平成15年9月号

天の谷口雅春先生は泣いておられる (中)

─ 「谷口雅春先生を学ぶ」誌を読んで感あり ─

「台湾人と日本精神」著者の蔡焜燦先生とのインタビュー形式でのご寄稿を三回に分けて掲載します。
蔡焜燦先生は 『台湾人と日本精神』の販売中止を巡っての裁判は最終的に和解 とされたが、 谷口雅宣副総裁(現三代目総裁)が「前面勝訴」と勝手に主張としている事に対し、正しい経緯を述べておく必要があると考えられ、ご寄稿をされました。


蔡焜燦先生 ご寄稿 (中)

── 本が出版されて日本でとても反響があって、感勤した方が後を絶たず、台湾でも日本語で読まれた方が多く、大歓迎されたご著書だったのに、急に販売中止ということになりましたね。

 日本教文社が出版中止を決めた時は、中島社長が辞められた後の次の社長でしたが、その社長から電話がありまして、「本日の役員会で『台湾人と日本精神』を販売中止にすると決まりました」と言いますので、私が「なぜか」と聞きますと、「とにかくそのように決まりました。それに社告も新聞に出します。そういうことで了承してください。すみません、すみません」と言うだけです。
  実ははっきり言いますが、私は出版当時に交された契約書にめくら判を押しました。内容を読まず、どういうことが書かれていたかも知りませんでした。日本教文社はよい出版社だと思っておりましたから。それが一方的にこんなことを言われ、しかも社告まで出すと言うのです。私は「そんな必要はないではないか。どうしても私の本を出版中止にしたいというのなら、静かに安楽死させなさい。日本教文社が印刷をやめて本屋に出さなければ、それで販売中止になるではないか」と言いました。しかし、それでも日本教文社の社長は「すみません、すみません、社告を出すと役員会で決まりましたので、変更はできません」と言うばかりです。自分の会社の社長なのに役員会の決定を伝えるだけのメッセンジャーのような感じを受けました。埒があかず仕方がないので、「じやあ、社告の原稿を送ってください」と言いました。そうしたら、ファックスで送ってきました。つまらまい悲しい社告でした。そこで私はすぐファックスで送り返しました。「この社告では私は了承できません。熟考をお願いします」と。
  社告を産経新聞に発表した次の日に、日本教文社から「出版契約解約合意書」なるものが郵送されてきました。それも、何と普通便でした。書留でもなく、ましてや内容証明の郵便でもありませんでした。この普通郵便で出版契約の解約を迫る書類に署名しろという一方的な文書でした。しかも、私が承諾もしていない社告を出した日の翌日に届くようなやり方でした。普通郵便ですから、「そんなもの受け取っていません」と言えばそれまでですが、私は日本教育を受けた台湾人ですから、嘘が言えません。しかし、もちろん、私は解約合意書にサインをしていません。文書で出版を契約して、「出版契約解約合意書」という文書に私がサインをしてはじめて解約の合意が成立するのですから、私の著書の出版中止はまったくの契約違反となります。

── 同意も何もなく、三月十四日でしたか、日本教文社は産経新聞に社告を出して、本屋から蔡先生のご著書を回収したのですね。異常な措置ですね。それに先駆けて、生長の家の三代目がホームページに「日本精神」と題する文章を書いていますね。要約して言えば「日本精神はいまや死語である。最近、台湾においてはこの本が『政争の具』の観を呈してきた。それは、この本が『台湾独立』を明確に支持しているからである」などという唖然とするデタラメなことが書かれていました。蔡先生の本は、日本教文社が販売中止を産経新聞に発表してはじめて、台湾の新聞に取り上げられたわけで、生長の家の三代目が言う販売中止の理由が、こんなデタラメで根拠のないものとはまったく驚きです。

