終戦時の思い出

安部源基

(資料提供者:仙頭泰)

 昭和二十年八月六日、広島は恐るべき原子爆弾に見舞われて一瞬にして焦土と化した。八日に至りソ連は、佐藤駐ソ大使に対して、九日から日本と戦争状態にはいる旨通告してきた。日ソ中立条約を一方的に破棄して侵略を開始したのであるが、共産国家ソ連の常套手段とはいえ、許すことの出来ない国際的不信行為であった。さらに広島につづいて長崎も第二の原子爆弾を受け、戦局はいよいよ最悪の事態に陥ったのである。

 九日以来ほとんど連日にわたって閣議と最高戦争指導会議が開かれたが、この際ポッダム 宣言を無条件に即時受諾して降伏すべしという意見と、保障占領、武装解除、戦犯処罰などについて若干の条件ないし希望を付すべしという意見が激しく対立した。

 しかし無条件派といえども、国体が否認されるのでは受諾するわけにはいかにという点においては、条件派と同様であった。結局、火花を散らすような激論の後、最高戦争指導会議における聖断に従い、十日政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含していないという了解の下にポッダム宣言を受諾する」旨の意思表示を中立国を通じて連合国側に通達した。

 右に対する連合国側の回答は十二日政府に到達したが、回答をめぐって再び議論は沸騰した。回答は国体護持について保障を与えていないから、再照会してこれを確認すべしという意見と、再照会すると終戦の機を失うから反対だという意見の二つに分かれたのである。

 私も再照会論者であったが、論議はともかく、陛下の御意志に従いこの際終戦となるのは必然だと確信していたので、 十二日夜、水池警保局長の名をもって、「国体護持の条件で終戦になる見込みだから治安維持に万全を期せられたし」という趣旨の極秘電報を全国の地方長官に通達した。

 十三日も終日閣議が開かれたが、ついに意見の一致が見られなかった。私はその夜帰宅して静かに考えた。これまで激しい議論が闘わされたのは、それでよかった。もし東郷外相の即時受諾主張に全閣僚が当初から賛成していたとすれば、クーデターにより内閣は倒されていたかも知れない。

 しかし、このままの状態を続けたのでは、如何なる不祥事件が起こらぬとも限らぬ。現に軍の一部強硬分子は、クーデターを起こし兼ねない情勢にある。いまや最後の断を下すべき段階にきており一刻も猶予すべき時ではない。これが軍の動向や治安状況を大観しての私の大局的判断であった。

 そこで首相秘書官を通じて鈴木首相に即時面会を申込んだが、すでに就寝されているので会うことができず、翌十四日午前八時官邸に首相と迫水書記官長を訪ねて、全閣僚出席の御前会議を速やかに開くよう運んでもらいたいと進言した。
  
 その日の十時頃であったと記憶するが、書記官長からそのままの服装でよいから直ちに宮中に参内するように全閣僚に達しがあった。閣僚はとり急いで参内し防空壕内の会議室に参集した。首相以下全閣僚の外、梅津参謀総長、豊田軍令部総長、平沼枢密院議長、および書記官長、陸海軍軍務局長、が出席した。

 やがて陛下が臨御遊ばされた。陛下の思召しによる政府統帥部連合の歴史的御前会議が開かれたのである。時刻は十時五十分を指していた。

 鈴木首相は恭しく御前に進み、意見対立の状況を申し上げ、強硬論者の主張を直接陛下の御耳に入れたいとして阿南陸相、参謀総長、軍令部総長の三名を指名された。三名の意見は、言葉の表現については硬軟の差はあったが、いずれも「先方の回答をそのまま認めて受諾したのでは、国体の護持は困難であるから、もう一度国体問題について 再照会して念を押すべきだ」という点においては同一であった。

 玉顔には沈痛の色が浮かんだように見受けられたが、三名の意見奏上が終わると、陛下から大要次の如き御言葉があった。

 「反対意見もよくき聞いたが、私は連合国の回答は国体を認めたものと思う。再照会したら戦争の機を失うという外相の意見に賛成である。これ以上戦争を続けて国民を苦しめることは、私の到底忍び得ないところである。この際、忍び難きを忍び、耐え難きを堪えて、ポッダム宣言の即時受諾に賛成する。終戦を円滑に運ぶため必要とあれば、自分が軍の説得に当たってもよいし、ラジオ放送をしてもよい。また、詔書を出す必要もあろうから、政府は早速その起草をして貰いたい」と。

 居並ぶ一同は、顔を伏せないものはなかった。嗚咽慟哭の声も起こった。これで歴史的な御前会議は終ったが、時計は正午を指していた。午後一時頃から首相官邸で閣議が開かれ、ポッダム宣言を受諾し戦争を終結することを決定した。

 聖断があったとはいえ、国家意思は各大臣の自由意思と責任において閣議決定を経なければならないのが憲法の建て前であった。迫水書記官長の用意した詔書案についても熱心に検討されて若干の修正が加えられた。そして鈴木首相は同夜八時半頃詔書案を御前に捧呈し、十一時公布の手続きが完了された。

 降伏に不満な一部少壮将校たちは、クーデターを企てて森近衛師団長を射殺し、偽師団長命令を発して宮内省や放送局に侵入するなど、いろいろの不穏事件は起ったが、大事に至らずして終り、占領軍も無血上陸することができた。これは全く、三千年の歴史と伝統に基づく天皇の権威がしからしめたのであった。

 もしあの際、聖断がなかったとすれば、終戦も不可能であったろうし、たとえ終戦ができたとしても、収拾すべからざる大混乱を招いて民族の悲劇をもたらしたことは必然であったと思う。

 古来わが国では、国家、民族が重大危局に際会するごとに皇室が偉大なる歴史的役割を果たされている。大化の改新然り、明治維新また然り、であった。

 わが国家、わが民族の生命の中核は、皇統連綿たる天皇である。わが国家、わが民族は天皇を中心として統合され、同じ運命と、同じ使命を担う民族共同体として生成発展して来た。そして、天皇と国民との関係は、単なる権力関係によって成り立っているのではなく、君民一体の歴史的、倫理的、精神的関係によって結ばれている。

 これが私の国体観であるが、危急存亡の重大時局に当たり、民の心を心とされて仁愛に満ち給う明天子の下に、陛下の御信頼厚き沈毅大勇の士、鈴木貫太郎海軍大将が宰相の地位にあったことは、よく君民一体の真姿が顕現され、日本のため幸いであったと思う。

(終戦時 内務大臣)

 

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