平成16年8月号

宮澤寿美先生特別ご寄稿

「愛する青少年のために」




愛する青少年のために

      宮澤寿美 (生長の家オーストラリア法人同・日本本部ときみつる會役員)

《エム・ワイ様
  月刊誌の編集、その他で大変ご活躍のことと拝察申し上げます。
  突然お便りをします失礼をお許し下さい。時々貴月刊誌を手にする者です。
  いつでしたか八月号の貴誌に、短い文章を載せていられました。
「海外に居て、終戦記念日を迎える度に、日本が過去の大戦で侵略し、殺害した事件を思い起こし、身がちぢむ思いがする。日本は二度とこんな蛮行をしてくれるな。」(主に南京事件と泰面鉄道労働について)また、ある号では、「今、日本は平和憲法を掲げて、過去の戦争から得た教訓を胸にしあわせなのだから、間違ってもこの平和憲法を変えたりしないように」という意味の文章があったと記憶しています。
  さらに昨年八月号には、 reconciliation (和解、調和)と題して、「日本は加害者なのだから、被害者にこそ reconciliation を言い出してもらう側で自国からはおこがましくて言い出せない」という文章をなされました。私は記事をたまたま目にして。
「この方は、同国人として私か感じたような〈痛み〉を感じていられるのだな…」
と思いました。と言いますのは、私も学校教育を受けた長い期間のうちには、これらの近代日本のたどって来た歴史を正しく理解することが妨げられていた時期があったからです。けれど、色々な意見、調査、事実に接するようになって、自分のこの感じていた痛みの半分は、故意に〈何かによって〉痛めつけられているための痛みであることがわかりました。残り半分は戦争そのもの。自国の関わる戦争からは、何人も何国人も〈痛み〉を感じないはずがありません。けれど、さらにその上に余計に加わる「知らないがために加わる痛み」や「恣意的に操作されて感じさせられている痛み」があったことに気が付いたのです。

 エムーワイ様の、心にズキンと感じる痛み…八月が来るたびに感じさせていた蹟罪感が、私のかつて感じていたそれと同じものなら、事実を知ることによって軽減することができるのではないだろうか…と思い、突然のこの便りとなりました。
  昨今、海外在住のお立場からは人手しにくい、様々な資料、報告、本が日本では発表刊行されております。日本国を日本人を、ことさら自虐的に書く昔からの風潮は後を絶たないながら、それと措抗して、これからは戦争を自分たちの手で正しく発掘し調査し、事実を曲げてまで自分たちの国を悪評しないという、次世代の教育をも含んで見据えた意見の胎動が起こっております。
  特殊事態の政権下で作成された現憲法や教育基本法も、現在の日本の内外の状況を考慮した見直しが言われるようになってきました。
  日本人が今後、各分野からの意見や調査事実をひもとき、一方的な戦後歴史教育の欠陥とその功罪に気付き、日本と世界の将来に資する前進を始める日が来るのも遠くないのではないでしょうか。》

  この文は、海外滞在数年経った時、ある日本食品店の店頭に置かれていた日本語地方案内紙に編集者名で掲載されていた記事に対して出したものだ。この手紙と共に、当時購読していた割合公平な解説の幾つかの新聞の切り抜き記事や本からのコピーなどを同封した。
  この編集者だけではなく、私たちと同世代の、また先の戦争を経験した方々をも含む多くの人が同様に、「日本は大東亜戦争で加害者だった。日本だけが悪事を働いた」との自虐に満ちた歴史観を培養されてきている。そしてその被害は今も若い世代にまで続いていることを心ある方々は憂慮している。
  戦争それ自体は悲惨きわまりなきもので、なん人も好むものではないのだが、その感情の地盤の上に、戦後、民族のルーツまでも卑下し罵倒する風潮が養育されてしまった。このことをどんなにか谷口雅春先生は御在世の頃から嘆かれていらしただろう。
  最近、雅春先生が説かれた「われらの祈願及び修養」の御文章を改めて精読させていただく機会があった。