 ホームページの内容は、日本の方からプリントしたものを送っていただきました。読んで悲しくなりました。本当に悲しくなりました。「日本精神」は死語だと突き放したものの言い方は、どう読んでも本人がこの言葉を大切にしているとは思えません。私が台湾での日本精神について紹介したことについては「大変光栄で有り難いことである」と言いながら、「しかし現代日本で『日本精神』を賞揚する人の中には、不快な騒音を出したり、恐喝や桐喝を得意とする人がいることも事実である」と言っています。自分の祖国の精神をこんなふうにしか言えないことに、私は本当に悲しくなりました。
  お祖父さまである谷口雅春先生は、『美しき日本の再建』の「はしがき」に「日本文化にあらわれたる”日本の心”がどんなに清明で、幽玄で、高邁で、霊的で、不滅悠久な生命を湛えているものだということを知らなければならないのである。それを知ることによって私たちは自分たちの生まれたる祖国を尊敬することが出来、日本に生まれたる幸福をしみじみ感じ、そこから、真に自分を愛し、日本を愛し、日本の文化を愛し、日本独得の文化を大切にすることによって、他の民族には不可能な日本に課せられたる個性ある姿に於いて人類ぜんたいに貢献することができるのである」と言っておられるではありませんか。
  「いや、『日本精神』という言葉自体は使っておられない」と言うなら、このご本をよくお読みなさい。至るところで「日本精神」という言葉を使っておられます。私も、結婚式などでスピーチを頼まれれば、必ず「自分の国を愛しなさい、自分の国を愛せない者に他の国、他の国民を理解することなどできません」と言って新郎新婦にはなむけの言葉を贈っています。彼のお父さまの谷口清超先生も私の本を大変評価してくださり、『生長の家白鳩会』という雑誌で好意的に取り上げてくださいました。さらに、京都の宇治での練成会では、私の本の出版中止にも直接言及されて私への理解を示してくださいました。お母さまの谷口恵美子先生までも、『生長の家白鳩会』誌で金美齢先生を紹介されながら「日本精神」を大切に思っておられるではありませんか。お祖父さま、ご両親のお考えにことごとく反発するとは、何という親不孝者でしょうか。
  これを読んだ時、ふっと私の頭をかすめたものが二つありました。一つは、「売り家と唐様で書く三代目」という川柳でした。その「売り家」の「家」が「生長の家」の「家」になりかねないと思いました。裁判を通してその思いはますます強くなりました。もう一つは、日本でも有数なある大病院の家憲にあることなのですが、その家憲には「病院を継ぐ者は、娘の婿か、娘がいない場合は養子である」という決まりがあるそうです。そうしないと、優秀な者に後を継がすことができないというのです。病院ですから、人の命を預かる仕事をするのだから、世襲で生まれた男の子が馬鹿だったら困るというのですね。親としては優秀でも馬鹿でも可愛い息子でありましょうが、人の命を優先するというのです。その家憲の言葉を思い出しました。

── あの頃、小林よしのりさんの『台湾論』が台湾では問題となっていて、台湾版が出版されて、それを問題にしたのは台湾の「統一派」(いまだに中国大陸は中華民国のものだと言っている蒋介石の国民党勢力)の当時の立法委員(日本の国会議員に当たる)が中心となってマスコミを動かしましたが、そのうちに戦争中のことを知っている台湾の人々からマスコミでの反撃が出てきて、形勢不利と感じたのか、騒ぎを起こした連中がこの問題に声を潜めてしまいました。あの時、あれだけ騒がれた『台湾論』でさえ、陳水稲総統は「言論の自由」を尊重されて、小林よしのりさんの入国拒否などあってはならないとしましたし、もちろん『台湾論』も販売中止にはならなかったですね。生長の家の三代目は、ひょっとして『台湾論』と勘違いしたのではないでしょうか。あるいは『台湾論』を利用して蔡先生の『台湾人と日本精神』を葬ろうとしたのでしょうか。もしそうであるなら、人を教化・指導する宗教者としてはあるまじき行為だと思います。

