『機関紙』平成21年12月号に掲載された
「聖経、『生命の實相』の出版問題について」
の本部見解の暴論を糾す
出版部
生長の家教団機関誌三誌の平成 21 年 12 月号に教化・講師部長、目等泰夫氏名で「聖経、『生命の實相』の出版問題について」なる題名をつけた「教団本部の見解」が掲載されました。
この文書は、左翼団体がアジ宣伝ビラなどによく使う品位のない言葉が並び、明らかに事実と異なる内容で埋め尽くされ、法的批判にも全く耐え得ない稚拙な論が展開されています。
また、本部退職者の「挨拶状」である私信までも勝手に公けにし、これに攻撃を加えています。墓を掘り返して死体に鞭打つ如き行為を見るにつけ、神聖な「人間・神の子」の教えを説く高貴な「生長の家教団」はどこに行ってしまったのかと歎じざるを得ません。
このような文書を黙って見過ごすことは出来ません。一年前の本誌平成二十年十二月号で「『生命の實相』神道篇出版に関する本部見解」に対する反論を掲載しましたが、今回も正しい事実関係と本部見解の誤りを糾したいと思います。
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第一部
何故、かくも裁判沙汰が続くのか?
その背景にある根本問題を剔抉(てっけつ)する! |
●信徒、誌友の切実な叫び 「どうしてこうも次から次と裁判沙汰が起きるんですか? 生長の家は大調和を説く教えではないですか。『機関誌』平成 21 年 12 月号の記事を見て、もううんざりです。しかも今回は谷口恵美子先生まで捲き込んで…。やりきれない思いでいっぱいです。」
こんな感想がそこここから耳に入ってくる。しかし、信徒、誌友の切実なこの叫びも、結局は教団中枢には届かないのであろう。
今回の『機関誌』 12 月号に掲載された「聖経、『生命の實相』の出版問題について」の記事でもそうだが、教団側は事の本質が何も分かってはいない。要は、冒頭の信徒の感想にあるが如く、何故、かくも裁判沙汰が続くのか、この一点につきるのだ。
言うに事欠いて、「こういうのは代替わりにはつきもののことだから」と見て見ぬふりをする向きもあるが、ならば二代目の総裁継承のとき、かかる裁判沙汰があったか。何もなかったではないか。三代目が実権を握るようになってからばかり。結局、すべては三代目・マサノブ現総裁のその左翼的思想、権力者気質を抜きにしては語れないのである。
●マサノブ総裁の裁判好き
そもそも、マサノブ総裁の裁判好きは、蔡焜燦氏著『台湾人と日本精神』の出版事件をもってその嚆矢とする。当初、日本教文社より出版され、谷口清超先生も推奨されたこの良書。それが突如、日本教文社取締役会で販売中止の決定が下されたのである。先の記事中、「生長の家社会事業団の横暴」という文言が出てくるが、横暴を使うなら、こういうのを「横暴」というのである。
それに関与したのが、マサノブ総裁にほかならない。それが証拠に、現総裁は当時、大略、次のように記しているからである。
「日本精神は今や”死語”である。最近、台湾においてはこの本が『政争の具』の観を呈して来た。それは、この本が『台湾独立』を明確に支持しているからである。…現代日本で『日本精神』を賞揚する人の中には、不快な騒音を出したり恐喝や恫喝を得意とする人がいる事も事実である。」
要は、マサノブ総裁は「右翼」が嫌い、それをイメージさせる「日本精神」も嫌い、そういう本が日本教文社から出版されたことに我慢ならなかったのである。事実、それからというもの、日本教文社からは「愛国書」と呼ぶべきものが出版せられなくなったではないか。
そして、次に起きたのが、現総裁の姉・寿美氏の夫である宮澤潔氏が代表を務める生長の家オーストラリア法人の独立問題を巡っての裁判であった。表面上、人事問題、退職全問題等、そこには色々な絡みがあったが、その本質を辿れば、これまた生長の家の教えとは何か、それをどう見るかの違いに帰結するといってよい。有り体に言うならば、宮澤夫妻は、その共著『谷口雅春師に捧げる誓いと信仰』に明らかな如く、生長の家の教えとは、谷口雅春先生の説かれた教えであるという立場である。
