平成15年8月号

天の谷口雅春先生は泣いておられる (上)

─ 「谷口雅春先生を学ぶ」誌を読んで感あり ─

「台湾人と日本精神」著者の蔡焜燦先生とのインタビュー形式でのご寄稿を三回に分けて掲載します。
蔡焜燦先生は 『台湾人と日本精神』の販売中止を巡っての裁判は最終的に和解 とされたが、 谷口雅宣副総裁(現三代目総裁)が「前面勝訴」と勝手に主張としている事に対し、正しい経緯を述べておく必要があると考えられ、ご寄稿をされました。


蔡焜燦先生 ご寄稿 (上)

  先日、ある方から「月刊谷口雅春先生を学ぶ」誌をいただき、読ませていただきましたが、「生長の家」の真の教えを継ぐ方はやはりおられるのだと万感胸に迫りました。皆様ご存知の方もいらっしやると思いますが、私の著書『台湾人と日本精神』を平成十二年七月に日本教文社から出版していただき、順調な売れ行きの中、七ヵ月後の平成十三年三月七日、突然一方的に販売中止ということになりました。納得のいかないままに、日本教文社は社告まで産経新聞に発表し、書店の店頭にあった本まで引き上げるという、まるで盗作の書物か悪書ででもあるかのような措置を取りました。訴訟事の大嫌いな私も、あまりの理不尽にあきれ果て、それが「生長の家」と関係することであると知るにつけ、私が敬愛している「生長の家」がおかしくなっていると感じました。日本側の心ある方々の勧めもあり、告訴することを決心しました。
  一審では私の主張が通らず控訴しましたが、二審の東京高裁から和解の斡旋がありました。日本教文社が新聞に謝罪広告を掲載して「遺憾の意」を表明することを、東京高裁から「和解条件」として提示されたこともあって、もとより裁判沙汰の嫌いな私はこれに応じ、日本教文社もこれに応じました。
  ところが、聞くところによれば、谷口雅宣という人は「全面勝訴」と勝手に主張しているらしく、我田引水に過ぎる言辞を弄していると聞きます。ここに私の著書を巡っての経緯を述べさせていただくことで、『台湾入と日本精神』販売中止問題を皆様にご判断いただきたいと思います。最近、私の視力が弱くなりましたので、対談形式の質問に私が答えた話をテープから起し、後で手を入れました。

── 『台湾人と日本精神』の販売中止を巡っての裁判は、最終的に和解ということになりましたが、そのことをお聞きする前に、なぜ『台湾人と日本精神』を書こうと思われたのですか。

 話は少し長くなりますが、数年前に、アジア太平洋懇談会の学習院女子大学教授の久保田信之教授と何名かの大学の先生方が台湾においでになった事がありました。その時、台湾政府から私に連絡があり、アジア太平洋懇談会の方々に新竹サイエンスパークにある私の会社を案内してもらえないか、という問い合わせがありました。私はこういう場合は時間さうあれば、いつでも喜んで案内するんです。民間外交の一助にでもなれば、と思うからです。で、久保田信之先生方と台北から車で約一時間ほどのところにある新竹までご一緒しました。車の中で、私はマイクを借りて台湾と日本について思うことを色々お話させていただきました。それから、新竹サイエンスパーク(日本の筑波学園研究都市のようなところ)や、半導体などを開発している私の電子会社などを見ていただき、先生方とお別れしたのですが、それから何カ月か後に、突然日本教文社からファックスをいただきました。八月号から「光の泉」誌で「日本を見直す」というシリーズで私にインタビューしたいということでした。実は、久保田信之先生が「ぜひ蔡さんを」と推薦されたらしいのです。

  日本教文社については、私は昔から好感を持っておりました。理由は、谷口雅春先生を大変尊敬していたからです。二十年くらい前に、日本文の「生長の家」誌という小型の月刊誌と台湾にある漢文の生長の家の月刊誌の両方を読んで、谷口雅春先生に大変感動しておりました。恐れ多い気がしますが、特に共鳴したことは「祖先を崇拝しよう、国を愛し、皇室を崇めよう、汝の周囲の人たちに感謝をしよう、天地一切と調和しよう」と説かれていたことでした。しかも、谷口雅春先生は「どういう宗教の人でも生長の家へいらっしゃい」と言われ、他宗に対しても排他的ではないんですね。「これだ!」と思いました。「生長の家」誌だけでなく、「光の泉」「白鳩」「理想世界」など手当たり次第読みました。これらは日本語だけしかありませんでしたが、私にとっては漢文よりも日本語の方が分かり易いので何の苦もありませんでした。とうとう月刊誌だけでは読み足りなくて、当時値段が相当高かったと思いましたが、『生命の實相』ワンセットを買いました。難しかったですが、全巻読みました。それで、ますます谷口雅春先生を尊敬するようになっておりましたので、「光の泉」誌のインタビューは喜んで受けることにしました。
  カメラマンと記者の方が台湾に来られ、半日以上かかりましたが、大掛かりな撮影装置を自宅に取り付けながらインタビューを行い、その後、自宅の周囲をご案内して、私のジャンパー姿の写真まで撮ったことをいまだに覚えております。何をしやべったかはもう忘れましたべ私の記事が掲載された「光の泉」誌は、戦後台湾から引き揚げられても台湾を古里と思っている日本の方達に配りました。「感動した」というお手紙をたくさんいただきましたが、話によれば、この「日本を見直す」シリーズで、外国人の私がトップバッターだったようです。その時に、久保田信之先生から「日本教文社が蔡さんの本を出したいと言っている」ということをお聞きしました。当時、久保田信之先生は日本教文社から『家族崩壊』というご本を出版しておられ、生長の家のこと、日本教文社のことなどよく知っておられました。

