平成16年3月号

 大東亜戦争と谷口雅春先生 (7)

占領下の神示と大東亜戦争

─「聖戦」「皇軍」といふ言葉をめぐって


広岡勝次氏論文

 雅春先生は 「聖戦」「皇軍」について、現象的に日本軍の一部末端で起していた不埒な行いをお聞きになり、一時期「皇軍にあらず」と言われていた時があった。しかし、戦後しばらくしてからは、大東亜戦争は「摂理としてあらはれた地上天国実現の聖戦」であり、「『聖戦の理想』や『天皇陛下』の大御心が”悪い”という訳ではない、現象が理想に伴わなかったのである」と現象化以前の神の摂理としての「聖戦」、「皇軍」を肯定されている。
  本章ではこのような微妙な問題を果敢に研究され、分かり易く述べられています。


九、占領下の神示と大東亜戦争
     ─「聖戦」「皇軍」といふ言葉をめぐって

 この連載もそろそろ大詰めを迎へるが、大東亜戦争と雅春先生の関係を考へる上で、どうしても考へておかねばならない大事な点がまだ残ってゐる。それは、占領下の神示に関連して、大東亜戦争を「聖戦」、日本車を「皇軍」と見なす考へ方を、どう捉へるべきかといふ難しい問題である。
  「難しい」と言ったのは、「聖戦」「皇軍」の問題については、雅春先生ご自身の中でも時代によって著しい評価の”ブレ”があるやうに感じられるからだ。
  例へば、本誌平成十五年十月号に「大束亜戦争は聖戦である」と題して、次のやうな雅春先生の御文章が引用されてゐる。

「日本的『無』の立場から、身剥(みそぎ)的立場から、みづからの身を献げて宇宙を浄める民族的精神の立場から観ずるならば、それ[大東亜戦争]は決して弱肉強食的な食ふか食はれるかの利己主義的争闘ではなかった。宇宙大生命の神聖なる聖意の実相顕現に献身する戦ひであるのであったのである。だからこそ聖戦と言ひ得るのである。」 (『碧巌録解釈』前篇、一二一頁)

 ところが、雅春先生の他の著書には、これと真向から反する文章もあり、読者は混乱するのである。

「大東亜戦争が真に聖戦であったとか、神がはじめた戦争であったとか本当に正しい戦争であったとかいうことは生長の家の教には書いてないのであります。」 (『我ら日本人として』 一五〇頁)

 事実、生長の家副総裁の谷口雅宣氏などは、後者を論拠として、氏を批判する信徒に対し、「谷口雅春先生が大東亜戦争を”聖戦視”されていると考えている」のだとしたら、それは「大変な誤解である」と断定してゐる(谷口雅宣「再び大東亜戦争を考える」、『理想世界』平成四年三月、六七頁)。そればかりか、「多くの講師諸賢の中には、まだ”大東亜戦争聖戦論”を信奉し、それを”生長の家の真理”であるかの如く説かれている人がなきにしも非ずとも聞いている」が、「生長の家の地方講師である人の中に、現象世界と実相世界とを混同して、日本のかつての過ちを正当化する人がまだいることを座視しているわけにはいかない」(谷口雅宣「再び。聖戦”の思想を排す」、同右、平成四年四月、六八頁)とて、教団内の”聖戦論者”追放に血眼になつてゐるといふのだから(前掲「大東亜戦争は聖戦である」)、事は甚だ穏かではない。

 一方では「聖戦」を肯定され、他方では「聖戦」を否定されたかに見える雅春先生の真意は、果して何処にありや? 今回はこの問題を、読者とともに考へてみたいと思ふのである。

 「聖戦」を肯定された文章として先に引用した『碧巌録解釈』は、雅春先生の遺稿(昭和六十一年六月初版刊行)であるが、戦時中に「碧巌録の日本的解釈」として『生命の教育』誌や『生長の家』誌に連載されてゐた(この連載は大東亜戦争の進展に伴ふ用紙配給の困難により中絶した)ものを、昭和四十七年から改めて書き直し、最晩年の昭和六十年に至るまで書き継がれたものである。

 戦時中に書かれた原文と比較すると、「聖戦」を肯定された先の引用部分は全く同じだが、その前後の文章は多少異なつてゐるので、ここで改めて両者を比較してみたい。(傍線引用者、以下同様)。

