平成15年11月号

『法燈継承(?)の怪
 


副総裁に問う   『法燈継承』(?)の怪

─神を冒潰し、谷口雅春先生、清超先生を裏切り、信徒を欺くことなかれ─

 本年七月十六日、都内TFTホールで本部講師・本部講師補対象の「生長の家教修会」が開催された。その概略は「聖使命」新聞八月一日号で報じられているが、それによれば同教修会において谷口雅宣副総裁は、「平成二年、谷口清超総裁から法燈を継承した」との衝撃的な発言をされたようである。生長の家では、今や雅宣副総裁体制が確立し、教団内部では副総裁批判など一切許されないと聞いているが、さすがにこの発言については、わが目を疑われた方も多かったのではなかろうか。それは当然であって、副総裁による「法燈継承」など、絶対にあり得ないことだからである。
  そこで以下その根拠をあげ、副総裁のこの発言が神を冒涜し、総裁と我ら信徒を欺くものであることを明らかにする。読者諸賢におかれては、雅宣副総裁のいう「法燈継承」が真実か、それとも我々の批判が正しいのか、予断と偏見を排し、良識をもって判断して戴きたいと思う。

一、平成二年、谷口雅壇副総裁が「法燈を継承」?

 先の「聖使命」新聞によれば「先生(谷口雅宣副総裁)は、ご自身が平成二年十一月の副総裁就任時、総裁先生から法燈を継承されたことを明らかにされ(た)」とある(五段目)。つまり副総裁は並み居る本部講師・本部講師補を前に、自らが生長の家の「法燈を継承」したことを明言されたわけである。しかし、もしそれが事実であるとするならば、なぜ副総裁はこれまで十三年間もの永きにわたって、そのような教団の在り方そのものにかかわる最重要問題を、秘匿し続けてこられたのであろうか。また、谷口清超総裁もそのことを何故、一切口外されなかったのであろうか。最も理解に苦しむところである。
  また、仮に「法燈継承」が事実であったとすれば、教団にとって最重大事の発表である以上、当然トップ見出しで大々的に報道するのが自然である。にもかかわらず、「聖使命」新聞には何の見出しもなく、特別記事の扱いもなされていないから、教修会に参加していない大多数の信徒は、そのような重大事があったこと自体に気がつかないでいる、というのが実状ではなかろうか。他の人事であれば、見出しを付け、写真入りで報道するのに、なぜそれをしないのか。

二、谷口清超総裁は「法燈継承」につき一切明言されていない

 前述のとおり、谷口清超総裁が雅宣副総裁に「法燈を継承」されたなどと言われたことは、これまで一度もなかった。しかも今回、雅宣副総裁が教団幹部の居並ぶ前で「法燈継承」の事実を宣言するという、教団史上きわめて重要な場面に、肝腎の谷口清超総裁と恵美子夫人のお姿は見られなかった。つまり雅宣副総裁が「法燈を継承」したというのは、あくまで副総裁の一方的な言い分であって、谷口清超総裁が直接明言されたわけではない。つまり副総裁が「法燈を継承」したということについては、雅宣氏の発言以外に、何も証拠が存在しないことになる。
  総裁・恵美子夫人ともにご健在であって、このような重要な教修会を欠席される理由はまったく考えられない。にもかかわらずこの会に出席されなかったのはなぜか。あるいは欠席されたのではなく、副総裁が総裁ご夫妻の出席を阻止し、総裁の不在のもと、勝手な発言を行ったのではないか。そしてこの発言に対する信徒の反応を密かに窺い、もし信徒から疑問や批判が出てこなければ、それを奇貨として、「法燈継承」を既成事実化してしまう。そのような目論見さえ透けて見えてくる。もしそうであれば、それこそ教団の私物化であり、「雅宣教」の旗揚げということになろう。それにこのような重要な教修会が、なぜ本部以外の、それもよりによって宗教的雰囲気の微塵も感じられない観光地(お台場)で行われたのか、その真意を疑うものである。

三、「生長の家教規」に照らせば、副総裁の「法燈継承」などあり得ない

 教団の憲法とも言うべき「生長の家数規」には、「総裁の任期は終身とする」(第十条一項)と明記されている。したがって谷口雅宣副総裁は、たとえ「総裁代行」として事実上全権を把握していようが、その地位はあくまで「副総裁」にとどまり、「総裁」ではない。他方、教団の前理事長の黒河内潤氏は、先の教修会において副総裁を前に、「総裁」こそが「法燈継承者」であることを明言したという。黒河内氏といえば、副総裁の忠実な代弁者であり、『生長の家相愛会』誌上で再三、本会を名指しで誹膀中傷してきた御仁であるが、その黒河内氏でさえ副総裁の面前で、「総裁」こそが「法燈継承者」であると述べたことになる。そしてこれは、同氏が副総裁をもって「法燈継承者」ではなく、あくまで「法燈を次に継がれる方」と言っていることと完全に符合する(『生長の家相愛会』本年五月号。ちなみに、これは黒河内氏の昨年十一月の講演筆録である)。
 「生長の家数規」では「総裁」は終身であり、しかも「総裁」が「法燈継承者」であることは、黒河内氏の言をまつまでもなく、信徒周知の事実である。つまり「総裁」と「法燈」は一体である。とすれば、「教規」上総裁でもない雅宣副総裁が「法燈を継承」した、つまりすでに「法燈継承者」となられたなどということは、理論的に絶対にあり得ぬことであって、副総裁の発言は黒を白と言いくるめるものである。

