平成15年12月号

 大東亜戦争と谷口雅春先生 (4)

雅春先生の戦争哲学について

─副総裁の戦争観との違ひを考へる


広岡勝次氏論文

 戦争に対して雅宣氏は「迷ひ」と見るが、神示および雅春先生によれば戦争とは「迷ひの自壊作用」であり、「迷ひ」そのものではないと述べられています。
  雅宣氏は「人間同士が殺し合うことは、如何なる理由によっても正しくない」といふ、戦争絶対悪の考へであるとしいてるが、雅春先生は「殺人は普通悪いと考へてゐますが、戦争に出て敵兵を殲滅するのは善である。全ては地を得た時にそれが初めて善となり、地を得ない時にそれが悪となる。人間を殺す事が道徳上是認せられるのは、人間以上のものゝ絶対命令であることを要する。人間とは肉体ではない故に、「道義」の実現のための殺人は、却って「人間」(『真』の人間)を生かす道である。」と戦争哲学を明瞭に説かれています。
 雅春先生は さらに、 「多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかりを見ているが、戦争には『地上に生れた霊魂進化の一過程』としての『最高の宗教的行事』といふ道徳的・宗数的な積極的意味合ひが含まれてゐるのである。」とも説かれています。
  雅宣氏の戦争絶対悪の考へとは、その深さ高さ物事を見る目において隔絶しており、いかに雅宣氏の考えが平和ボケした日本の憲法のやうなものであるかが際立って見えます。



六、雅春先生の戦争哲学について
    ──副総裁の戦争観との違ひを考へる

 生長の家副総裁の谷口雅宣氏は、戦争を「迷ひ」と見るが、神示および雅春先生によれば戦争とは「迷ひの自壊作用」であり、「迷ひ」そのものではない。このことについては、既に度々指摘した通りである。
  今回は、更に一歩を進め、雅春先生の抱懐してをられた戦争哲学と、雅宣氏が現に把持してゐる戦争観とは何処がどう違ふのかといふことを、読者とともに考へてみたい。

  雅宣氏は、戦争を病気と同様に見立て、次のやうに説いてゐる。
  「病気は、あくまでも人間の『迷いの産物』であって、神の創造ではない。(中略)『戦争』についても、例外ではない。『大東亜戦争』が、その悲惨きわまりない人間同士の極限的争いの過程で、『人間同士が殺し合うことは、如何なる理由によっても正しくない』ということを教えてくれたからと言って、それは『神が大東亜戦争を起こして、人類にそのことを教え給うた』のではないのである。自らの『迷い』が引き起こした愚かなる行為を見て、人間の中にある神性・仏性が『偽なり、偽なり』と否定しているのである。」(「再び大東亜戦争を考える」、『理想世界』平成四年三月、六六頁)
  ここにはしなくも、雅宣氏の戦争観が露呈されてゐる。即ち、「人間同士が殺し合うことは、如何なる理由によっても正しくない」といふ、戦争絶対悪の考へである。しかも、戦争は「自らの『迷い』が引き起こした愚かなる行為」であり、「人間の中にある神性・仏性が『偽なり、偽なり』と否定している」のだと、実相(「人間の中にある神性・仏性」)の立場から、戦争が全面否定されてゐる。
  しかし、「人間同士が殺し合うことは、如何なる理由によっても正しくない」といふこの戦争絶対悪の思想は、本当に正しいと言へるのだらうか。「人間の中にある神性・仏性」は、戦争を「偽なり、偽なり」として本当に否定してゐるのだらうか。

 雅春先生は、「日本国の世界的使命」といふ戦前の文章の中で、次のやうに説かれてゐる。
 「悪とは伺であるかと云ふと、地(ところ)を得ないと云ふことが悪なのであります。(中略)殺人は普通悪いと考へてゐますが、戦争に出て敵兵を殲滅するのは善である。全ては地(ところ)を得た時にそれが初めて善となり、地(ところ)を得ない時にそれが悪となる、斯う云ふ風に生長の家では申すのであります。」 (『驀進日本の心と力』所収、二五五〜二五六頁)

 かく、雅春先生によれば、「人間同士が殺し合うことは、如何なる理由によっても正しくない」どころか、「戦争に出て敵兵を殲滅するのは善である」といふことになる。雅宣氏とは、正に百八十度異なった戦争観を雅春先生は把持してをられたことが解るのである。
  しかし、雅春先生か「全ては地を得た時にそれが初めて善となり、地を得ない時にそれが悪となる」として、戦争における殺人を善とされた場合の「地を得る」とは、具体的には何を意味するのであらうか。これについて、雅春先生には深い哲学的洞察を加へてをられる文章があるので、次にこれを紹介しておきたい。

