平成16年1月号
大東亜戦争と谷口雅春先生 (5) 大東亜戦争の評価をめぐつて ─占領下の御発言の真意を考へる(その一) |
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広岡勝次氏論文 |
雅春先生は戦前、戦後(占領下を除く)を通して、一貫して日本は米英支により先に手を出された事に対し自国防衛・安全保障のために起って戦ったのであり、大東亜民族の解放戦を戦ったのである」と説かれています。ただ、一時期、占領下における言論弾圧、言論統制の異常事態の中で著述された「米国善、日本悪」の文章も公平に掲示し、雅春先生の論述の占領下とそれ以外での違いを綿密に述べられています。 |
昭和十六年十二月八日、日本は遂に米英との戦争に突入した。 「はずだ」「はずだ」と、一人合点の歴史認識を信徒にも強引に押し付けてゐるが、先の大東亜戦争で「侵略」したのは日本側で、それを排除したのがアメリカの「はずだ」なんて、そんなことを雅春先生がいつおつしやつたか。 雅春先生は。戦争直後の一連の御文章の中で、次のやうに書かれてゐる(傍線・枠線は引用者、以下同様)、 「日本国民は…軍部から「東亜民族解放のための聖戦だ』と云う標語をかかげられて、そのためにとで犠牲を強要されたときに、それに反撥する精神の自由をもっていなかったのである。(中略)…真理のために自己の利害関係をすてて世界を救ったのはアメリカだと云うことが出来るのである。」 (「戦争内因の歴史の批判」、同右所収、一五九、一六六頁) そら見ろといふ、雅宣氏の凱歌が聞こえてきさうな御文辞だが、もし雅春先生の大東亜戦争観が、戦後(占領解除後)もかうした論調で一貫してゐたのであれば、次のやうな副総裁の言も首肯し得ることにならう。 「日本民族は侵略国民だと教える日教組の先生もあるけれども、決して、そうじゃないのであります。大体アメリカが日本人移民禁止法というのをこしらえて、…あんなに広い地面が余っているのに、…人口が多過ぎて困っている日本人に移民禁止法で『入れてやらん』というのです。この『入れてやらん』というのが間違っているから『人るぞ」と言って行動を開始すると戦争になるのであります。大東亜戦争も、アメリカのハル国務長官が、『日本は満州国を解体して手を引け、満州から出てゆけ』と言いだしたので戦争が始まったのであります。」 (「古事記と現代の預言」四四頁) 雅春先生の御発言は、前後矛盾してゐるのだらうか。さうではないのである。「太平洋戦争」を否定した一連の論考には、次のやうな特徴があることが、紙背に徹すれば誰にも見えてくるのである。
雅春先生の占領下の論考には、必ずしも額面通りには受け取れない特殊な事情が介在してゐることが、ここからも窺ひ知れるのである。特に、雅春先生の戦前(戦時中)と戦後(占領解除後)の主張は同一であるのに、占領下の主張のみがさうでないといふ場合には注意が必要である。それは雅春先生の、『占領軍の日本弱体化政策に対する。抵抗の論策』であった可能性が、極めて高いからだ。
「合気武道では邪念を出して、先に手出しをした者が負けになるのでありますが、大東亜戦争では先づアメリカが手出しをして、経済封鎖やABCD包囲陣や、ハワイ沖に海軍大演習をやって、日本をその見せかけの武力で押へ込んだのです。(中略)大上段になって嵩にかゝつて圧へて来るのに、静かに此方が一歩近づくと敵の大上段よりも此方の『入身(いりみ)』の剣が早い。(中略)アメリカもあんなに大上段になって軍艦を丁寧に真珠湾頭に列べなかったら、一遍にアメリカ太平洋艦隊も撃滅せられなかつたでありませう。『邪剣は正剣に勝たず』戦争でも、個人と個人との立合でも、日常生活でも、皆な同じ事であります。」 (「『絶対無』の日本武道」、『生長の家』昭和十八年五月、三五〜三八頁) ところが、占領下になると雅春先生の評価は一転する。「闇討」した日本を厳しく批判し、「太平洋戦争」を「最初から間違った戦争」「他を侵略する戦争」とまで極言されたことは、先に見た通りである。 「日本の真珠湾爆撃という歴史的事実についても…太平洋戦争の責任は全然日本の軍国主義にあると或る歴史家はいう。また別の歴史家の説によると、アメリカは日本が奇襲攻撃を最初にしかけて来たのであるというが、実はアメリカは日本が奇襲して来ることを、暗号電報の傍受によって予知しており、しかもそれに誘いの手を打って開戦の責任を日本に負わせようとした謀略に、日本がマンマと引っかかったのであると。(中略)こういう所論から考察して観れば、日本を辱かしめようという歴史家や思想家は太平洋戦争を侵略のための戦争であると意味づけるであろうし、そうでない思想家や歴史家は四囲の情勢がかくの如き道を選ぶより仕方がなくなった情勢に重きをおいて日本を弁護するのである。」 (『我ら日本人として』三〇〜三一頁) 右は両論併記・結論保留といった趣きがあるが、更に十年後、昭和四十三年初版発行の『古事記と現代の預言』になると、次のやうな論調に変る。 「短期決戦でアメリカをたたくより道がない、…そこに結論がゆくのは、当然のことであって、侵略とか、そんなものではなかったのであります。(中略)今から考えて見ると、それはアメリカが悪いのでも、日本の軍閥が悪いという訳にもゆかんのであります。」 (『古事記と現代の預言』一二七、一三四頁) 真珠湾奇襲が結果的に「闇討」になってしまつたのは、当時の外務省の失策が原因で、日本政府にはその意図は全くなかった(杉原誠四郎「日米開戦以降の日本外交の研究」)。かうした歴史的事実が明らかになるにつれ、雅春先生も「闇討」といふ占領下の評価を改め、最後は日本の「侵略」を否定するに立場に明確に立たれたことが解るのである。
「日本民族は大陸華国を侵略せんがために来れる者に非ず、大陸華国が西欧に分割せられてその植民地たらんとするを救はんがために、亜細亜民族解放のために出現せる天使である。以上のことは老祖われに現れて示し給ふ真理である。」 (「蓮華日宝王地録」『新日本の心』所収、一七八頁) 次いで、占領下の御文章であるが、前述の通り、「東亜民族解放」は軍部の「標語」(スローガン)に過ぎなかつたといふ、否定的・消極的評価になつてゐる。 「大東亜戦争の目的というものが、『大東亜民族の解放戦である』という旗印が戦争中にかかげられることになったのも、「天に口なし人をして言わしむ』であったのであります。(中略)自主独立の精神を有色民族が得るために、有色民族はどうしても一度はアジアの南方に殺到して、白色民族を駆逐する必要があり、日本民族は、あの際そういう役割を使命づけられておったのであります。」 (『古事記と現代の預言』 一四〇〜一四一頁) このやうに、「東亜解放」といふ大東亜戦争における日本の使命については、戦前と戦後で見事に一貫してゐる。従って、これを軍部のスローガンのやうに過小評価した雅春先生の占領下の論策は、大東亜戦争における日本の使命を過度に強調して占領軍を刺激しないやうにといふ配慮から来たものだろう。正に占領軍に対する、雅春先生の「抵抗の論策」だつたのである。 |