ところが、現総裁は、「生長の家=谷口雅春先生ではない」、言うなれば「生長の家大神─総裁・副総裁─御教え」の中に開祖・谷口雅春先生は含まれないという立場なのである。これによれば、生長の家の教えは、時の総裁が説くそれなのであって、谷口雅春先生の説かれた教えすらも、時の総裁が認めたものしかゆるされないということになってしまう。谷口雅春先生のご著書が次から次と絶版処分にせられたのも、まさしくかかる立場に依っているからにほかならない。
●教えの中心となる神示講義「教の巻」も絶版処分
驚くべきことに、それは『神示』すらもその例外ではなかったのである。例えば、『神ひとに語り給ふ』が そうである。その「はしがき」には『本書は生長の家発祥以来の神示のうち最も教への中心となるもののみをあつめて「教の巻」としたのであり』とあるように、生長の家の教義を知る者にとって、これは決して外せないものの一つであるはずである。生長の家の教えの代名詞ともいうべき「大調和の神示」についての講義もまたここに収録されているのだから…。ところが、その本すらも絶版処分の憂き目にあってしまったのだ。
何故か、本書の中に「大東亜戦争の意義」と題して、次のように記されているからである。
「私は別に戦争を謳歌するといふわけぢやないのですけれども、起るべくして起つてゐるものを、日本民族の侵略だと言ふのは間違なのであります。」(同書二九四頁)
これが「侵略論」を採る現総裁にはゆるせなかった。だから、たとえ「神示」であろうとも、自分の考え、思想に合わない、不適切と判断されたものは世には出さないということにしたのだ。自分の考え、思想が「神示」に優先する。いわば、人が神の上に立ったのだ。これを傲慢と言わずして何と言おう。結局、それこそ、言うところの”今の教え”のまぎれもない正体にほかならないということなのだ。
●今の世に谷口雅春先生の教えを甦らせたい
このままでは、谷口雅春先生の説かれた真理がそのままの形では後世に残されない。実際、現総裁が実権を握ってからというもの、谷口雅春先生の新刊書が発行されたことがあるか。発掘すればいくらでも谷口雅春先生のご本を世に問うことができるのに、一切、それに着手しようとはしないではないか。谷口雅春先生の講話テープ、ビデオだってそうだ。出そうと思えばいくらでも出せるのに、まさしく「宝の持ち腐れ」状態に捨て置かれたままではないか。実は、当初、谷口雅春先生が神去りました後も、先生のご著書を出していくことは一つの取り決めになっていたのだ。
ところが、そんな取り決めもいつしか反故にされ、谷口雅春先生のご本はわずかに復刊本として出版されるだけとなった。このままでは、谷口雅春先生がどんどん忘れ去られてしまう。人類を救う、偉人な教えがこのまま、現総裁の下で、眠らされてよいのか。
そういう切羽つまった思いから、何としてでも谷口雅春先生のご著書を世に出し、魂の救済に着手しなければならない。その思いが結実して、先には『生命の實相』神道篇が出されたのだし、この度は『生命の實相』や『甘露の法雨』をはじめとする聖経のリニューアル版が誕生しようとしているのである。すべては、谷口雅春先生を今の世に甦らせなくてはならないという切実なる思い、やむにやまれぬ思いがあってのことなのである。
●『生命の實相』が蔑(ないがし)ろにされてきた事実
先の『機関誌』の記事は言う。「生長の家の宗教上の最高規範である『生長の家教規』第二条には、生長の家設立の目的について『谷口雅春創始の、生長の家の教義に基き、その主著『生命の實相』を鍵として、万教共通の宗教真理を開示し、これを宣布することによって、人類光明化につくすこと』と明記されています。『生命の實相』は生長の家の聖典等の中で基本的な聖典であるだけでなく、現在も講師試験問題の出典や研修会等のテキストとして使用されていることは周知の事実です。聖経および『生命の實相』の出版は、生長の家の信徒の信仰生活や布教活動の基本となるものであるため、当法人も日本教文社もそれを蔑ろにしたことなどありません。」