 「翻って考ふるに、戦争は人間を殺す作業を伴ふ。この場合『人間』とは敵のことでもあり、自国の国民の生命を献げることをも含む。人間を殺す事が道徳上是認せられるのは、人間以上のものゝ絶対命令であることを要する。(中略)
 すべての善は神より来るのである。『神』が唯一の『善』であり、道徳の根拠は『神』に発する。神が建てない国家は圧倒しても好いし、それが神に建てられた国家によって圧倒されることによって、それは一層『道徳的』となるのであり、かくの如き過程によってのみ地上に『神の世界』があらはれるのであり、過去の国家又は、長髄彦(ながすねひこ)族や或は土蜘蛛(つちぐも)種族の如き国家とも云ふを得ざる蕃族の団体が崩壊して新しき国家が生れるその過程としての戦争は、それが殺人行為を伴ふにしても『迷ひの自壊過程』として是認せらるべきである。」 (「国防のための建国の哲学」、『新日本の心』所収、。……三三三〜三三六頁)

 「長髄彦(ながすねひこ)」「土蜘蛛(つちぐも)」とは言うまでもなく、神武天皇が東征の過程で実力を以て討ち滅はした種族を指す。これを現在の国際状況に当てはめるなら、北朝鮮を思ひ浮べればよい。数百万名もの自国民を餓死や粛清で死に追ひやり、また隣国からは数白名もの人々を拉致・殺害しておきながら、未だに恬として恥ぢぬ国。
  かかる無法者の国家に対し、「国家とも云ふを得ざる蕃族の団体が崩壊して新しき国家が生れるその過程としての戦争は、それが殺人行為を伴ふにしても『迷ひの自壊過』として是認せらるべきである」といふ雅春先生のお言葉は、多くの日本人の共感を得るに違ひない。何故か。それは現象的な殺人の奥に、一層高い道義性を含んでゐることを、我々の実相が承認するからである。
  「人間の中にある神性・仏性」は、雅宣氏のやうに戦争を「偽なり、偽なり」とやみくもに否定することで事足れりとはしない。「すべての善は神より来る」のであり、「人間同士が殺し合うことは、如何なる理由によっても正しくない」といふ独善的な思ひ込みこそ、戦後の浅薄なる人間理解に基づく、雅宣氏の「迷いの産物」に他ならない。

 さてご雅春先生の御文章は尚も続く。

 「それは殺人と見えつゝも、実は『殺人』しつゝあるのではなく、『人間』を生かしつつあるのである。何故なら『本当の人間』と云ふものは『肉体』ではなく、内在の『道義性』そのものが、『本当の人間』であるからである。本当の人間が本来『肉体』ではなく、内在の『道義性』ひりもりであると云ふことは、肉体を殺しても『道義性』が完うしたならば、『吾れ生けり』と云ふ実感を伴ふのでも明かである。(中略)
 斯うして戦争に於て多数の肉体人間を殺戮しながらも、そこには道義即ち『真』の人間が生き、少しも『殺人』が行はれてゐないことを知らしむるものは、それを見る人に内在する道義であり、これを教ふるのが生長の家の『肉体本来無』の哲学である。若し或る戦争が、神によって建てられたる『道義』の実現の為の過程でないならば大量殲滅はそのまゝ大量殺生となり、それはとりも直さず地獄の阿鼻叫喚の実現にほかならない。かるが故に戦争遂行にはいづれの国家に於ても何故兵を動かすかの大義名分を明かにしようとするのである。」 (同右、三三六〜三三七頁)

 即ち、人間とは肉体ではない故に、「道義」の実現のための殺人は、却って「人間」(『真』の人間)を生かす道であるといふ、雅春先生の戦争哲学がここでは明瞭に説かれてゐる。
  だが、それなら「大義名分」さへ明らかになれば、どの国の戦争も正しいといふことになるのだらうか。日本は大東亜戦争において英米と戦ったが、英米は「民主主義」を大義名分とした。彼らは彼らなりに、それを「道義」と考へて日本と戦った筈である。それなら、「自存自衛」「東亜解放」を掲げて戦った日本の道義は、「民主主義」といふ英米の道義の前には相対化されてしまひ、どちらが正しいとは言へなくなるのではないか。
  神示に「ヒノモトの軍が厳かに進むのは、無明の世界を照らす唯一の光が進むのである」「世界には唯一の光しかないのだ」(梅の花の神示)とあったその「ヒノモトの軍」の「唯一の光」としての道義性の根拠は何処にあるのか。

