特別寄稿
原典から照射する万古不変の真理の光
宮渾潔(生長の家オーストラリア法人
同日本本部『ときみつる會』代表) ● 原典を尊ぶこと
開祖・谷口雅春先生は御著『ヨハネ傅講義』のはしがきにおいて、《「ヨハネ伝」は福音書のうちで最も霊感的な著作である》と仰せられている。
今回は、谷口雅春先生の御著『ヨハネ傅講義』の第二十四講にそって、真理を学ばせて頂きたいと思う。
冒頭に、聖書の「ヨハネ伝」の聖句がある。
《まことに誠に汝らに告ぐ、羊の檻(おり)に門より入らずして、他(ほか)より超ゆる者は、盗人(ぬすびと)なり、強盗なり。門より入る者は、羊の牧者(ひつじかい)なり。門守(かどもり)は彼のために開き、羊はその声をきき、彼は己の羊の名を呼びて牽(ひ)きいだす。悉く其の羊をいだしし時、これに先だちゆく。羊その声を知るによりて従うなり。他の者には従わず、反って逃ぐ、他の者どもの声を知らぬ故なり》
(第十章一−五、原文は旧かな、正漢字。以下の引用も同じ)
谷口雅春先生は、この聖書の一節につきどう解釈していられるかというと、
《キリストを羊の檻から、羊を解放するための「門」に喩え、その次には「門」より引出した後、その羊を守り養う羊飼者にたとえたのである》
とお教えくださっている。そして、このように人々を羊にたとえたのは、旧約聖書にある
「主は牧者のごとくその群をやしない、その臂(かいな)にて小羊をいだきたまわん」(「イザヤ書」四十章一一節)とか、
「エホバはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ」(詩篇第二十三篇一節)などによって、”羊と羊飼い”の概念を引用されたのである、と説かれている。
このことからも、イエスご自身が原典であるところの聖書(今で言う旧約聖書)に精通していられたことがわかる、と雅春先生はご指摘になっている。
この先生のご指摘は以下に述べるように、非常に重大な意味を含んでいるのである。すなわち、神よりつかわされ、聖霊に満ちあふれていらしたようなイエスご自身が、当時、書かれてから千年以上経っていたと想定される旧約聖書、すなわち「原典」を尊重し詳しく読んでおられたということである。
「日本教文社書籍新出版方針」(平成一三年版)には、臆面もなく堂々と(谷口雅春先生の新刊書は、「生長の家」は総裁、副総裁の”今の教え”が重要であることから、引き続き発行しない》と書かれている。わずか十八年前に御昇天された開祖のみ教えが、もう”昔の教え”であるかのように教団によって公言されるような現状なのである。なおのこと「原典」の重要性を肝に銘じておかなければ御教えが掻き消される可能性は十二分にある。
本来、開祖の教えを先頭に立って護持すべきはずの教団やその出版会社が、開祖・谷口雅春先生がお書き下さった尊い聖典を、「重版未定」と称して次々と発禁処分にすると共に、「教えの普及のために出版するもの」という項目からは、谷口雅春先生、輝子先生のお名前は完全に抹消されており、その代わりに「谷口清超先生、谷口雅宣先生、谷口恵美子先生、谷口純子先生の新刊書等」と書かれている。異様な暗雲が教団をおおい、今は、まことに開祖ご在世のときには予想だにしなかった御教えの受難、危機なのだ。
このようなとき、イエスご自身がいかに聖書(旧約)を尊んでおられたかを知ることは、極めて意義深いことであろう。いくつかの例を挙げつつ、聖書にみえるイエスの範例から、教えに対する態度を学びたいと思う。
● 「原典」の真理の力でサタンをしりぞける
先ず第一に、谷口雅春先生が御著、『わが憂国の戦い』の中でも引用なさっている、かの有名な悪魔サタンとイエスの問答を掲げる。(同書九〇頁および九六頁参照)
イエスが四十日四十夜断食して修行された時、空腹に耐えておられたそのイエスの前にサタンが現れ、
「なんじもし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」(マタイ四・三)
と言って誘惑した。この時イエスは、有名な聖句を引用され《「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づるすべての言(ことば)に由る」と録されたり》と答えられた。これはイエスご自身が発案された言葉ではなく、”(聖書)に録(しる)されたり”として、「申命記」八章三節の
