平成22年5月号

森で滅びる生長の家教団

すべての本部職員、幹部、信徒に告ぐ!

古森輝佳氏論文

 
森で滅びる生長の家教団 

すべての本部職員、幹部、信徒に告ぐ!

  森のオフィス批判については、本誌 12 月号で山脇章一郎氏が既に、三つの観点から論じておられる。
  そして、その最後に「今、森のオフィスをくいとめないと、生長の家は組織的にも財政的にも、もちろん教えも崩れ去る」と警鐘を鳴らしているが、実は二月末の代表者会議において、教区幹部に森のオフィスの建設地(山梨県北杜市)及びその全容が詳しく説明され、教団内に大きな激震が起きはじめているようである。すなわち、生長の家教団はついに滅亡への滑走を始めてしまったわけである。
  では、何故今回の森のオフィス移転が教団滅亡の道となるのか、山脇氏の論と重複するところもあるかと思うが、改めて論ずる。

(一) 森のオフィスは職員の保養地か

 現在、教団内部では、
@いかに建設定地の自然環境が恵まれているか、
A県や市などの地元から歓迎されているか、
B自然と共生することの価値
等が声高に叫ばれている。
  まず、建設地は、山梨県北杜市の北側の一角だが、聖使命新聞に掲げられた風景図面を見る限り、八ヶ岳山麓の中といった方がよい。標高 1300 メートル台で、人間が住める北限だそうである。
  それはたしかに自然は豊かで、眺めもいいに違いない。近くに山荘を持つ谷口雅宣氏のように、たまに山荘に行って、田舎暮らしの気分を味わう程度ならいい所かもしれない。


北杜市付近の清里近くの風景(ホームページ担当掲載)

  が、約7万平方メートルの土地を購入し、そこにオフィスを建て、さらにおよそ二OO人の職員と、その家族が住む住宅地を北杜市内に別に建てるとなると、自然環境に恵まれているとか、景色かどうかなどというのは、まさに人間中心主義のエゴイズムであって、ここに生息する自然、とりわけ動物たちにとっては、はた迷惑もいいところである。
  現在、八ヶ岳南麓には、シカ、カモシカ、イノシシ、キツネ、タヌキ、サル、リス、イタチなど、多くの動物が生息しているが、いずれも近年の住宅地の建設ラッシュ等で生息地が狭められ、特に里山の代表的動物であったタヌキは、交通事故や生息適地の激減により、南麓では風前の灯火状態だという。
  さらにシカ、イノシシ、サル等は生活領域が狭まる中で、食べ物を求めて農家付近に出没し、農作物を荒らすとして、駆除の対象になりつつある。広大な敷地にオフィスが建てられるということは、さらに動物たちの領域を脅かすわけで、雅宣氏が山荘でハチの巣一つにどうしよう、こうしようと心悩ますのとはわけが違う。

 生長の家教団は[景色がいい]「自然豊かな」ところに職員を住まわせ、動物を駆逐するのか。他の団体等が「われも、われも」と入ってきたとき、当然、歓迎の側に立つのであろう。その時、八ヶ岳南麓の自然や動物たちの運命はどうなるのだろうか。

(二)住民の期待に応えても、信徒の願いには応えない

 教団内では、今回の森のオフィス建設地を公表すると同時に、さかんに地元の市長や住民に歓迎を受けていると宣伝するようになったと聞く。
  それはオウムなどと違って、生長の家は殺人兵器を作ったり、怪しげな装束に身を包んだりしているわけではないから、安心はされているだろう。その上で地元住民が期待しているのは、むろん生長の家の布教活動ではなく、地元のグループに加わって、森林での環境保全活動に労力を提供してくれることにある。
  当然、生長の家としても、森の中のオフィスの「活動指針」の(3)に「生物の多様性保全のための地域社会との協力」を掲げている通り、その活動を展開していくことになるだろう。
  森林保全には、伐採や刈り払い、開墾、薪・ほだ木原木・腐葉土つくり、不要な幼木の活用等々、様々な活動があり、専門の林業従事者だけでなく、いわゆる「森林ボランティア」と言われる人も多く活動している。が、そこにはいろいろ問題点もある。
  たとえば、ボランティアの多くは、自然と親しむことが目的であり、「興味本位にちょっと参加」する程度では、最初は新鮮だった山仕事も、毎回同じでは飽きがきたり、作業に難渋してうんざりしたり。交通費や道具代、そして保険なども馬鹿にならず、長続きしない。
  一方で受け入れた森林・農地所有者にしてみても、まず自分たちの(かつての)生業の場でレジャー気分で作業をされることに違和感を持つ。しかもボランティアの未熟な技術では、鎌の使い方一つも危なっかしくて見ていられない。逆に良い木を傷つけられたり石垣を壊されたら大変だし、怪我などされては責任を問われかねない。

 そう考えると、生長の家が団体でやってきて、ボランティアではなく、そこの住民となり、購入した土地の森を、自己責任で整備・保全してくれるのであれば願ったり、かなったりであろう。
 が、もはやボランティアではない、生長の家の職員達は、これまでの業務をしつつ、どれだけ片手間で、そのような作業を修得・実践していけるのであろうか? ひょっとすると定休日や祝祭日も、「献労」に励むこととなるのではないか。
 職員自身の生活としては、半ば自分で選択した道だからそれでよいかもしれない。しかし、それが聖使命会費をはじめ様々な献資によって教団を支えている信徒が本部職員に期待することだろうか。