そこまで言うならば、何故、
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教区における「生命の實相勉強会」にクレームをつける? |
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わざわざ「『生命の實相』だけが聖典ではありませんから」と言う必要が何処にある? |
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運動方針から『生命の實相』全読運動を外したのは何故? |
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・『生命の實相』がそれほど重要な聖典というならば、『生命の實相』がもっともっと多くの人に読まれるよう、尽力するのが本筋ではないのか? |
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日本教文社内部で何度も『生命の實相』頭注版のリニューアル化か企画されても、その都度握り潰されてきたのは何故なのか? |
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講師試験についてもそうだ。受験者に直に聞いたらいいではないか、『生命の實相』と現総裁の書物、どちらを優先して勉強しているか? |
を。言っていることと実際にやっていることとが全然、違うのだ。それがはっきりとしたからこそ、現教団と日本教文社は見切りをつけられたのだ。
●創始者、谷口雅春先生のご意向を
尊重しない現教団、日本教文社
また、『機関誌』の記事はこうも言う。「『生命の實相』をはじめ谷口雅春先生の著作物は、…出版その他の利用は一切、谷口雅春先生のご生前中は谷口雅春先生の、そして谷口雅春先生のご昇天後は、宗教法人「生長の家」の指示に従って行われてきました。これが生長の家グループの”よき伝統”であり、創始者、谷口雅春先生のご意向を尊重した出版のあり方として、事業団も合意していたところです。」
その”よき伝統”が何故、崩れたのか?「創始者、谷口雅春先生のご意向を尊重した出版のあり方」から「現総裁のご機嫌ばかり伺う出版のあり方」に変わったからこそであろう。本来の姿に戻れば、何もこんな裁判沙汰など起ころう筈もなかったのだ。
何度でも言おう、すべての問題は、現教団がそして日本教文社が「創始者、谷口雅春先生のご意向を尊重」しない団体、会社に変質してしまったところにこそあると。
●「谷口雅春先生の教えを広めたい」吾らの覚悟
それがわかっていて、何もしない。ただ拱手傍観、座視して悲憤慷慨するだけだとしたら、それは谷口雅春先生に救われた大恩ある者にとっては、一種の忘恩行為にも等しい。
『新版 真理』第九巻にはかくある。 「肉体の病気を治そうと考えるよりも、魂の病気を治そうと心掛けよ。肉体の病気は肉体が死んでしまったら無くなるのであるから百年も続く病気はない。魂の病気は肉体が死んでも無くならないから永遠につづくのである。だから宗教で救われようと思う人は、先ず魂の病気を消したいと云う念願に燃えなければならないのである。而も宗教に来て肉体の病気を治して貰いながら、肉体の病気が治ったら用が済んだと、恩を忘れて”魂の病気”を背負つたまま去って行く人があるのはまことに気の毒である。”恩を忘れる”と云うことは”魂の病気”のうちでもすこぶる悪質の重病であるのである。肉体の病気の治ることを求めるよりも先ず”魂の病気”を治せ。報恩と感謝行とは、忘恩と云う”魂の病気”を治す特効薬である。」( 333 〜 334 頁)
しからば、何が「報恩と感謝行」となるか。それは自らの手で、谷口雅春先生の説かれた教えを広めるほかはない、そう覚悟して立ち上がったのである。
●現教団の恐怖の真実