「今の日本の戦争も何のためにあるかと云ふと、…大東亜全領域の東洋民族の実相実現のためである。西洋民族の利己主義的侵略のために今まで東洋民族がその処を得ず、その堵に安んぜず、その実相を発現し得ず、既に実在の世界にある実相が(御心の既に『天』に成るが如く)地上に顕現し得ずにゐた─その迷妄の圧迫を排除せんがための、真理実現の聖戦であるのである。

 (中略、ここに先の引用部分が入る。)

 一つの同一戦争が米英側よりすれば利己主義的爪牙(そうが)の争闘であるものが、日本的立場よりするときは聖戦である。こヽに彼らは利己主義を戦ひ、日本は宇宙大生命の聖意を戦う─爰(ここ)に勝敗の決はおのずから明かであり、戦争従事の意気込みもおのづから異るのである。」 (「碧巌録の日本的解釈」、『生長の家』昭和十八年二月号、三九〜四〇頁)

「顧みるに今まで此の東洋の地域は、西欧民族の利己主義的侵略のため、被害を蒙り、東洋民族は、神が彼等に依さし給うた使命を自覚することを得ず、劣等感に覆はれてその実相を発現し得ず、既に実在の世界にある実相が(御心の既に『天』に成るが如く)地上に実現し得ずにゐた─その迷妄の圧迫を排除せんがために摂理としてあらはれた地上天国実現の聖戦が、彼の大東亜戦争であつたから、今上天皇の慈愛ふかき大御心でさへも、その戦争を未発にとどめることはできなかつたのであつた。

  (中略、ここに先の引用部分が入る。)

 一つの同一戦争でも西欧側よりすれば利己主義的爪牙(そうが)の争闘であるものが、日本的立場よりするときは聖戦である。ここに彼らは利己主義を戦ひ、日本は宇宙大生命の聖意を戦ふ─爰(ここ)に現象的勝敗は別として、実相に於いてはただ勝利あるのみである。それ故に形の上の敗戦の如き後に、その大東亜戦争の目的であつたところの大東亜民族の解放が実現し、アジア、アフリカの諸民族、人間神の子の実相に目覚めて、西欧民族の奴隷の如き状態を一蹴して、それぞれの民族は独立国と成ったのである。これによって、地上にひとりの奴隷もなき天国的状態が実現する第一段階が終了したのである。」 (『碧巌録解釈』前篇、二一一〜二一二頁)

 両者の主な相違点は、傍線を付した部分に現れてゐるが、注目すべきことに、「聖戦」に関はる雅春先生の解釈は微動だにしてゐない。変ったのは「現象」としての敗戦(「形の上の敗戦」)を叙するくだりであり、大東亜戦争の「実相」、即ち大東亜戦争が「大東亜民族の解放」といふ「真理実現の聖戦」「地上天国実現の聖戦」であったといふ解釈は、戦前(戦時中)と戦後(雅春先生の晩年)を通じて一貫してゐるのである。

 では何故、冒頭に紹介したやうな「聖戦」否定の文章が、雅春先生の戦後の一部の御著書には現れてゐるのだらうか。実はこれは、大東亜戦争中に現象として顕れた「皇軍」の実態、ならびに敗戦直後に啓示された神示と深い関係がある。
  雅春先生は大東亜戦争中に「皇軍必勝」の短冊を日に夜を接いで書かれ、「言葉の力」によって「皇軍」を「必勝」に導かんとされたが、その「皇軍」を頭から否定するやうな言葉を、生長の家の熱心な信徒でもあった支那派遣軍総司令官・岡村寧次(やすじ)大将から聞き、大きなショックを受けてをられる。

 「私が昭和十九年十二月、北京において岡村軍司令官にお目にかかったときに、岡村大将は、副官までも退けて、私と唯二人きりで対談して下さったが、その時、軍の実情を内密に私にお談(はな)しになって、
 『今の日本軍は皇軍じゃないんですよ』と言われた。そのとき私は自分の耳を疑うような気持で「それでは一体”何軍”ですか?」と訊くと、岡村大将は『…今の日本軍は上官の命令が下に通らないで、占領地に往ったら戦勝の余威をかりて殺人、強盗、強姦勝手次第で、怒涛の如く狂いまわって、上官がそれを抑止しようと思っても、抑止できればこそ。(中略)若し今の日本軍が、日清日露の戦争のときのように、天皇から来る御意志がそのまま上官の命令となり、それがそのまま末端の兵隊に遵奉せられるような軍紀厳粛な軍隊でございましたならば、もう今ごろは大東亜戦争などはなかったでありましたろうに。』
 このように岡村軍司令官は撫然として言われた。しばらく二人の間に沈黙がつづいた。感慨無量であった。この話を聞いてから、私は現地の日本軍を『皇軍』として『必勝』づける勇気がなくなったのである。」 (『日本を築くもの』六四〜六五頁)