《人はパンのみにて生くる者にあらず、人はエホバの口より出づる言(ことば)によりて生くる者なり》
という聖句をもってサタンの誘惑をしりぞけられたのであった。
するとサタンは更に、イエスを高い宮の上に立たせて、
(なんじもし神の子ならば、己が身を下に投げよ)(マタイ四・五)と言って挑発する。
イエスは、
《「主なる汝の神を試(こころ)むべからず」》と言ってサタンの誘惑を再度退けられた。
これは「申命記」六章一六節の(汝の神エホバを試むるなかれ)から引用されてのお答えだったのである。
次にサタンはイエスを高い山の上に連れて行き、世界の国々とその栄華を見せて、
《汝もし平伏(ひれふ)して我を拝せば、此等を皆なんじに与えん》
と言って、強く誘惑した。するとイエスは、
《サタンよ、退け。「主なる汝の神を拝し、ただこれにのみ事(つか)え奉るべし」と録(しる)されたるなり》
と、やはり「申命記」の聖句をもってサタンを一喝されたのである。
すると、ついにサタンはイエスを離れ去り、天使達が来てイエスに仕えたと聖書には記されている。
現代において、「汝もしひれ伏して”今の教え”を拝せば、人間界の地位や名誉を与えん」と迫られたり誘惑されたりしたならば、何と答えるべきなのであろうか。
谷口雅春先生は、 『…そのイエスのように、ただ正義のみに仕えて、悪魔の誘惑に排脆(はいき)しない硬骨の正義漢が、日本の国に果して幾人いるであろうか。(中略)そのような正義の士のみが、現下の日本を支える”国の柱”となり得るのである』 (同書九六頁)と仰せられている。先生のこのご文章は、昭和四十六年ご執筆の当時、日本の政治家や実業家たちが、日本にとって大恩のある中華民国を見捨てて、中華人民共和国のご機嫌をとろうとして汲々としている有様を憤慨されてお書きになったものである。しかし”誘惑や圧迫に屈せず正義を貫く精神をもて”という先生のご遺訓は、時代や状況が移り変わろうとも、なんら変わるべきものではない。
● いのちあふれる開祖の教え
このようにイエスは、数々のサタンの誘惑に対してことごとく旧約聖書、すなわち「原典」の聖句をもって相対し撃退なさったのである。これはイエスが当時すでに千年を経ていた原典であるところの聖書をいかに尊び、神聖なものとしていられたかを如実に示している。
と同時に、サタン(虚説や邪説、異端─『心』誌第四八、四九号参照)を撃退するのには「原典」に記された真理の言葉がいかに強力であるかを雄弁に物語っている。
このように、真理の言葉の書かれた原典というものは、聖書にしても仏典にしても古事記にしても、決して時代と共に古ぼけて価値がなくなるような安っぽいものではない。
開祖・谷口雅春先生の書かれた聖典もまたしかりである。何千年たとうとも、少しも変わらずにその書に接する人々に光を与え続けて下さる不滅の原典なのである。
この他にも、イエスがいかに原典である聖書を深く尊んで学んでいらしたか、又そこに書かれている律法を大切にしておられたかについて、マタイ伝には次の表記がある。
《われ律法(おきて)また預言者を毀(こぼ)つ(打ちくだく)ために来れりと思うな。毀たんとて来らず、反って成就せん為なり。誠に汝らに告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、律法の一点、一画も廃(すた)ることなく、悉とく全うせらるべし。この故にもし此等のいと小き誠命(いましめ)の一つをやぶり、且その如く人に教うる者は、天国にて最小(いとちいさ)き者と称(とな)えられ、之を行い、かつ人に教うる者は、天国にて大いなる者と称えられん》(マタイ五・七−一九)
この「律法の一点一画も
廃(すた)