それに対して、現教団と日本教文社は裁判沙汰にしたりして様々な掣肘(せいちゅう)をくわえてきた。けだし、このまま谷口雅春先生の書が世に広まれば、自らの”今の教え”の浅薄さが世間に露見される。”今の教え”が如何に谷口雅春先生の説かれた真理とは根本的に違っているか、それが明らかとなる、それへの恐れがあるからであろう。
それが証拠に、現総裁は今、身辺警護に余念がないというではないか。よし、現総裁に「正義」を貫いているという自信があれば、必ず神が守護し給う、何も身辺警護に神経をすり減らす必要はないはずではないか。どこかに、自分は谷口雅春先生に弓を引いているという思いがあるからこそ、常に不安、恐怖がつきまとうのだ。
その辺の心理状態を『生命の實相』第 38 巻は次のように言う。
「恐怖はすべて把む心であり、物を把むのである。溺(おぼ)れるものは藁(わら)をも把む。恐怖すれば手に汗を握る。(握るは把むである。)すべての心が元であって、恐怖する念が起これば全身にその形があらわれるのである。(中略)
われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。他を釈すことのできない者は「尻の穴の狭い者」であり、他を害する心あるがゆえに、自分自身をも他から害される恐怖があるのである。(中略)いやしくも人を釈さず、やっつけてやろうというような考えを起こしてはならな いのである。他を傷つける心は自分を傷つけ、他を愛する心は自分を愛することになるのである。」( 150 〜 151 頁)
現教団も、そして日本教文社も、いいかげん「放つ」心になってはいかがか。谷口雅春先生の教えをあなた方に代わって、広めようとただ尽力しようとしているだけのことではないか。
どちらが本当に人の心を、魂を救済する力があるか。『生命の實相』かそれとも”今の教え”か。いい意味で競争し、互いに切磋琢磨していけばいい話なのだ。裁判に持ち込み、裁判官の裁きに委ねるより、その判定を信徒、市井(しせい)の人々に託する。それこそが最も信仰の道にも叶うのではないかと思うのだが。
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第二部
哀れ!生長の家教団
法を無視、曲解した断末魔のもがき |
一、「著作権」についての無知と曲解
「著作権」とは、著作物を創作した著作者の権利のうち人格的な権利以外の、複製権・頒布権等のすべての財産的権利を総称したものである。(著作権法第一七条第一項)
従って、著作権者は、自ら直接にその権利を行使することもできるし、他の者(出版社等)に許諾して利用させることもできる。今回の機関誌が「生長の家の布教活動にとって基本となる聖典で極めて重要なものであり、同事業団に著作権が譲渡されたのは同事業団に『生命の實相』を出版させるためでなく著作権収入を同事業団の社会厚生事業の運営費用に充当させるためでありましたから」などと言い、著作物の著作権者は著作権収入を受け取る権利しかないと強弁するのは、法を無視した曲解にすぎない。
なお、「著作物」は、思想又は感情の創作的表現であるから、精神的かつ客観的な実体を内容とする「無体物」であって、不動産や動産等の「有体物」とは異なるのである。(「著作物」と、その「媒体」とを混同しがちであるが、これは誤りである。例えば、ある文芸作品の同一内容が、雑誌、単行本、文庫本等の異なる「媒体」に掲載されても、異なる著作物となるのではなく、著作物としては単一である。)
著作権法では、著作権を侵害した者に対して、最高五年以下の徴役又は五百万円以下の罰金(法人の場合は三億円以下の罰金と代表者等の個人にも懲役等を併科)を科すことになっている。
二、谷口雅春先生は昭和二十一年一月八日に『生命の實相』の著作権を譲渡されている
