【編集後記】 (平成16年11月号)
▼谷口雅春先生があれほど長年にわたって粘り強く現憲法を批判してこられたように、我々も谷口雅宣氏の言動を批判し続けなければなりません。なぜなら、これを放置すれば、「言葉の創化力」によって「嘘」も「真」になってしまうからです。特に教えに関しては「真」を貫き通さなければならないこと、言うまでもありません。
▼谷□雅宣氏の個人ホームページで、雅春先生の聖典出版停止問題の質問に関連して、次のように述べています。「雅春先生の著作を深く研究すればするほど、見えてくるのは『谷口雅春』という歴史上稀有な人物の人となりが分かるのであって、『生長の家』が見えてくるのではありません。『生長の家=谷口雅春』という安易な方程式は、雅春先生御自身が否定しておられるのを忘れないで下さい」(八月十二日発言)。
このような戯言を批判するに多言を要しますまい。雅春先生の聖典を拝読して「見えてくる」のは「生長の家の教えそのもの」に決まっているではありませんか。他の誰が雅春先生以上に教えを語ると言うのでしょう。「『生長の家=谷口雅春』を雅春先生御自身が否定しておられる」などは、「自分はラッパにすぎない」の雅春先生のお言葉を、雅宣氏の言う「原理主義」の物差しをもって解釈しない限り出てこない言葉です。
▼ここに示された雅宣氏の精神は、教えにまったくの無関心にして雅春先生を「原理主義的」につまり自分に都合のいいように解釈しようとする寒々とした精神に過ぎないのです。(Ω)
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