法廷は日本の侵略戦争の責任を裁くのが使命であるか ら、アメリカ人弁護人諸君もこれを理解しわれわれを援助してもらいたい。したがって反対 訊問においても十分注意して、連合国人たる意識のもとに、この使命達成の妨害になら  ぬよう心がけてもらいたい、というのである。もって裁判長がいかなる予断を抱き、如何な る結論を得んとしていたかはまことに明瞭である。(21・7・25)

○ブルックス弁護人は休憩時間に、廊下へ出てから、意気軒昂として「三カ月たたないうち  にウエップを発狂させて見せる」と言って笑った。

○カニンガム弁護人 大島被告担当のカニンガム弁護人はドイツ系アメリカ人といわれてい たが、実に勇敢に、三国同盟部門で、検事団や裁判長と渡り合い論戦した。そして彼は裁 判の中途ドイツに飛び、ニュウルンベルク裁判の実情を調査し、リペントロップ被告の死  刑執行直前に、その宣誓口述書を作成することに成功し、日本に帰って法廷に提出した。 彼はデービス日記の「モスクワに使して」を証拠として提出し、検察側の異論にあうも陳述 をした。(227頁参照)

○ウエップ裁判長も興奮しながら「本審理に政治的論争を持ち込もうとしたのは弁護人検察 官を通じて、カニンガム弁護人一人であります。……」痛罵した。(227頁参照)

○ファーネス弁護人 この時、重光被告担当のファーネス弁護人が立ち上がって、ただいま の法廷の言葉はわれわれ弁護団と致しまして、抗議を申し入れねばなりません。すなわち 日本が大英帝国ならびに合衆国を攻撃し破壊せんとしたという言葉に対し、抗議を申さね ばなりません。いわゆる太平洋戦争に関する証拠は、まだ提出しておりませんし、それに よりまして、まだ本問題についてなんらその段階における争点について、決定に達してい  ないと考えております。これらの事項は最も根本的な問題でありまして、これは将来証拠  に基づいて決定せねばならない事柄であります。かかる言葉は二度、われわれは聞きま した。抗議を申しいれます。

○ウエップ裁判長は、
 私が申した言葉の中には各被告個人を含むよな言葉は、絶対に申しておらないということ を申しあげます。  と逃げを打った。

○ファーネス弁護人は、
 しかしこれら被告は政府を支配していた者、あるいは政府の代表者として訴追されている のであります。いわゆる一般段階がいま行われているのでありますが、この一般段階にお いてわれわれは一般的な弁護を一般的な証拠をもってなすのであります。
 と侵略を前提とする先入感を抱く裁判長を強くたしなめた。(22・6・9)

○これは単にウエップ氏が裁判長に不適任というばかりでなく、戦勝国の戦敗国人に対す  る戦争裁判自体が不合理であるという本裁判の根本触れた問答であった。

○ブレイクニー弁護人 梅津被告担当のブレイクニー弁護人は連合国の原爆使用の責任  を追及したが、スチムソン陸軍長官の「原子爆弾の決定」に関する声明を証拠に提出せ  んとするに当たって、論戦を展開した。(詳細・229頁参照)ブレイクニー弁護人は非常に頭 のさえた学究的な弁護士であった。

3 彼らの日本および日本人観

○世界の大民族
 あるアメリカ人弁護士はさかんに日本の歴史を研究していた。「すでに亡びた国の歴史な んか研究してなにになるか」とからかった。

○彼は「冗談いうな。世界広しといえども、同種同文で、これだけの高度文化を持った八千  万の民族がどこにいるか。僕らはこの世界の大民族が一度や二度の敗戦で亡びるなどと は考えていない。ゆえに僕たちは日本が手を挙げているこの好機に徹底的に日本を洗っ ている。僕はその一環としていま日本の歴史を研究しているのだ」と笑いながら言い放っ  た。

○占領下における日独比較論
 東京裁判中、ドイツを視察して帰ってきたアメリカ軍のある将校の話である。
 「日本人は日本精神とか、大和魂とかいうが、自分のみたところでは精神復興もドイツが  先ではないかと思う。ドイツ人は占領軍に対しても、お前たち三等国民がわれわれ一等国 民を統御するなんて笑止千万だといった態度で冷笑している。ニュルンベルクの法廷でも 、被告たちは判事や検事を睨め付けて、死刑でもなんでもやれるものならやってみろ、と  いう態度をしている。……(中略・231頁参照)

