「森のオフィス」構想の”七つの大罪”
─「生長の家」改め「森の家教」と称すべし
「労働なき富」、「理念なき政治」、「説明なき疑惑」、「品格なき野次」、「財源なき予算」、「代案なき移設」「仕事なき新人」口コミで広がっている、これが鳩山政権の”七つの大罪”と言われるものである。自らの足下を省みることもなく、脳天気にマハトマ・ガンジーのそれを引用などするから、却ってこういう侮りを受けてしまうのだ。それにしても不可解なのは、かくも無惨な姿を顕わにしている鳩山政権に対して、いまだマサノブ総裁の口からは、それを支持した”不明”を詫びる言葉が一言も聞かれないというのはどういうわけであろう。環境問題にさえ熱心であれば、すべては許されるとでも言うのであろうか。
そう言えば、国会でこんなやりとりがあった。自民党の町村信孝議員が、鳩山政権の”温暖化ガス 25 %削減”の国際公約を取り上げた際のこと。町村氏が、 CO2 削減問題は「国益を賭けた交渉」であり、国民負担に関する具体的なデータや裏付けを示さないまま、高い数字を打ち出したことは「無責任」だと難ずると、鳩山首相は次のように声を荒げて気色(けしき)ばんだというのだ。「町村さんとは発想が違う。私は地球の命を守りたいんです。」 「国益」より「地球益」、「日本民族」より「地球市民」ということか。さすが”宇宙人”と称されるだけのことはある。地に足がついていないというのか、自分の「観念」の世界に浸って”自己陶酔”しているというのか、現実離れにもほどがある。かかる人物を首相にいただいている、わが日本国民の不幸を嘆かないではいられない。
他でもない、これを紹介したのは鳩山首相のそれがどうしても現総裁と二重写しとなって仕方がないからである。今回、「聖使命新聞」2月1日号で発表された「森のオフィス」構想、これなどはまさしく現総裁の”自己陶酔゛の最たる代物(しろもの)。そこに隠された深刻な問題点をガンジーのそれよろしく「七つの大罪」として論じてみたい。
@「先人たちへの思いなき構想」 東京・原宿にある生長の家本部を移転すること、それが「森のオフィス」構想の核心である。新しい本部の所在地は、八ヶ岳の南麓。本部移転後、原宿の跡地は”霊的緑地”として供されるという。
どう考えればこういう発想が出てくるのか。 一言にして言えば、谷口雅春先生の存在を消し去りたい、自分の思うがままの教団にしたいという潜在欲求が現総裁の心中深く蠢いているからであろう。よし、そこに本部会館建設に携わった先人達への一掬(いっきく)の思いでもあれば、とてものことにかかる暴挙に打って出ることなど出来ない筈である。思い起こせば、最初にこの構想が漏れ出たときの信徒の反発、それはそれは喧(かまびす)しいものがあった。谷口雅春先生と信徒の思いの結晶ともいうべき本部会館を破壊するとは言語道断、本部移転は断じて許せない、その信徒たちのあまりの剣幕に、さしもの吉田晴彦理事長(当時)も苦し紛れに「本部移転はしない」と言うしかなかった。
今、思えばこのときからの心労が吉田前理事長の身体を漸次、蝕んでいったのかもしれない。現総裁の一人よがりの”自己陶酔””自己満足””自己顕示”のために贖われた、これも尊い”人柱”だったということか。
今さら詮無いことかもしれないけれど、原宿本部会館が毀されていくのを見るのは何とも忍びがたい。「ご神像」もどうなることやら。大東亜戦争を”侵略戦争”の一言で片付ける現総裁に、先人達への思い、歴史に対する畏敬の念を期待するということそのものが、実は「木に縁りて魚を求むる」に等しいことなのかもしれない…。 A「職員の同意なき構想」
「森のオフィス」構想、これには心ある信徒だけではない、本部職員も全てが賛同しているというわけではないようである。八ヶ岳の南麓と言えば、住環境としては良くても、生活環境としては様々な不便が予想される。とりわけ、家庭をもっている職員にとっては、夫の仕事の都合や或いは子供の教育面等で内心、本部移転を快く思っていないとしても何ら不思議ではない。
そのことは、当の総裁本人もよく分かっているのだろう、何でも、「森のオフィス」の職員数は 100 名から 250 名と見込んでいるとか。これだけの幅を持たせていると言うこと自体、退職を申し出る者が少なからずいるだろうと踏んでいる証左でもある。つまり、転居が嫌ならそのまま辞めて貰って結構というスタンスなのだ。下々の気苦労など眼中にないということか。
目下の関心事は、専ら、現総裁自ら、「森のオフィス」に常駐するや否や、これである。しかし、これとても職員の間では、総裁のことだから相変わらず本人は原宿に住まいし、「森のオフィス」には別荘感覚で時々、顔を覗かせる程度なのでないかという冷ややかな意見が拡がっているとか。「森のオフィス」の理想実現に向けて、職員一丸となって燃えているというのでは、どうもなさそうなのである。
それを思うと、総本山ご造営に際してのあのときの信徒の熱気は凄いものがあった。それもひとえに、谷口雅春先生御自ら、長崎に居を移されてその陣頭指揮に当たられたからこそ。こういうと、何だか「その熱気こそが CO2 の元凶なのだ。森のオフィスには馴染まない」と冷ややかに一蹴されそうではあるが…。