大東亜戦争の終戦直後、生長の家創始者谷口雅春先生は、戦後の日本を救う一大組織運動とする願いのもと、財団法人生長の家社会事業団設立の構想を全国の誌友に発表されるとともに、その設立を申請された。そして、昭和ニ十一年一月八日、主務官庁から正式に許可を受けて公益法人として設立された。その設立に当たり、谷口雅春先生は、『生命の實相』の著作権を、同財団法人の基本資産と指定して寄付されたのである。このことは、主務官庁への「設立申請書」、主務官庁の許可を受けて発効した「寄付行為」(財団法人運営の根本規範)、設立後に主務官庁に提出された谷口雅春先生の「証明書」にそれぞれ明記されている。
また、谷口雅春先生のご昇天後、谷口清超先生はじめ御相続人全員と生長の家社会事業団とによって、著作権法に基づき、著作権が既に譲渡されている旨の文化庁への登録が行われた。この文化庁の「著作権登録原簿」によれば、『生命の實相』の初版発行日は、「昭和七年一月一日」であり、著作権譲渡日は「昭和二十一年一月八日」と明記されている。
従って、財団法人生長の家社会事業団が『生命の實相』の著作権者であることはまったく明確であり、戦後の『生命の實相』の各巻末の奥付には、著作権者として同財団法人理事長の検印が押捺されてきたのである。また、生長の家社会事業団と日本教文社との出版契約書(昭和四十九年一月三十一日付)でも、同事業団が『生命の實相』のすべての各種各版の著作権者であることは完全に明らかである。
特に、著作権譲渡日の昭和二十一年一月八日時点における最終の『生命の實相』全集版(いわゆる黒布表紙版)には、第十六巻「神道篇」が収録されているので、生長の家社会事業団に譲渡された著作権に同篇が含まれていることは明白である。(占領軍の圧力によりやむなく神道篇が削除された戦後の新修版の発行は、昭和二十四年からである。
三、出版権も管理権も日本教文社・本部にはない
ところが、本部見解は、「これらの行為は、著作権者である谷口恵美子先生および当法人の権利を侵害し」と記載しているが、まったくの虚偽である。宗教法人「生長の家」は『生命の實相』の著作権者ではなく、谷口恵美子先生も同様である。
さらに、本部見解は、「同事業団に著作権が帰属する谷口雅春先生の著作物については、当法人に著作権の管理権があるので、同事業団は承諾なく出版権を設定したり消滅させたりすることはできない」とも記載していることも、とんでもない暴論である。
そもそも著作権者が出版社等と契約する場合、「出版権の設定」(著作権法第七九条)の場合と、「利用の許諾」(同法第六三条)にすぎない場合がある。
生長の家社会事業団が日本教文社との問で昭和六十三年以降締結したすべての出版契約(出版使用許諾契約書)は、前者の「出版権の設定」ではなく、後者の「利用の許諾」であり、しかも非独占の許諾(他の第三者へも出版許諾可能)であって、許諾期間も無期限ではなく三年間である。(当事者いずれかの終了通告があれば延長はなされない。)
従って、日本教文社には、著作権法第三章に規定された「出版権」はない。また、生長の家社会事業団は既に聖経、『生命の實相』等の出版使用許諾契約書の更新打切りを日本教文社に通告しているから、今後、日本教文社から発行されることもない。
さらに、宗教法人「生長の家」に、生長の家社会事業団帰属の著作権について、出版その他の利用を一切決定できるような「管理権」などは存在していない。公益法人の管理運営に関する法令の原則に照らしても許されないが、実際にも過去には、生長の家社会事業団理事長の委任により当時の生長の家本部理事長を代理人に選任し、日本教文社との各出版契約を一点ごとに締結するという、特定事項の委任があったにすぎない。民法上「受任者は、委任の本旨に従い、善良な管理者の注意をもって、委任事務を処理する義務を負う。」(第六四四条)のであるから、代理人は、委任者本人(生長の家社会事業団)の意思に従う義務を負い、また「委任は、各当事者がいつでもその解除をすることができる。」(第六五一条)のである。
また、主務官庁の厳正な監督を受けて、法令に基づき独立して公益事業を管理運営する公益法人の基本資産に対して、宗教法人が、包括的に支配統制する管理権を有するなどということは、断じて許されないし、そのような合意も存在していない。
四、谷口雅春先生の人格的利益を踏み躪(にじ)った者は誰か!