 まして、オフィス構築にはおそらく百億円近い資金が必要となる。
 それだけの資金があれば、生長の家の職員が貢献するくらいの八ヶ岳の森林作業にプロを雇い、さらに余ったお金で、いくらでも他の環境保全や布教活動に資金を投ずることができるではないか。今の原宿本部のままで、である。

(三)自然と共生することの強制

 さて、ここまでの論だと、雅宣総裁を信奉する人々は「本部職員が率先して、自然と共生する見本を示すことが大切だ」と言うであろう。  が、ここに最大のからくりというより、森のオフィスの罪がある。「罪とは包み隠すこと」とは、まさに吾等が教えられているところである。
  もう一度言う。森のオフィスには百億近い、あるいはそれ以上の資金を必要とする。それだけの金を動かして、初めて雅宣氏の理想郷は実現するのである。
  森の中にオフィスを構え、生活し、率先垂範しているのだと言って、では果たして、どれだけの人が同様のオフィスや生活の場を持ちうるだろうか。もちろん、前述の通り、それに習って多くの人が大挙してきたら自然は破壊される一方なのだが。
  現実にはほとんどの人が都会の中で暮らしているのである。ならば、本当の率先垂範とは、都会の中で環境によい生活をしてこそ、成り立つものではないか。
  では、率先垂範とはならない森のオフィスとは何か? 先月号で加藤賢一氏が書いていたことにならえば、それこそ選ばれた人達、セレブのための別荘生活に他ならないのである。

 一方、本部職員達は、そんな交通の便が悪いところに行って、どうするのかと思いきや、電気自動車で送迎つきなんだそうである。電気自動車は一台三〜四百万はする。電気で動くといっても、その自動車そのものは自然エネルギーでできたものではない。その一台作るためにどれだけの CO2 が排出されていることか。
  しかも、広大な土地を買い求めながら、職員の住宅は、さらにまた別の土地に建てるんだそうである。いやいや、まったくもって、文化的なというか、高くつく森への移転である。
  谷口純子・白鳩会総裁は自身のブログで、「都会の生活は便利で、欲しいものは何でも手に入れることができます。けれどもそのような生活が、人間の欲望を限りなく駆り立て、その結果として、現代の地球温暖化の問題を引き起こしました。(中略) だれかが、どのような生活をすることにより、新しい文明を生み出していけるのかという、モデルを作らなくてはなりません」
  と記している。しかし、今の生長の家のやり方は、都会の文明に抗するふりをしながら、実は電気自動車、リニアモーターカー、インターネット…まさに、それら文明の利器を田舎に持ち込み、自然の中で快適な生活を送る(…と職員に見せかけている)ことでしかない。

 「新しい文明を作る」というが、大方の信徒、国民は、田舎だろうが、地方都市だろうが、大都市だろうが、みんなそこにへばりついて生きている。その人達の諸々の悩みを、直接中に入っていって救つていくのが、宗教の本来の使命ではないのか。
  最近の生長の家の会議では「愛の共同体」なる言葉が語られているそうだが、生長の家はこのままだと本当に、山にこもる「イエスの方舟」の如き教団に堕落していくだろう。

(四)本部職員、幹部、信徒よ 目を覚ませ

 思い起こせば、三機関誌、四普及誌の両軸体制、組織の会員化、講習会運動の骨抜き、意味のない国際本部と日本本部の区別と、言葉だけ残った国際平和信仰運動……現総裁が始めたこれらの運動は、組織の弱体化を招いただけで、ことごとく失敗に終わっている。
  しかも、なんらの総括もなされていない。今また「直下の指導」やら「小規模単層伝達」やら、ややこしいことを言われて、多くの教化部長が悩んでいるようだが、「森のオフィス」こそは、その一連の教団内部破壊策の集大成なのである。

 聞けば、このたびの代表者会議では森に対する質問がほとんどなかったそうである。関心がないのか、あきらめムードなのか、いずれにしろ、誰も期待していないのである。
  先の谷口純子氏のブログには、「私たちは好んで森に行くわけではない。信仰が試されている」ともあるが、四分の三は当たっている。好んで行くわけではない、はまさにそうだし、「信仰が」を「現総裁に対する個人的信奉」と言い換えれば、当たっていなくもない。後は今の不況の中、残りの給料のために、家族を連れて、或いは残していくのであろう。
  それに対して、谷口総裁夫婦は子供を連れて行くのか。新文明のモデルとなるならば、自分たちの子供にこそ、その担い手として範を示させるべきではないか。が、谷口夫婦はとりまきである職員には自然との共生を強制しつつ、可愛い我が子には都会で遊び暮らさせている。もっとも兄弟とも調和できないでいる現総裁が子供にそんな信仰教育など期待できようはずもないが。

 また、谷口総裁夫婦は、それだけ都心から離れたところに「範を示す」と移転するからには、もう飛行機や新幹線を利用しない決意なのだろうか。まして海外に出かけることなどないと言い切れるのか。
  もしも、そうでないならば、やっぱりそれはセレブのその場だけの田舎暮らし志向でしかない。ならば、その 100 億近い巨費を、田舎どころか、日本に帰ることさえままならぬ、拉致被害者救出の資金としたらどうか。

 北朝鮮、中国、韓国…そうした近隣諸国の問題となると、総裁は「それは現象であって、まずは吾々の見方を変えるべき」というような唯心所現論を持ち出す。ならば、地球環境もまた「温暖化、温暖化」と叫びすぎない方がよいではないか。まさに「環境」は「心の現れ」ではないのか。
  つまり、谷口雅宣氏は全てが自己中心、自己撞着、矛盾の帝王なのである。

 すべての本部職員、幹部、信徒は、今こそそのことを正視するべきである。
 




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