四、谷口清超総裁から雅宜副総裁への「面授」も、証拠は一切存在しない

 また黒河内氏は、先の『生長の家相愛会』誌上で、生長の家では「法燈の継承」は「面授」によって行われると述べ、教修会でも同様のことを話したという。他方、同氏によれば、「法燈」には二つの意味があり、一つは「真理そのもの」、もう一つは「法燈継承者」を意味するというから、「法燈が面授される」という場合の「法燈」とは「真理そのもの」を指すと考えられる。しかし黒河内氏の話では、谷口清超総裁から雅宣副総裁に対して「法燈」つまり「真理そのもの」が「面授」されたという「証拠」は、何も示されていない。(ちなみに教修会では、雅宣氏自身が「平成二年に法燈を継承したことは、自分も知らなかった」と語っているそうであるから、これは「面授」などなかったことを告白しているに等しい)
 ただ、黒河内氏によれば、現総裁が「面授」によって次期総裁を決定されることが法燈継承の理想であって、生長の家では、それを実際に行っているとのことである。これを聞くと、あたかも谷口清超総裁から雅宣副総裁への「法燈の面授」がすでに行われたかの如く錯覚するが、これも明らかにまやかしである。と言うのは、「次期総裁の決定」と「法燈そのものの継承」とは別であり、これまでに行われたのは「総裁の継承者(厳密に言えば『単なる次期総裁候補者』)つまり「副総裁」の決定だけであって、「法燈そのものの面授」ではないからである。総裁から雅宣氏に「面授」(?)されたのは、「副総裁」に任ずるとの「告知」だけである。
 黒河内氏といえば、先の『生長の家相愛会』誌上で、何の根拠もないまま、雅宣氏が総裁先生(清超先生)から「悟りを得ている方であると認められて(云々)」と述べ、あたかもすでに総裁から雅宣副総裁に対して「真理そのもの」の「面授」があったかの如く述べた「前科」の持ち主である。事実、同誌上において、黒河内氏は、谷口雅春先生から清超先生への「面授」については、雅春先生のご文章を明示し、証拠をあげて「面授」があったことを説明しておきながら、清超先生から雅宣氏への「面授」(?)については、その証拠は何一つ示していない。にもかかわらず、黒河内氏は「生長の家数規」第十条に「総裁の生存中、その後継者に決定されたる者を副総裁と定む」とあることをあげ、それだけであたかも「面授」がなされたかの如く強弁している。これは神を冒涜し、総裁と信徒を欺くものである。
 ついでに言えば、同氏は「法燈継承者に対する中心帰一の信仰こそが正しく神想観を行ずるための前提である」と述べている(『生長の家相愛会』本年九月号)。であるならば、現法燈継承者であられる谷口清超総裁を軽視し、ひたすら雅宣副総裁に阿諛追従している黒河内氏が正しき信仰者であるとはとても言えまい。氏の言う「野狐禅」とは、まさに黒河内氏のごとき御仁にピッタリの言葉であろう。

五、谷口清超総裁による「総裁法燈継承日記念式典」とは、一体何だったのか(?)

 尊師谷口雅春先生がお亡くなりになったのは、昭和六十年六月十七日である。そしてその五ヵ月後の十一月二十二日、雅春先生ご生誕の日に総本山住吉本宮で行われたのが「生長の家総裁法燈継承祭」であった。
 谷口清超先生による「総裁法燈継承」の経緯は、「新編聖光録』(二八九〜三〇一頁)所載の「法燈継承の辞」に示されているとおりであるが、谷口清超新総裁は全国から参集した数千人の信徒であふれる顕斎殿に於き、生長の家大神の前で厳かに誓詞を述べられている。そしてその誓詞の結びは、招神歌四首についで宇宙浄化の祈りがあり、第三首目は「住吉大神御神徳を蒙らしめ給ひて生長の家総裁の法燈を継がせ給ふ アオウエイー 気合」となっている。
 また雅宣副総裁が「法燈を継承」したという平成二年以降も、毎年秋の記念日の「総裁法燈継承日記念式典」はずっと続けられているが、同式典における「総裁法燈継承詞」には、「谷口清超 畏み畏み白さく(略)慎みて生長の家総裁法燈継承の儀厳しく仕奉らん(云々)」とある。これは谷口清超先生こそが法燈の継承者であることの何よりの証拠である。
 さらに「総裁」と「法燈」が一体である以上、絶対考えられない事ではあるが、仮に副総裁の言うように平成二年、清超先生から雅宣氏に「法燈が継承」されたとするならば、少なくとも「総裁法燈継承詞」の中に雅宣氏の名前が出てくるはずである。しかし、そのような事実は一切存在しない。
 このように、「法燈の継承」は「総裁の継承」と不可分一体であり、しかも「法燈の継承」に際しては事柄の重要性に鑑みても、当然、厳粛な「法燈継承祭」が行われなければならないはずである。にもかかわらず、雅宣副総裁による「法燈継承」(?)なるものは、「教修会」の「まとめの講話」の中で簡単に触れられただけで終わっているという。これが厳粛の中にも厳粛であるべき「法燈の継承」であると、誰が素直に信じられようか。

六、雅宜副総裁による「教団の私物化」「乗っ取り」を許すなかれ

 雅宣賞副総裁による「法燈継承」発言の意図が奈辺にあるかは、もはや明々白々であろう。副総裁による今回の発言は神を冒涜し、尊師谷口雅春先生、谷口清超先生を裏切り、我ら信徒を欺く言語道断の放言、否、虚言である。そしてその発言の目的は、資格も天分もない者による教団の私物化であり、乗っ取りである。痛ましく、おぞましく、涙も出ない教団の現状──。「在天の尊師は・・・」と改めて思う。
 この雅宣副総裁の野望を打ち砕き、生長の家教団の実相を顕現するため、今こそ、心ある同憂諸賢の勇気ある発言と行動を衷心より願って止まない。
 




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