B「鎮護国家の使命なき構想」
総本山ご造営に、なぜ、信徒があれだけ燃えたのか。言うまでもなく、そこには「鎮護国家・宇宙浄化」の大使命が込められていたことを決して看過してはならない。谷口雅春先生の比類無き祖国愛に、信徒は文字通り「挺身・致心・献資」の真心をもって応えんとしたのである。
ところが、今回の「森のオフィス」構想には、祖国日本への思い入れなど一欠片も見られない。鳩山亡国政権が、「日本を日本でなくする国家解体三法案」即ち、夫婦別姓法案・永住外国人への地方参政権付与法案・人権侵害救済法案(旧人権擁護法案)の成立を目指しているというのに、それに対して現総裁はいまだ何らの情報発信もしていないのである。これは、刑法理論上の「不作為犯」に相当するのではないのか。つまり、何も言わない、しないということは、それはとりもなおさず亡国に手を貸しているも同然と見なされるということなのだ。
あれほど愛国心の高かった生長の家の信徒が、現総裁が実権を握ってからというもの、環境問題ばかりに関心を払うようになり、祖国日本の危機に対して無関心、無頓着、無痛覚になってしまったことは何とも慙愧に堪えない。「鎮護国家」の使命を忘れてどこに「生長の家」の存在意義があるというのか。こう難ずるときっとこう反論するのであろう。「もはや国家を云々する時代は過ぎた。これからは地球規模で考える時代なのだ」と。
生長の家も、鳩山首相よろしく「祖国日本のいのちより地球の命を守りたい」というところまで成り下がったということなのかもしれない。よく指摘されるように、谷口雅春先生は「日本のためになるなら、生長の家がつぶれてもかまわない」と仰られた。その騏尾に付して言うなら、現総裁の腹中にあるのはこういうことなのかもしれない。「地球のいのちを守るためなら生長の家がつぶれてもかまわない」。なるほど、「生長の家がつぶれてもいい」というその一点においては、ちゃんと法燈は”継承”されているというわけか…。
C「魂の救済なき構想」
先頃、陸上自衛隊の中沢剛一等陸佐が「(日米)同盟は『信頼してくれ』などという言葉だけで維持されない」と発言したことが物議を醸したことがあった。この余りにも当たり前に過ぎることがそのまま通用しないところに、鳩山政権の亡国政権たる所以もあるのであるが、同様のことがこの「森のオフィス」構想についても言える。
つまり、地球の自然環境を守るということ自体はよしとしても、少なくとも宗教団体である以上は、もっと現実に苦しんでいる人の魂の救済にこそ目を向けるべきではないのかという素朴なる疑問である。実際、現下日本には、 12 年連続して年間3万人以上の人が自ら命を断つという悲しい現実があるのだ。
谷口雅春先生は、信徒の先頭にたって愛国運動、政治運動を牽引された時でも、運動方針から”治病”の柱を外すことは決してなさらなかった。貧・病・争の人生苦に喘ぐあまたの人々の魂を救済し得ずして宗教の存在意義はあり得ないとお考えになっていられたからである。
さればこそ、心ある信徒は、現総裁の地球環境問題に偏する指導に疑義を呈したのであった。その非難の声は相当数、本人の下にも寄せられていたようで、自らその著書『今こそ自然から学ぼう』において「内容が宗教的でない」という声が時々あることを告白している。本来ならば、こういう声には謙虚に耳を傾けるのが宗教指導者というものなのだが、現総裁はそれを逆手にとって、この本ではここぞとばかりにそれを難詰し、以降、かかる批判の類の一切を封じ込めてしまった。信徒の求めるものに応えるのではない、自分のやりたいことをやる。それが嫌なら退会してもらって結構、それが現総裁の変わらざる一貫した姿勢であることを図らずも信徒はここで学ばされたのである。
だから、今回の「森のオフィス」構想についても、「人のいうことなんか聞く人じゃない。どうせ本人がやりたいんでしょ」という白けた空気が教団内に横溢しているというのだ。「森のオフィス」への移転が決まって、原宿本部会館は既に早くも”森閑‘としているそうな…。
D「教えの根拠なき構想」
110年ぶりの大雪に見舞われたワシントン。その雪害にあった人々が、地球温暖化は本当なのか?そういう疑問を抱いたとしても何ら不思議ではない。実際、アメリカでは地球温暖化説への不信が徐々に広がりつつあるという。それに拍車をかけだのが、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)肝いりの「ヒマラヤの氷河が二〇三五年までに溶けてなくなる」という報告は握造であったという暴露記事である。先に開かれたコペンハーゲンでの気候変動枠組条約会議( COP15 )が何故、縫れに縺れたか。その背景にあるのも、 IPCC のデータの信憑性への根強い不信感だ。
新興国諸国からすれば、温暖化問題は新興国の成長を抑制するために先進国の仕組んだ統制経済カルテルにほかならないと見えるのだ。日本でも、『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』の著書で知られる武田邦彦・中部大学教授が、様々な角度から環境問題への取り組みに疑義を差し挟んでいる。