また、本部見解は「古事記講義」を単行本として出版することが「著者としての谷口雅春先生の人格的利益を害し」と判張しているが、著作権法の定説・確立した判例等に照らしても噴飯物の暴論である。
「古事記講義」は、先ず『生長の家』誌に連載され、また、『生命の實相』黒布表紙版に収録される前には、他の単行本(『驀進日本の心と力』等)でも掲載されているとおり、一定の完結性を有する内容であるから、その出版は、同一性保持権など著作者人格権をなんら侵害するものではない。
実際に、『生命の實相』に収録されている一部分が抜粋されて、単行本や分冊版のパンフレットになった実例は数多くある。(『生命の實相』第ニ十七巻・第ニ十八巻から抜粋発行された『生長の家とは如何なるものか─生長の家家族の祈願および修養─』等)
むしろ、谷口雅春先生の人格的利益を云々する本部見解こそ、天に唾する言動である。
谷口雅春先生が烈々たる愛国救国の悲願をもって著述された『古事記と現代の預言』をはじめとする多くの著書が次々と重版留保(事実上の絶版)となり、平成四年からは新刊書の発行も停止となったことこそ、ご生前の御意志と御悲願を踏み躪る重大な行為であり、これこそ著者としての谷口雅春先生の人格的利益を最も害するものと言わなければならない。
谷口雅春先生は、既刊本のほかにも、数多く、月刊誌等に公表された原稿やラジオ放送およびご講習で公表されたご講演の録音等を後世に残しておられる。これらの御原稿及びご講演の内容は、生長の家の信徒のみならず、後世の人類と世界にとって至宝というべきものである。このため、谷口雅春先生のご昇天後も、谷口清超先生のご監修の下、編集作業が行われ、日本教文社から毎年新刊書が発行されてきた。
ところが、平成四年、日本教文社の取締役会において、谷口雅宣氏、磯部和男氏、三浦晃太郎氏らが、突如として、今後の谷口雅春先生の新刊書発行の廃止を要求してきたのである。
これに対し、同社代表取締役社長の中島省治氏は、「総裁谷口清超先生のご意向を伺った上で、日本教文社の方針を決定したい。」と発言したが、「その必要はない。」と強圧的に、谷口雅春先生の新刊書発行廃止を決定させられた事実が、関係者からの取材により明白となっている。教えの創始者へのかかる背信的行為こそ、谷口雅春先生のご生前の意に反し、その人格的利益を害する最大の暴挙であると断ぜざるを得ない。
五、事実の隠蔽とすり替えについて
さらに、本部見解こそ、「生長の家社会事業団の横暴」などと虚偽の風説を流布して同事業団の社会的信用と名誉を一方的に毀損し、その業務を妨害する行為をしている。また、本部退職者の私信を無断で摘示し、その内容を曲解して「悪質な宣伝活動」であると公然と侮辱している。この本部見解の行為こそ厳重な処断を受けるべき悪質な違法行為である。
既に、本誌で報道されている通り、目本教文社は、『生命の實相』について、著作権者である生長の家社会事業団からの頭注版リニューアル化(新版発行)の強い要請を拒否しただけでなく、初版革表紙復刻版の印税不払いと著作権表示の改竄が発覚した後も、「同事業団に著作権はない」などと、出版契約の当事者としてあるまじき不誠実な態度をとったため、谷口雅春先生御著作物の著作権を永続的基本資産として守護する使命を有する生長の家社会事業団としては、やむをえず同社との出版契約の不更新を通知せざるを得なくなったのである。従って、一切の責めを負うべきは、日本教文社と、背後から同社を強要した者にあることは明白である。
最後に繰り返すが、『生命の實相』等について、本部見解は、日本教文社に「出版権」があり、宗教法人「生長の家」に「管理権」があるかのように書いていることは、事実の隠蔽であり、完全な誤りなのである。
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