  私が東京に行きました時、当時日本教文社の社長でありました中島省治氏とお会いしました。はじめ出版はお断りしたのですが、話をしているうちに、中島氏は日本海軍の幹部を養成すな海気兵学校のご出身だとわかり、私は陸軍航空兵学校の少年航空兵だったものですから、海軍体操の号令や動作なども飛び出し、すっかり意気投合しまして、「出版の件は一両日考えさせてください」と申し上げました。
  その時、感激したことがありました。私の本にも書きましたが、戦争中、セレベス島のメナドという場所に、海軍落下傘部隊が降下しましたが、その時の世界最年長の隊長が、先ほどの海軍体操を編み出した有名な堀内豊秋大佐でした。堀内大佐が中佐の時台湾におられたこともありましたが、その話から中島社長が「堀内大佐の史料をお届けします」と言われ、早速翌日ホテルまで届けてくださいました。すごく感激しました。そういうこともあって、私は出版をオーケーする決心をいたしました。
  ちなみに堀内大佐のことを少し中し上げますが、昭和十七年、メナドに降下した後、しばらくメナドに軍政を靫きました。戦後オランダの報復でB級戦犯となり銃殺されます。その時、目隠しを拒み「ノーマスク!」と叫んだそうです。それが五十年後には、メナドの住民によって堀内大佐の顕彰碑が建立されたそうで、日本の関係者も参加したということです。

 「さて、本の題名をどうしようか」ということで、私は「三つの祖国にもだえる元日本兵」「元日本人の苦悶」など考えましたが、「台湾入と日本精神」の案が浮上してきました。「日本精神」は金美齢先生のパテントのようなものでしたが、この案に決定しました。
  実は十年前、現在産経新聞の論説委員長をなさっている吉田信行氏が作家の司馬遼太郎先生に「以前、台湾の少年航空兵であった蔡さんにインタビューしました時、蔡さんが『いまの日本はどうなっているんだ、「大和魂」や「日本精神』は滅んでしまったのか」と言われ、それ以来、蔡さんと気が合って付き合っています」と申し上げたことがあると、ご本人から聞いたことがあります。台湾では「大和魂」「日本精神」、ことに「日本精神」は台湾語で「リップンチェンシン」と言いますが、この言葉は、今の台湾の若い人でも「お前はリップンチェンシンがある」と言われたら、すべていい意味に受け取ります。「正直で、勤勉で、遵法で、時間を守る」、「汗水流して働く」を台湾語で「パーピィヤン」と言いますが、「リップンチェンシン」にも同じ意味が含まれています。すべていいことが「リップンチェンシン」なのです。

  先日、台湾でお茶を栽培している台湾人青年が「リップンチェンシン」を使っていました。「やるなら徹底してやることだ、いい加減な事をしてはいけない、と祖父からよく言われましたが、これが『リップンチェンシン』だと思います」と言っていました。頼もしい青年でしたが、私達のような日本教育を受けた世代だけの言葉ではなく、孫の世代も使うれっきとした台湾語なのです。
  とにかく、いいことが「リップンチェンシン」、おまけで言いますが、悪いことが「中国式」という言葉です。それで、本のタイトルは決まりましたが、加えて、私がいつも叫んでいる「日本人よ胸を張りなさい!」という言葉をぜひ入れたいと思いまして、サブタイトルに入れてもらいました。
  私は「あとがき」にこう書いています。「台湾の近代史は日本の近代史でもある」と。前台湾総統の李登輝閣下は司馬遼太郎先生に「私は喉元まで純粋な日本教育を受けた」とおっしやっていますが、私も十八歳まで日本人でしたが、まさしく私の体験もそうでした。私は日本の統治時代の教育を大変高く評価しております。
  そういうわけで、私は、日本と蒋介石が持ち込んだ中華民国の二つの国の事実を書きました。その中に、これまで国民党支配の戒厳令下で言いたくても言えなかった我々台湾人の思いのたけを書きました。







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