 この点に対する雅春先生の回答は、次の通りである。

 「私の考へではすべての国家は絶対存在ではないのである。日本を除く多くの国家は、…その肇国の理想が道義の上に建ってゐると云ふことは出来ないのである。強者の弱者に対する侵略によって建てられたる国家の如きは、それは道義の上に建てられたる国と云ふことは出来ないのである。(中略)それらは漂へる国々である。(中略)
 幸ひにして吾が国のみは神が建てたる国である。その肇国は古事記に顕はれたる如く、天之御中主大神の『修理固成の神勅』(この漂へる国をつくり固め成せ)に始まる。この事を国民が理解してのみ真に国家擁護の熱意が、単に血族擁護の私的感情以上に神聖なる熱意として真理擁護の熱意として国民の内に燃え上るのである。(中略)
 換言すれば 天皇即国家である。この信仰あつてこそ、絶対に帰入する宗教的熱情をもって、国家防衛のためにおのが生命を捧げ得るのである。」 (同右、三四〇〜三四六頁)

 雅春先生の天皇信仰については、本稿の主題から外れるのでこれ以上は論及しないが、雅宣氏が「実相」をかたり、「人間の中にある神性・仏性」の要求として「人間同士が殺し合うことは、如何なる理由によっても正しくない」と、平和ボケした日本の憲法のやうなことを未だに言つてゐる本当の理由は、氏の天皇信仰が雅春先生のやうな「天皇絶対論」にまで透徹せず、本皇を他国の国王や大統領と等しなみの相対的なものとしか受けに止めてゐないためであらう。それは生長の家にとって、致命的な信仰の欠落であり、道義的堕落であるといふ点のみを、ここでは指摘しておきたい。

 さて、以上で雅春先生の「戦争に出て敵兵を殲滅するのは善である」といふ考への背後にある思想を一応紹介した積りであるが、雅春先生の戦争哲学は、実は以上述べたことのみに止まるものではない。戦争に関しては、雅春先生はもつと重要な宗教的意義づけをされてゐるのである。

 最後に、この点について少しだけ紹介しておきたい。

 「多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかりを見てゐて、その道徳的、宗教的意義を理会しない。(中略)肉体の無と、大生命への帰一とが同時に完全融合して行はれるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは、地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとつては耐へ得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。」 (戦前版『生命の實相』第十六巻、二四六〜二四七頁)

 即ち、戦争には「地上に生れた霊魂進化の一過程」としての「最高の宗教的行事」といふ道徳的・宗数的な積極的意味合ひが含まれてゐるのである。ここまでくればもう、「人間同士が殺し合うことは、如何なる理由によっても正しくない」といふ雅宣氏の戦争観とは、全く別次元の話になる。これは、地球に生を享けた高級霊が、地球を卒業して他の天体に生れ替る最終段階としての「霊魂進化の一過程」なのである(これについては、本連載の最後に改めて紹介する予定である。)
  因みに、雅春先生の戦争に対するこのやうなお考へは、戦後も全く一貫して変つてゐない。例へば、昭和三十五年八月十五日に奏上された「大束亜戦争無縁戦没者英霊に捧ぐる辞」には、次のやうにある。

 「あの戦争には宇宙の人類進化の神界のプラグラムを達成する役割を演ずる偉大なる犠牲者出現せざるべからざりしなり。その偉大なる役割を演ずるために開かれたるが あの大東亜戦争なり その偉大なる犠性的役割を演じて自己の生命を献げて人類進化に道をひらきたるが あの大東亜戦争において戦死されたる卿等日本軍の将兵たちなり(中略)キリストが一身を献げて人類の身代りとなりしがごとく 卿等は一命を捧げて 大東亜諸民族およびアフリカ諸民族の魂の自覚の進歩のために貢献せるなり」

 このやうな「霊魂進化の一過程」「人類進化の神界のプログラム」としての大東亜戦争の宗教的意義を、現生長の家教団は全く没却し去つてゐる。これは、雅春先生の御教へからの重大な逸脱、いや生長の家の宗教的堕落でなくして何だらうか。
 




大東亜戦争と谷口雅春先生

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