○これに引き換え日本は女ばかりではない、男までがパンパンのように自ら四等国民に成 り下がって民族にの誇りも伝統も捨て去って、乞食や奴隷のまねをしているではないか。 ……(中略・231頁参照) ドイツの労働者たちは敗戦国民が戦勝国民と同等に働いていて 再建ができるかと、夜に日をついで働いている。ストで明け暮れしている日本の労働者と  は覚悟が違う。

○資本家も祖国再建のためには、利益がなくとも資本を出している。政治家もアデナウアー 以下、命がけで真剣にやっている。これではご自慢の精神復興も、どうやらドイツがさきの ようだね。……」

○肝心の憲法についても、日独ともに占領軍から制定を命ぜられたのに対し、日本の指導 者たちは、無条件、無期限で指令に盲従したが、ドイツの指導者たちは、十一州の代表  者が一致して、英米仏三国の軍政長官にくってかかった。

○「われわれは今、君たちの占領下にあって、主権も完全になく、国民の意思も自由でない のに、どうして憲法の制定ができるか。君たちがそんな無茶をいっても、われわれに憲法 の制定を強要するなら、われわれは一切の占領統治に対し、協力を断る」ときめつけた。

○三国の軍政長官も、ドイツ民族のこの正論と、意気に圧倒され、ついに憲法の制定を取  りやめて、単なる基本法を制定させるにとどめた。しかもドイツ人は、更に念を入れて、こ の基本法は時限法であって、将来ドイツ国民が自由意志を回復して憲法を決議した日に 効力を失うとの注意規定(西ドイツ基本法一四六條)まで書き入れたのある。

○この占領法規を憲法と名づけ、占領終了後も依然としてこれを奉戴して、国内的に大混  乱をきたしているわが国の現状と比較したら、実に雲泥の差があるようだ。

○マックマーナス弁護人
 著者の相弁護人ローレンス・J・マックマーナス君はニューヨークの検事出身でスコットラン ド系の好紳士であった。彼は東京に着き、配属が荒木被告の弁護人で、著者と初対面の 挨拶が終わるや否や、声をひそめて「君と内密に相談したいのだが、いったい荒木は天  皇から信用があったか」とたずねた。

○そこで著者は「むろん荒木は陸軍大将であり、男爵であったから天皇の信用は当然だ」  と答えたら、彼は「それは愉快だ。これは誰にもいわずに君と二人で相談したいのだが、  適当な時期に天皇を証人に呼ぼうではないか。これは僕が太平洋上で考えて来た結論だ 」と、さも得意そうに言った。

○唖然とした著者は、「それはとんでもないことだ。荒木が今日惜しからぬ命をながらえて、 この法廷に立っているのは、日本の皇道は侵略思想でないことと、陛下に戦争責任のな  いことを、明確にしたいためだ。その荒木が一身を潔くするために、陛下を証人にわずら わすことができようか。もし弁護人が勝手にやれば、おそらく彼は舌を噛んで死ぬだろう」 と彼に言った。

○彼は「そんな馬鹿なことがあるか。いやしくも弁護人は、被告のために最善の方法を取る べき、そんなことを遠慮して弁護人の職務の執行ができるか」と憤然としている。そこで著 者は「もちろんそうだが、ただその方法が荒木被告のためには最悪だというに過ぎない」と 説明したが、なかなか了解しない。

○仕方がないので著者は「それじゃ二人でいくら議論していてもきりがないから、これから荒 木の意見によって決定しようではないか」と提案したら、彼もようやく同意した。そこで二人 はジープに乗って巣鴨に行った。

○途中、著者は「僕が先に話をすれば、君は疑うかも知れんから、僕は黙っている。君から よく意見を述べてくれ」と言うと、彼はさも自信ありげに「よしよし、万事僕にまかせておけ」 と得意だった。

○荒木に面会して、彼は口をきわめて説いた。しかし荒木はただ一語「絶対に不同意」と即 答した。彼はいかにも残念そうであったが、感心なことには、それ以来二度とこの問題を  口にしなかった。

○しかし著者としてはこのこと以来、憂鬱にならざるを得なかった。いかに英米法の手続き に馴れているとはいえ、こんな気持ちの外人と一緒に、荒木の弁護をしなければならぬか と、少々心細くなってきた。しかし愚痴っている場合ではないので、著者は彼に荒木精神  の速成教育を思い立ったのである。

