平成16年2月号
大東亜戦争と谷口雅春先生 (6) 大東亜戦争の評価をめぐつて ─占領下の御発言の真意を考へる(その二) |
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広岡勝次氏論文 |
B「侵略戦争」か否か(承前) 雅春先生は大東亜戦争を「侵略」と考へてゐたか否か。これについては、筆者は本連載においても既に幾多の事例を紹介してきたが、最初に戦前(戦時中)の御文章から、典型的な一例を掲げておかう。 「日本国は大八洲国なり、世界の親国なり。外国と対等の国に非ず。それ故に米英に侵略されたる世界の人類を解放し、その全き自由を回復せんが為に、至上の神の顕現に在す 日本天皇が勅(みことの)りしたまひて、まつろはぬものを討ち給ふなり。討つとは雖も殺すに非ず、生かすなり。神は生のみを降し給ひ、死は降し給はぬなり。」 (「天皇は絶対也・日本は絶対也」、『生長の家』昭和十八年二月号、一頁) このやうに、雅春先生の戦前の御文章は、「侵略」したのは米英等の欧米諸国で、日本は「侵略」された世界の人類を「解放」するために起ち上がつたのだといふ立場を堅持されてゐた。 「国民の大多数はたゞ宣戦布告の詔勅をラジオの放送できいて、それを驚きながらその通りに信じたのである。そして相手が強大であるだけ、彼らは祖国の危急を身にヒシくと感じた。多くの日本人はこれを侵略戦争だと気が付かずに、ただ政府の宣伝にのせられて祖国を護るのが忠義だと思って、自己を献身しよう、自分を殺さうと思って立上ったのだ。」 (「帰還同胞を迎へて」、『新生の書』四一頁、『大和の国日本』。四四頁。上記二書は基本的に同一文だが引用は前者に拠った。) 「日本は強大な国を敵として戦争の真っただ中にある、敵が強大であるだけ、彼らは祖国の危急を身にヒシヒシと感じたのだ。多くの日本人は此の圧倒的な強大な敵を目の前にして、国を護るために、国の自由の擁護のために(と思って)自己を献身しよう、自分を殺さうと思って立上ったのだ。」 (「復員の同胞を迎へて」、『生長の家』昭和二十一年七月号、一七〜一八頁) 傍線部の異同を比較すれば解るやうに、雅春先生の原文にあった「敵」はいっの問にか「相手」となり、また「此の圧倒的な強大な敵を目の前にして、国を護るために、国の自由の擁護のために(と思って)」は、「これを侵略戦争だとは気がっかずに、ただ政府の宣伝にのせられて祖国を護るのが忠義だと思って」と変化したのである。何故、変化したのだらうか。 だが、「これを侵略戦争だとは気がつかずに」といふ挿入句に関しては、必ずしも検閲の影響と断定するわけにはいかない。といふのは、占領軍の検閲を受けるまでもなく、それ以前にも同様の表現をされてゐる箇所が既にあるからだ。 「日本の戦意が侵略に因くものと知らないで、亜細亜大陸の民族を救済するために生命を捨てるために自分は征くのだと信じて戦ひに行いた将兵も沢山ある。(中略)彼らは此の戦争が侵略戦争だつたと知らずに死んだのである。」 (「明窓浄机」、『生長の家』昭和二十一年六月号、三二頁。『明窓浄机』戦後篇、二五〜二六頁) 右傍線部分は、先はどの事後検閲後の挿入句、「これを侵略戦争だとは気がっかずに」と内容的に酷似してゐる。つまり、検閲とは直接関係ない、雅春先生の地の文章なのである。無論、地の文章の段階から検閲を意識して、わざわざ「侵略戦争」の語句を挿入されたのだといふ可能性も考へられぬでもないが、筆者はいろいろ考へた挙句、この部分はむしろ当時の占領軍の情報宣伝に、雅春先生と雖も影響を受けざるを得なかった結果であらうと考へるやうになった。 「日本の兵隊の大多数は、戦争を計画した軍官の主脳者の動機や目的や、実際にどう云ふ事情で戦争が起つたのか知らなかつたのである。((中略)第一級戦争犯罪人の裁判の進行に随って、その真相は徐々にに明瞭に全国民又は全世界の人々の前に明るくされてくるであらうが、何故、個々人がさう云ふ戦争を計画するやうになつたか、…今のところ(五月十六日現在)筆者には分らないのである。筆者は普通の国民よりも色々の出版物に目を通してそれを知らうとしてゐるのであるが、それでさへも其の真相が未だハッキリと判らないのである・…)」 (前掲「復員の同胞を迎へて」一七頁) 「東京裁判以後、大分その事情が明らかになつたが、その当時その本当の事情を真に知つてゐる民間人は数へるほどしかなかった。(中略)第一級戦争犯罪人の又は全世界の人々の前に明るくされて来たのである。」 (前掲「帰還同胞を迎へて」、『新生の書』四〇〜四一頁) 前者の執筆時点は昭和二十一年五月十六日、即ち束京裁判開廷(五月三日)直後で、これを書き直した後者の執筆時期は明らかではないが、この文章を含めた『新生の書』の初版刊行が昭和二十六年九月だから、占領下に書き直されたことは明白である。「多くの日本人はこれを侵略戦争だとは気がつかずに」といふ先の挿入句は、この後者の文章に続くものであることを思ふ時、雅春先生の歴史観にさへも影響を与へずにはおかなかった東京裁判といふものの破壊的影響力に、慄然たるものを覚えぬわけにはいかぬのである。 「祖国を自虐し、天皇を愛しない人は、 天皇の歴史に傷ける結論を『過去の記録』から引出すのでありませうし、 天皇を愛し祖国を愛したい人は『過去の記録』から、 天皇の歴史を日本を飾る光栄ある歴史の中心的流れとして結論づけようとすることになるでせう。ハッキリ申して置きますが、私は後者に属するのであります。」 (『限りなく日本を愛す』昭和三十二年六月初版発行、七九頁) 「日本を辱かしめようという歴史家や思想家は太平洋戦争を侵略のための戦争であると意味づけるであろうし、そうでない思想家や歴史家は四囲の情勢がかくの如き道を選ぶより仕方がなくなった情勢に重きをおいて日本を弁護するのである。」 (『我ら日本人として』昭和三十三年二月初版発行、三一頁) 両者は殆ど同時期に書かれた文章と思はれ、文章構成がよく似てゐる。前者は天皇の歴史を、後者は大東亜戦争の歴史を論じてゐる点が異なるし、前者は御自身の立場を明示し、後者はさうでない点が異なるが、そこには含みがあり、大東亜戦争に関しても「ハッキリ申して置きますが、私は後者に属するのであります」と、言外に語ってをられるやうにも筆者には聞こえるのである。実際、昭和四十年代以降の雅春先生は、「侵略戦争」を明確に否定するやうになるのであり、このことは前号にも紹介したのでここでは省略する。
実は、右の事実と大東亜戦争の呼称の問題は、パラレル(併行)な関係にある。 さて、不遜は承知の上だが、そのバロメーターによつて雅春先生の御文章を”測定”するとどうなるか。この場合、戦前は「大東亜戦争」の用語しか存在せず、占領下では一律に「太平洋戦争」の用語を強制されたので、考察の対象にはならない。(雅春先生が占領下で「大東亜戦争」の用語を用い、検閲により「太平洋戦争」に直された事例があれば話は別だが、さうした事例は確認できない。)
如何だらうか。時期により、実に鮮やかな対照を示してゐるこの事実は何を意味するか。 |