ところが、そういうことには一切、頬っ被りして CO2 による地球温暖化説を盲信し、その上に立って進めてきたのが「森のオフィス」構想にほかならない。「親亀こけたらみなこけた」という話があるが、もし、地球温暖化説に科学的根拠はないということにでもなれば、それこそ「森のオフィス」構想などいっぺんに吹き飛んでしまう。
ここで、マタイ伝の有名な聖句を引いておこう。「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家に建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである。」
ここに言われている「わたし」を谷口雅春先生に置き換えてみれば、今の「森のオフィス」構想の本質的欠陥がよく見えてくるであろう。「森のオフィス」構想が、『生命の實相』哲学という「岩を土台」として築き上げられたものであれば、たとい地球温暖化説に何らの科学的根拠もないと断じられたとしても、決してそれで動揺することなどないはずである。ところが、現総裁は『生命の實相』を軽んじ、なおかつ恐れ多くも「谷口雅春先生も間違えられることがあった」などと尊師の名を汚した上に、科学的根拠という、所詮は”現象”にしか過ぎない、いわば砂の上にこの「森のオフィス」を構築しようというのである。
裁く者は裁かれる、谷口雅春先生を裁いた現総裁は、いずれ必ずや歴史によって厳しく裁かれる時を迎えることとなろう。
E「生命の実相の悟りなき構想」
「森のオフィス」構想によれば、低炭素のライフ・スタイルの確立を目指して、「従来の行事の中に大自然に学ぶプログラムを積極的に取り入れて、自然の美に触れたり、自然の仕組みの精妙さなどについて学ぶとともに、自然物(野菜、木材、粘土などの自然界にあるもの)を使った物づくりなどを体験する」とある。
何のことはない、こういうライフスタイルは、セレブの別荘生活によくある話ではないか。事実、こういうエコライフを目指している NPO 法人は今やいくらでもある。
ということは、何も「生命の実相の悟り」を前提とする必要はない、換言すれば「森のオフィス」構想というものは、必ずしも宗教法人である必要はないということを意味する。言うなれば、「地球環境を守る NPO 法人」を立ち上げればそれですむ、それだけの話なのだ。そういうところに、何故、宗教団体の本部を移転しなくてはならないのか。
人生の諸問題を『生命の實相』哲学によって解決し、そして人のいのち、国のいのちを救わんとする大いなる志をもって求道に伝道に励むべき生長の家の信徒を、こういうライフスタイル云々の次元へと引き込んでいこうとしているところに得も言えぬ悲しみ、悔しさを覚えないではいられないのである。
F「生長の家の必然性なき構想」
そもそも、何のために生長の家は出現したのであるか。常に問われるべきはまさにこの一点にある。因みに『到彼岸の紳示』にはかくある。
「釈尊の生活もキリスト教の生活も、家庭生活や実際生活という面で、それを成就したと言うことができません。だから釈尊の生れたマガダ国も滅び、イエスの生れたユダヤも長く独立することができませんでした。特殊の使命と天才とをもった人のほかには、このような家庭生活や国家破壊の道には、ついて行けないのであります。
そこに此らの教えの足りない所があると思うのであります。その足りない所を補うために、そして釈尊の教え、キリストの教えを成就するため出現したのが生長の家であります。…家庭も生かさなければならないし、国家も生かさなければならない。」( 98 頁)
「釈尊の教え、キリストの教えを成就する」これこそが生長の家の果たすべき大いなる使命なのである。こんな壮大な理想、大目標がどこにあろうか。さればこそ、あまたの人財がそこに人生を捧げんとして、谷口雅春先生の膝下に馳せ参じたのである。ところが、「森のオフィス」構想においては、地球温暖化防止と炭素ゼロ社会の実現が今世紀生長の家の最大の眼目、運動方針になるというのだ。そのために「中・長期的ヴィジョン」として二〇五〇年まで視野に入れるという念の入れようなのだ。
これが、本当に教団あげて取り組まねばならない運動なのであろうか。果たしてこれに人生を賭けようという有為な人材が集まるのであろうか。こういうことなら、人生をかけなくても、命をかけなくても、腰を掛けてでも十分にやれる。かくして、「森のオフィス」構想からは、時代を変革するような魅力に溢れた人材は決して輩出され得ないと断言する。
谷口雅春先生の説かれた『生命の實相』に惚れ込んだ人間でなければ、教団を背負ってたつ救済力ある人財など育つ筈はないのだ。実に勿体ない話である。だからこそ、いくら提言しても聞き入れてはもらえないと十分に知悉しつつも、敢えてこう最後に言いたいのである。聖書に「新しい酒は新しい革袋に」とあるように、「地球温暖化防止と炭素ゼロ社会の実現」という新しい酒をつくるのであれば、それはどうぞ「生長の家」という革袋ではない、新しい革袋に入れていただきたい。
新しい酒に似つかわしい新たな革袋、そう「森の家教」という革袋に入れたらいかがでありましょうか…。
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