○狛江にある荒木留守宅を見せて、荒木被告の清廉な生活ぶりを見せる。(234頁参照)明 治神宮参拝、勧進帳を見せて、義経・弁慶の主従の話を聞かせる。またある時彼が無血 進駐を許した日本を賞賛したことことから、日本民族の天皇陛下への忠誠心の発露を話 した。結局は著者のあらゆる努力にもかかわらず、荒木精神の真髄はついに理解せしめ 得なかったが、不思議なことには、彼は次第に心からの荒木ファンになって最後まで誠心 誠意努力したくれた。

4 アメリカ人弁護人の伝統

○広田被告担当のデービット・スミス弁護人は、証人訊問の方法に関するウエップ裁判長  の裁定に対して「裁判所は証人訊問に関して不当な干渉」を行っているとの理由で「異議  申し立ての権利を留保する」と抗議した。

○裁判長はこの「不当な干渉」という言葉を聞きとがめて「法廷侮辱を意味する言葉を取り 消し陳謝せよ」と迫ったが、スミス弁護人は、不当なる干渉という言葉はアメリカでは普通 使われていることで、格別法廷を侮辱したとは思わないから取り消す必要を認めない」と  いいきった。そこで裁判長は他の裁判官と評議の結果「裁判所はスミス弁護人がさきほど の言葉を完全に取り消し、陳謝するまで今後法廷の審理から除外する」と申し渡した。

○スミス弁護人は決然として発言台に立ち「私は私の考えを変更する意思はありませんし、 また変更する理由も認めません。したがって私は永久に広田被告の担当弁護人の地位よ り除外されたと認めるよりほか仕方がありません」「最後に私は私の代表する被告に代わ りまして、ただいまの裁判所の決定に対して異議を申し立てる権利を留保しておきます」と 陳述し終わるや、いったん自席に戻り書類をまとめて小脇に抱え、長身の体躯を悠揚とし て法廷から消えて行ったのである。

○彼が六方を踏んで花道から退いて行くようなこの場の光景を見て、私はしみじみとアメリ  カ人弁護士の心意気と伊達姿とを満喫した。しかしここまでならわれわれ日本人といえど も、やろうと思えばやれぬことはない。私がスミス弁護士に心から敬服したのはそれから  の行動であった。

○彼は裁判長の復帰期待に一顧も与えず、新聞記者席の末席に陣取って、毎日法廷を傍 聴監視し、自後一年一日も欠かさなかったのである。日本人的感情からすれば、断固とし て去った法廷に姿を現すことはいかにも未練気で、裁判長の侮辱を受け、同僚の顰蹙を かいわせぬかと引っ込んでしまうのが普通であろう。

○しかるに彼は平然として、いとも熱心に出廷を継続すること弁護人当時と少しも変わると ころがなかった。そうして満一年、広田被告のためや、弁護団のため、あらゆる努力を傾 注し、花井弁護人と共に精魂を打ち込んだ。そうして最終弁論の準備が完全に終了する  や彼は飄然として日本を去ったのである。

○彼はメイフラワー号で始めてアメリカ大陸に渡ったスミス家の正統を継ぐ者であるそうだ  が、毀誉褒貶を度外において最後まで毅然として自己の所信に邁進した大丈夫的態度は リンカーン弁護士以来の伝統未だすたれずとの感を深くせしめた。

5 ケンワージー憲兵隊長

○なお弁護人ではなかったが、いま一人忘れてならぬ人がいる。それはオープレー・S・ケン ワージー憲兵中佐である。

○彼は憲兵隊長として最初より最後まで市ヶ谷法廷における被告たちの保護監視の任に  当たった。彼はもともと下士官出身の現役将校で、東京に来る前にはマニラで山下、本間 両将軍の世話をした。

○ことに彼は山下将軍を深く畏敬し「山下は軍人として立派に死んで行った。自分も彼のようにして死にたい」と口ぐせのように言っていた。

○彼の法廷における被告らへの世話は全くかゆいところに手の届くほど、親切で同情に満 ちていた。したがって被告たちは市ヶ谷と巣鴨とでは天国と地獄の違いがあると洩らして いた。

○被告たちは彼と別れるに際し記念のために連名して揮毫を贈った。弁護人としても、彼の 理解ある寛容により被告との接見が自由に許され、弁護の打ち合わせができたことを、こ こに感謝しておく。 

          (第9章・終)



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