平成21年2月号(77号)

飛田給での清超先生追善供養祭の淋しい状況


生長の家信徒としては、他の人を非難し闇を暴くのは心に痛いものがありますが、現生長の家の現状を詳らかにし、多くの方々のご判断に供しようとするものです。



 12月17日の清超先生の追善供養祭は、参加者千名程度の大変淋しいものであったと編集後記は報告しています。
  雅春先生の時は総本山の出龍宮顕斎殿、テントも含めて溢れんばかりの1万名ほどの人が集まりました。それに比べて何という寂しさでしょうか。
 これも、谷口雅春先生のみ教えをそのまま中心において教化活動、宗教活動をせず、ただ「今の教え」が中心とうそぶき、両親に感謝の一つも実践できない雅宣氏のなせるワザと悲しむほかはありません。



【編集後記】

▼平成二十年十二月十七日、生長の家の第二代総裁・谷口清超先生の追善供養祭が飛田給練成道場で午後一時から執り行われました。
 谷口雅春先生の追善供養祭の時の晴れ渡った青空(本号「生長の家入門Q&A」)とは打って変わり、あろうことか、その日の前日翌日の好天にはさまれた、暗雲垂れ込め肌を剌す寒さと冷たい雨が降りしきるその日に、数千人の参列者を予想して用意された中庭のテント席や食堂その他の別室に参列者は誰もなく、メイン会場の大道場も前半分に動員された全国の教区幹部が大部分席を埋めるに過ぎず、後方は空席のみの千人いるかいないかの寂しい教団葬でした。谷口雅春先生追善供養祭の参列者一万人に比ぶべくもありませんが、二十三年の時を経てのこの衰退ぶりは目を覆わんばかりです。

▼それもそのはずです。前月二十九日の通夜祭の席上、谷口雅宣氏は荒地浩靖氏を門前払いにしたばかりでなく、荒地氏を受け入れようとした恵美子先生に対しても「あんた!」呼ばわりし、口汚くののしる程に、その心は”死を悼む心”に程遠いものがあるのです。
 雅宣氏が、いくら清超先生から「自由」にやらせてもらったと感謝の言葉を述べても、その「自由」が「勝手気まま」と同義語であることは、これまでの傍若無人な振る舞いからも明らかです。

▼人の心根は伝わります。ましてやトップの心の伝播力は甚大です。教団の今日の哀れな姿は、谷口雅言氏の哀れな心の影であることは、”心の法則”の教えのとおりなのです。



雅宣氏言動

護法の運動

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