 この岡村大将の話によって、雅春先生の「皇軍」ならびに「聖戦」に対する考へに変化が萌したことは、早くも翌月の昭和二十年一月、随行の吉田講師に向つて次のやうに「皇軍」を否定され、「聖戦」をも「邪道の戦ひ」として否定された事実が証してゐる。
  「僕は今の日本の戦は 陛下の御意志でないと思ふ。随ってそれは皇軍と云ふには相応しくない。さう云ふ感じがする。(中略)大体、この頃新聞に出る『出血作戦』と云ふ大見出を見ると、これは邪道の戦ひだと云ふ感じがする。一視同仁の神のみ心から御覧になつたら、アメリカ兵と雖も神の子である。その神の子であるアメリカ兵を出来るだけ沢山殺す方が好いと云ふやうなさう云ふ戦争は神の御心ではない。随つて無論陛下の御心ではない。随つてさう云ふ戦争をする日本軍は皇軍ではない。」 (「新生への言葉」、『生長の家』昭和二十一年二月号、二一頁)

 そしてこの「皇軍」否定、「聖戦」否定の思想を裏書きするやうに、敗戦直後の昭和二十年十二月ニ十八日、雅春先生に「日本の実相顕現の神示」が天降る。
  「神が戦をさせてゐるのではない、迷ひと迷ひと打合って自壊するのだと教へてある。迷ひの軍隊を皇軍だなどと思つたのが間違だつたのである。」 (『秘められたる神示』 十二七頁)

 ここに、神示によって「皇軍」といふ言葉は明確に否定された。右の神示に対する雅春先生の解説は、次の通りである。
  「あの戦争は、”聖戦”だとか、”皇軍”だとか称されたけれども決して聖戦でもなければ皇軍でもなかった『迷ひと迷ひと打合って自壊するのだと教へてある』と仰せられてゐるのであります。」 (同右、一三二頁)

 かやうにして戦後の一時期、雅春先生は「聖戦」を否定し、「皇軍」を否定されるやうになった。冒頭に引用した「大東亜戦争が真に聖戦であったとか、神がはじめた戦争であったとか本当に正しい戦争であったとかいうことは生長の家の教には書いてないのであります」の一文を収めた『我ら日本人として』は昭和三十三年二月初版刊行、右『秘められたる神示』は昭和三十六年十一月初版刊行であるから、終戦直前から少なくともこの頃までの雅春先生は、さういふお考へであつたと見なさねばならない。
  けれども、よく考へてみると「迷ひの軍隊」として現象に現れた日本軍は、実相界の秩序たる「皇軍」と同じではないと神示は指摘しているだけで、「聖戦」については何も語つてゐない。「現象」の顕れとしての日本車が「皇軍」の理想に相応しくなかつたからといって、「実相」としての「聖戦」の理想までが否定される謂れはない。

 それかあらぬか、昭和四十二年三月初版刊行の前掲『日本を築くもの』になると、以前とは余程趣が異なってくる。ここでの雅春先生は、「現象」としての「日本軍の腐敗」に囚はれて「聖戦」を全否定する立場から、「聖戦の理想」を再び肯定せんとする立場に移行しつつあることが、明らかに認められるのである。

 「日本軍の腐敗、天皇の大御心でない軍の当時の実情などは、よほど『聖戦の理想』とかけはなれていたけれども、それだからといつて『聖戦の理想』や『天皇陛下』の大御心が”悪い”という訳ではない。現象が理想に伴わなかったのである。”悪い”のは『聖戦の理想』を貪欲や乱行や暴行で汚した軍の末端の一部である。」 (『日本を築くもの』六六頁)

 冒頭に紹介した『碧巌録解釈』は、かうした思想営為の後に辿り着いた、雅春先生の思想的総決算の書なのである。既に見た通り、そこでは「聖戦」を肯定された戦時中の御文章を一語も削ることなく、更に次のやうに書き加へられたのであった。
  「摂理としてあらはれた地上天国実現の聖戦が、彼の大東亜戦争であった」(『碧巌録解釈』前篇、二一一頁)。

 副総裁の「聖戦」否定論こそ、「現象」に囚はれて大東亜戦争の「実相」を見ない、雅春先生御自身も後には否定された、誤った考へなのである。
 




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