ることなく、悉とく全うせらるべし」というイエスの戒めと好一対の事例がほぼ時代を同じくして、古代の日本にも見られるのである。それは、神道五部書の一つとされている「倭姫命世記」によれば、かの倭姫命(天照大御神の御杖代(みつえしろ)として長年にわたるご巡幸の末、終(つい)に伊勢の地に大神宮の基を定められた、垂仁天皇の皇女。詳しくは『心』誌第四七号参照)が、童女弥奈(ねな)を大物忌み(神にお仕えする人の意)に定められたときのお二方の会話である。すなわち弥奈が、”神に仕えまつることは、左のものを左に、右のものは右に少しも違えることなく、全て厳密に、すこしも違うことのないようにいたします”と神に仕える心構えのほどを倭姫命に申し上げると、命は弥奈をめでられ、”そのとおりである。大御神にお仕えするには、元を元とし、本を本としなければならないからである”と仰せられた、と「倭姫命世記」には記されている。
尊い神または教えに対する根本的な態度というものは、洋の東西を問わず、原始キリスト教においても日本の古道においても同じであり、まことに万教は一に帰するという感を深くするのである。
ところで、イエスご自身は、聖書の律法をきちんと守れと弟子達に仰せられたのみならず、自分自身その律法を常に守っておられたのである。このことは、
《さてその育てられ給いし処の、ナザレに到り例のごとく、安息日に会堂に入りて聖書を読まんとて立ち給いしに…》(ルカ四・十六)
と新約聖書に録されていることからもわかるのである。
”例のごとく”に傍線を施したのは筆者であるが、つまり、その安息日にたまたま会堂に行かれたのではなく、”例のごとく”─いつものしきたりのように─行かれたということなのである。
さらにイエスは、「聖書に…とある句をすら読まぬか」(マルコ十二・一〇)と仰せられたり、「なんじら聖書をも神の能力をも知らぬ故に誤れり」(マタイ二二・二九)とおさとしになって、原典である旧約聖書の重要性を強調されたのである。
イエスご在世当時といえども、千年も前と比べれば当然それが書かれた時とは、時代も社会状況も大きく変貌しているはずである。しかしイエスは決して。聖書は千年も昔の時代環境に書かれたのであるから、その全てが真理というわけではない。真理とは中心部分と周縁部分があるのであって、周縁部分は時代に合わせて変化し、進化しなければならない”などとはおっしゃらなかった。このことは非常に大切である。
信仰とは、自分に都合のよいところだけを利用し、都合の悪い部分は”周縁部分”だとして切り捨てるというような、自己本位、ご都合主義の生き方ではない。自分の信ずる開祖の御教えのすべてを拝戴し、それを守るためには己の生命をもかけて行動することではなかろうか。
そして神の御言葉が書かれた真理の書というものは時代の変遷を超越して永遠に新しいのである。開祖ご昇天後さほど年も経ずして、開祖・谷口雅春先生のお書きになった数々の原典が”昔の教え”よばわりされ、隠蔽され続けている現状を信仰ある人々は嘆き憤慨している。
●開祖に祈り且つ誓い奉る
ところで、去る平成一五年十一月二十二日は、谷口雅春先生の第一一〇回のご生誕目であった。
この日、雅春先生、輝子先生に対して心に祈り、誓ったことがある。
「先生。本日は第一一〇回の御生誕の日、まことにおめでとうございます。しかしながら、第一一〇〇回の御生誕日には、さらにはるかに盛大なるお祝いを申し上げさせていただきたいと思います。その日まで、先生の御教えが埋没されることなく歪められることなくまっすぐに受け継がれゆき、日本全国はもとより、世界の各地においても、多くの救われた人々によってその日がお祝いされますように。
そしてその時には、昔をふりかえり、ご生誕一一〇回の年には御教え存続の危機があったが、今はこんなに立派に正しく受け継がれ来たったなあと、同信の人々と共に語り合い喜び合えますように。そして、先生の第一一〇〇回のご生誕日を目標に、開祖の原点にしっかりと還りつつ、開祖のみ教えを純粋に守り、開祖の御心とその理想を現代と未来に一歩一歩実現していくことができますように。
先生そして輝子先生、第一一〇〇回の先生の御生誕日の盛大なる祝賀に向って磐石の礎を築くために、どうぞ私たちの行く手をお導き下さい。 合掌」
(生長の家オーストラリア法人及び同日本本部「ときみつる會」機関誌『心』
二〇〇四年一月−二月号、「よくわかる真理」に掲載したものに加筆)
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