《十一、われらは自己の好むところを他に施し、自己の好まざるところを他に転嫁せざらんことを期す。
 この「生長の家」の生き方はどこから出てくるかと申しますと、われわれの実相から出てくるのであります。自分の好まないところを他人に施さず、自分の好むところを他人に施す、これは実践道徳上の最も根本となる指導原理であります。
 生長の家では「自分に深切であれ」という金言があります。世間普通の道徳では「他人に深切であれ」というのでありますけれども、生長の家ではまず「自分に深切であれ」というのであります。キリスト教の聖書にも「己を愛するがごとく神を愛せよ」あるいは「己を愛するがごとく隣人を愛せよ」というような言葉がありますが、この聖句を考えてみますに、「己」というものが、神を愛し隣人を愛する基準になっているのであります。
 神を愛するのも、 己を愛するのも、まず「己を愛するがごとく」でありますから、もしわれわれが本当に自分を愛することができなかったならば、本当に神を愛することも、また本当に隣人を愛することもできないのであります。》
                  (谷口雅春先生著『生命の實相』第二十七、八巻)

 ここに先生は「己を愛する」ことによって「他を愛しない」という自己本位の人間になるのではなく、自らの尊厳さの自覚の上に自己の生命の延長としての他を観てその存在価値を認め愛するという、人間の本質的なあり方をお示し下さったのだと思う。
  このことは、「自と他とが一つである」という「他愛」に向けての宗教心を要求するから、全世界の人々がこの御教えを実行するならば、他に対しての無残な行為などが決してできるものではない。
  しかしながら、迎えた敗戦の中で、日本に於いて次なる命題は、戦後の日本と日本国民の行く末を、国益最優先の方法で進めねばならないと、戦後の荒廃した日本国を興して行く方々はいかに腐心されたことだろう。
  その中にあって雅春先生は、自国とそこに生れた自分を愛していくという灯をさらに高く掲げられ、信徒のみならず国民の再起を期して力強く牽引して下さった。
  敗戦という打撃によって混乱し、「国民として幸せであるべき自己」を愛するはずの青少年たちは、自己を愛せない彼らとして育ってしまった。愛の絆を、国から民族から切り離され、普通正常なら持っているはずの国への慕情も誠心も失いつつある。それは「国際人」という甘いネーミンクでぼやかされた、宗教心に欠けた気概の無い放浪者の輩出である。

 けれど、いまだ悲観して竦(すく)んでしまわないでよいのは、雅春先生の生涯を懸けてお説きくださった真理と、先生の愛国の書に盛られた日本人の魂が私たちには伝えられているし、雅春先生による御提唱の「生長の家」発祥の尊い経緯と、先生のご遺志を、しっかりと胸に刻む同志諸賢が多く健在でいられるからだ。
  今までも雅春先生の御教えを学んだ方々によって実行されて来たように、特に教育の面で、国の善さ、日本人としての誇り、気概、善き自国の歴史や偉人の話、他国に為した善行などの消されていた部分を伝えることは、日本人をして「自己を愛せない」事態に導いた負の政策の為した傷口に対する有効な「手当て」となるのではないだろうか。
  国際社会において行動する日本と日本人は、国策を見間違えることなく、他国と対等の立場と態度で外交上の処理を行い、諸国との連帯高揚に正しい心構えで向う政治面の強さの必要を感じてならない。次世代の若き日本人の行く末にもおよぶ政治、教育のなされ様に細心の注意をはらい、彼らの前途に希望と勇気とを与えるという大人たちの聖なる任務は、いつの時代も終わりというものはないのだと思う。

(生長の家オーストラリア、同・日本本部「ときみつる會」機関誌『心』から加筆転載
   『ときみつる會』連絡先…FAXO八八―八八五―九二八三
    郵便 〒七八〇−八六九一 高知中央郵便局私書箱一五九号)
 





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