 そのことですが、小林よしのりさんがはじめて台湾に来られた時は、仕事のためではなくバカンスのためでした。来られた日に私が一席設けてご一緒しました。その日のことを、小林よしのりさんは「わしをこんな立派な店で、こんなおいしいご馳走を出して招待するなんて、わしをはめるんじゃあないかな」と漫画に画いています。でも、小林さんは台湾に来られたとたんに台湾が好きになりました。李登輝閣下にお会いしてさらに好きになりました。二回目に来られたときは金美齢先生とご一緒でした。その時、ぜひとも台湾のシリコンバレーと言われる新竹サイエンスパークを見学したいということでご案内しました。その時の車中で、小林よしのりさんに「山口地裁はおかしな判決を出した。おかしいじやないですか」と言ったのです。本当にそう言いました。山口地裁は、韓国女性が慰安婦は強制連行だった、という訴えを認めて日本を敗訴にしたのです。
  これはおかしいのです。そもそも強制連行など存在していないのです。日本は戦前も戦後も法治国家である。兵隊さんは一銭五厘のはがきで召集令状が来る。普通の日本国民なら徴用令が来たら必ずいきました。だから強制連行などない。慰安婦はどうか、いわゆる戦地で慰安婦になった女性は、これは貧しさという社会問題から起こったことですが、家が貧しいための口減らしでした。お金がほしいために戦地に行って体を張ってお金を稼いだのです。戦地の方が収入がいい、軍医さんが守ってくれる、その他色々な理由から戦地で慰安婦になったのです。それを、山口地裁は「強制連行だった」としました。その前後でしたか、自民党の河野洋平氏も官房長官時代、やはり山口地裁と同じような意見を言いました。山口地裁も河野洋平氏も、何も調べず無責任にそ心なことを言ったものですから、後になって私にも被害が及ぶことになったのです。
  それで、小林よしのりさんと同行中に、私は「こんなばかな話はない」と言いました。そして、私は「私の知っている実業家は『強制連行などなかった、むかし慰安婦だった人たちを集めて聞いてみたけれども、自発的に行った」と言っています」と言いました。この実業家・許文龍氏のもとに小林よしのりさんも訪問して、「強制連行などなかった」と直に聞きました。
  そのことを、よしりん先生は『台湾論』に画いたのです。その台湾語版が台湾で発売されて、「許文龍氏も蔡規燦氏も強制連行はなかったと言っている」というので、許文龍さんの中国大陸の工場が閉鎖されそうになったり、私の会社の女子社員が電話攻撃に泣きながら対応したり、私を誘拐しようとする中国人もいるから気をつけろと言われたり、というような、いわゆる「慰安婦問題」が起きて騒がれたことはありました。しかし、決して私の本が政治的に問題になったのではないのです。あくまでも小林よしのりさんの『台湾論』が騒がれたのです。

── そうだったですね。台湾の年配の女性から聞いたのですが、その女性が実際に見聞したということですが、戦地へ行った第一回目の慰安婦は花町で募集されて、あっという間に集まり、その収入は当時の女学校の校長先生の二、三倍以上ということだったそうです。終戦前に戦地から婦った慰安婦はダイヤを袋にたくさん持っていたとか、婦ってきた台湾で裕福な商家の奥さん方とマージャンを楽しむ生活だったとか聞きました。話してくれた女性の家で実際にマージャンをしていたそうで、この女性のお母さんがダイヤを分けてもらったそうです。ところで、蔡先生のご著書販売中止の件ですが、日本教文社が販売中止の社告を出した翌日、台湾の自由時報に大きく報道されました。それも蔡先生に同情的な記事でした。その翌日には中国時報にも載りました。

 中国時報は、オーバーシーズインタビューで、東京にいる記者からのインタビューでしたが、私の言った通りに記事にしてくれました。ですから、もう一度繰り返しますが、谷口雅宣氏が言っているように、私の本が「政争の具」になったことは一度もないのです。存在しない事実に基づいて、谷口雅宣氏は私の本を出版中止にしたのです。これは、かつて中国・韓国が新聞誤報に基づいて、日本の教科書を攻撃したやり方と同じなのです。







「台湾人と日本精神」裁判

護法の運動

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